第7話 悪魔の書
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案の定と言うべきか、『神子』と呼ばれるこの子供は、ただの子供だ。何も知らない。知らされてもいない。
確信したところで折よく、礼拝所の奥にある扉のほうから声がした。見れば、『神子』のそれによく似た白く丈の長い衣に身を包んだ初老の男が立っている。
神職者なのだろうが、礼拝所の出入口にいた神官どもとは違い丸腰で、体格も貧相だ。だが、その眼光はいやに鋭く、余裕ある態度も相俟って帯剣した神官どもより余程こちらに威圧感を覚えさせる。白髪交じりの金髪は前髪もろとも後ろへ流され、無精髭の一つも見当たらない顔周りには年輪のように随所に皺が刻まれている。とりわけ眉間の皺は深く、紙片くらいであれば挟み込んで手を離しても保持できそうだ。
「鐘が鳴っても戻られないと思えば、何をしておいでです、神子。何故まだ礼拝者がいるのです。神官達は何をして……ほら、そこの者、立ち去りなさ──」
偉そうに命じながらこちらへ近寄ってくる男は俺を一瞥し、そのまま動きを止める。そして、じわじわと目を見開き、わなわなと震える。
「お、お前は……っ、」
その様子に、俺はまた新たな確信を得る。コイツだ。この男は、知っている。
(っ、か、返してください早く……っ!)
「あっ?」
不意に、『神子』が声を潜め、俺の手から『聖典』を奪い取る。男に気を取られていたせいであっさりと取られてしまった。不覚だ。
「オイなんだいきなり。返せ」
(か、『返せ』は違うでしょう。私の物です。それに貴男のためです。聖典には神子しか触れてはならないことになっているのです)
尚も声を潜める『神子』は、明らかに先ほど現れた男を気にしている。力関係が透けて見えて、せせら笑う。
「オイお前」
『神子』から『聖典』を取り返すことは後回しにして、俺は男に呼び掛ける。男からの返事はないが、男の肩がビクリと震えたから聞こえてはいるのだろう。構わず続ける。
「この本──『聖典』か。コレを、いつ、どこで手に入れた」
俺の問いに、男は答えず、震えるばかりだ。
◇
神学師の様子がおかしい。
私以外の者が聖典に触れているのを見て即座に激昂するとばかり思ったが、一向にその兆しはない。それどころか、まるで狼に怯える仔羊のように震えている。
「疚しいことがあるから震える。道理だ。震えるなとは言わない。が、」
男性の声は静かに、しかし強く、礼拝所の空気を揺らす。
「震えてばかりいないで、答えろ。お前はこの本をいつどこで手に入れた」
私から聖典を取り戻された男性は今や手ぶらで、足元に据えた剣を拾おうともしていない。それなのに牙を剥き唸る獣のような獰猛さを覚え、端で見ているだけの私までぶるりと震える。
「あ、あの」
声を上げた私を男性は一瞥もしない。だが、返事はくれた。
「なんだ」
「聖典は、私がこの世界に遣わされたときに持っていた物です」
「遣わされた?誰に」
「父です」
「父とは何者だ」
「神です」
答えた途端、男性の目がこちらを向いた。
「ああ、『神の子だから、神子様』だったか」
男性の目は探るように私の目を見る。
「そういう建前はいい。まさか大真面目にそんなことを信じているわけでもないだろう。今、俺が聞きたいのは、事実だ」
「え?」
「神子、悪魔の讒言です。耳を貸してはなりません」
神学師の声が飛んでくるが、震えに支配され揺らぐそれは、私には届かない。
「私は、神の子ではないのですか」
「うん?……ああ。なんだ、信じていたのか。悪かったな」
軽く、とても軽く、男性は婉曲な肯定をする。私は、神の子などではないのだ。
私が知りたかったことを、聞きたかったことを、この人は知っている。
「いえ、一つも。一つも、悪いことなどありません」
ドクン、ドクン、と自分の鼓動が聞こえる。喉が渇く。唾を呑み込む。
「ただ、教えてください。神子でないのなら、私は何者ですか」
「それをなぜ俺に聞く。知るわけがないだろう」
にべもない返事のあと、ああ、いや、と男性は緩く首を振り、再び、神学師へと目を向ける。
「お前も、聞きたいことは俺と同じだ。事実を、アイツに聞けばいい」
釣られるように私も神学師を見る。
「っ……神子、騙されてはなりません。神子は聖典とともに神に遣わされし聖なる子。それが事実です」
嫌になるほど見慣れた顔が、見たことのない表情をしている。焦り。怯え。そして怒り。今朝、スカルツォの靴に嘘を添えて私の心を打ちのめした姿は、見る影もない。
■
神職者の男の顔色が悪い。余裕は失われ、現れたときの威圧感はもはや皆無だ。それでもまだ諦めていない男の様子に俺は僅かばかり感嘆する。往生際の悪い人間は嫌いではない。
話す気がないなら手っ取り早く剣で片付けるつもりでいたが、気が変わった。俺は本を取り出す。『聖典』ではなく、俺がここへ来る前から持っていた本だ。
「えっ?その本は」
本を見た男の顔色がますます悪くなるのを確認している横で、『神子』が驚きの声を上げる。何に驚いたのかは想像がつくから、俺は神職者の男から目を離さない。
「おそろいだな」
「……おそろい……?」
分かりやすく言ってやるが、『神子』が納得した様子はない。『聖典』などと称し、『神子しか触れてはならない』と大事にしていたくらいだ、この黒い本が世界に一冊しかないとでも思っていたのだろう。
「!もしかして貴男も神子」
「勘弁しろ」
『神子』の頭が弾き出した仮説は皆まで聞く気にすらなれず、俺はげんなりと首を横に振る。
「『神子』なんてのは建前だと言ったろう。この街にしかない虚構だ。『聖典』も同じことだ。世界には同じような本があと何十冊と」
「神子!どうか聖典を開き悪魔撃退の祝福をお唱えください!」
都合の悪い事実を『神子』に知られたくないのだろう、神職者の男が声を張って『神子』に懇願する。しかし、『神子』は動かない。
「何十冊も聖典が……?」
「本来なら『聖典』と呼ばれるような代物じゃない。『悪魔の書』のほうがよほどしっくりくる」
「?しかし、書かれているのは人を救うための法です」
「『書かれている』?その本はもう粗方は元の姿に戻ったろう」
指摘する俺に、『神子』はハッと息を呑み、『聖典』を開く。いや、開いたのは、白紙が連なる、『聖典』だった物、だ。
◇
改めて確認しても、何度見ても、同じだ。聖典から、文字の、図の、記号の、一切が消えている。男性が叩いて、振って、消えた。
どういうことかなど、無論、私には分からない。ただ、事実、私の知る『聖典』は消えた。この目で見てしまえば受け入れざるを得ない。
「……これがこの本の『元の姿』……ですか」
「粗方、な。まだ完全じゃない。だから返せと言ったんだ」
「この本は元々、貴男の物だということですか」
だから、神学師がしきりに男性を悪魔だと糾弾するのを揶揄して『悪魔の書』のほうがしっくりくる、などと言ったのか。そう納得しようとするが、男性は私の邪推を追い払うように手を振る。
「本は違う」
「?どういう」
「神子!!悪魔の言葉に耳を傾けてはなりません!!どうか!!どうか聖典を開き悪魔撃退の祝福を!!」
私の言葉を遮って、唾を飛ばし騒々しいまでの大声を神学師が張り上げる。そのくせ、一歩も近寄ってこようとはしない。明らかだ。神学師は『悪魔』の彼を恐れている。滑稽だ、と、ふと思った。
今まで一度も思ったことはない。私の一挙一動が街の人々を消し去るきっかけになるのではないかと畏れ、あの神学師を始めとした神職者達の望むとおりに神子としてあらねばならないと己を律してきた。それが正しいと思ってきた。
時には私の思い付きで動くこともあったが、その結果、ラインハイトもブーホもスカルツォもいなくなってしまった。それは私の責任であり、ただ正しいことを正しいと信じ動く神学師を責めようとは思わなかった。だから、彼が声を荒らげるまで私が彼に刃向かったことなど一度としてなかった。
けれど、ああ、なんてことだ。
「下がりなさい。私はこの者と話をしています」
私はもう、気付いてしまった。神学師の、そして私の、滑稽さに。
「なりません神子!悪魔と対話してはなりません!」
「では言葉を変えます。悪魔撃退の祝福は唱えられません。ご覧なさい」
私は聖典を開き、その中身が神学師にも見えるように掲げる。
「祝福の言葉は──聖典は、消えました。唱えようがない」
これで黙るだろうか。むしろ激昂するだろうか。その答えを得る前に、男性が、その手に持っている聖典に酷似した本を開く。
「ひィっ……!」
私が掲げた白紙の聖典など興味がないのか、神学師は男性の持つ本のみ注視し、それが開かれたことを見て、真っ青な顔をさらに恐怖で染め上げ、躓くようにしながら踵を返した。神殿へと逃げるのか。
「オイ、アイツの名は」
男性は特に慌てる様子もなく、一歩も動かず、尋ねてくる。私に聞いているのだろう。それは分かったが、私は答えられない。
「その……思い出せなくて」
「薄情だな」
「う」
言い返せず黙る私に男性は面白くもなさそうに続ける。
「冗談だ。大方、本を持たせるときに忘れさせられたんだろう」
「え?」
「本を持つ者に名を知られるのはリスクが高いからな」
意味が分からない。しかし私の困惑など置いて男性は尚も続ける。
「が、名など知らなくともどうとでもなる」
膝まで恐怖に震えているのか、もつれる足を引きずる神学師は、神殿へと続く扉を開く。
「連れ戻せ」
男性が発した端的な命令は誰に向けたものなのか、それを理解できないまま、唐突に、神学師が神殿へ続く廊下の向こうから丸太か何かで突き飛ばされたかのようにこちらへと飛んできて、縦に床を転がり、ちょうど、男性の足元で止まる。
続く
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