第6話 聖典と神子
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「礼拝の……?」
俺の乱入には微塵も慌てなかった『神子』が、跪き見上げる俺を困惑の眼差しで見下ろしてくる。頭の先から足の先まで真っ白な『神子』は、瞳だけは青い。海の底のように濃い青だ。
「私を斬りに来たのでは、ないのですか」
問い掛けとともに青い瞳は、俺が鞘ごと腰から外し床に横たえた剣に向く。その目にあるのはやはり困惑でしかなく、恐怖など微塵もない。それどころか。
「だから誰が暗殺者だ。斬られる覚えでもあるのか」
「……ない、とは、言えません」
「ほう?『神子』は清廉潔白ではないのか」
「そうあるべき、では、あるのでしょう」
少しの問答。その間も『神子』の目は尚も剣を捉えている。その目に、困惑とともにあるのは、落胆だ。
「斬られたいのか」
俺の問いに『神子』は僅か、瞳を揺らした。視線を俺に戻し、口端の両端を持ち上げて目を細める。
「まさか」
これは、微笑、に見せかけた、無表情だ。それは熟達した表情の変化だった。
「それより。作法、でしたね。礼拝の。そういったものは特にありません。思うままに祈ってください」
本心を覆い隠した『神子』は一度ゆっくりと瞬きをして、俺をじっと見つめたあと、大事そうに胸に抱えていた本を手に取る。表も裏も背も黒い、見覚えのある、いや、見慣れた、本だ。
「その本は」
尋ねる俺に『神子』は淀みなく答える。
「聖典です」
「聖典。何か書かれているのか」
「人々の祈りに対する神の御答えが記されています」
どの頁を開くのかが決まっているのか、白い手は迷う様子も探す様子もなく確信のある手付きでパラパラと頁を捲り、止まる。
「選ばれし者よ、傲ることなく祈りなさい。祈りなくとも迷わぬ強き魂は神より与えられしもの。蓋し人には過ぎた力。常に己が信ずる道を疑い、祈り、神に問いなさい。神の御答えにより真の道は示され、選ばれし魂に更なる祝福を与えるでしょう」
「……?なんだ、突然」
「え?」
唐突に滔々と唱え出した『神子』に少々面食らう俺に、『神子』は『神子』で首を傾げる。
◇
何故、何も起こらないのか。
紛らわしくも封鎖された扉を破って乱入してきた剣を持つ男性は、私を斬りに来たのではなく、ただ礼拝に来たのだと言った。だから、迷いなど何一つない、救いなど求めていない様子で、むしろ私が懺悔をしてしまいそうになるほどの堂々とした態度に調子は狂いつつも、私はいつものとおり聖典を開き、男性の身なりや挙動を指標に祝福の言葉の第二千百三十六を選び、唱えた。
過去にも、同じ祝福の言葉を唱えたことはある。
私を神子と呼ぶに値するか疑う人が、今、目の前にいる男性ほどではないにせよ、迷いなく、救いを求めず、ものは試しと礼拝に来たときだ。一度や二度ではない。そのたびに私はこの祝福の言葉を唱えた。すると疑いを持ってやって来た人々は皆、目が覚めたような顔をして、恥入った様子で神と私への感謝の心を述べて立ち去った。しかし。
「今のは、俺へ向けた言葉か」
「ええ……そうです」
しかし、今、目の前にいる男性は、何一つ変わった様子なく、立ち去ることもなく、私を見上げて、ふん、と鼻を鳴らしている。
何が起きている。混乱する私を置いて、男性は口元を歪める。
「『選ばれし者』?馬鹿言え、誰が俺を選ぶんだ」
男性の言葉はともすれば自虐的な謙遜にも聞こえるが、違う。不遜なまでに真っ直ぐな黒い瞳が、私の背後から注ぐ夕日を反射して不穏に光る。
「俺は、選ぶ側だ」
「──」
選ぶべき祝福の言葉を誤ったのだろうか。もう一度、別の祝福の言葉を選び、唱えるべきなのだろうか。だが、どんな祝福の言葉も、この男性には必要ないのではないか。分からない。
選ぶべき言葉を見つけられないまま、私は男性の放った言葉を小さく繰り返す。
「……貴男は……選ぶ側、ですか」
「あ?……あー……何か、まずかったか。だから聞いたろう、作法があるなら先に言え。なんだ、どうしたらよかった」
私の動揺を悟った男性が尋ねてくる。致し方ない。私は素直に尋ね返す。
「いえ……いえ、そうではありません。そうではなく……何も、変わりはありませんか」
「ないな。つまり、何か変わる予定だったのか。さっきの『選ばれし者』だのなんだので」
「ええ、まあ、そうですね」
「それがその本──聖典?に、書かれているのか」
「大まかに言えば、そうなります」
細かな所作や祝福の言葉に関する説明をしたところで、この男性は興味など示さないだろう。そう思っての返答だったが、意外にも男性は、その返答では引き下がれないとばかりに首を横に振る。
「ちょっと見せてみろ」
「えっ?」
素早く立ち上がった男性が否応なしに私の手から聖典を奪う。
「っちょ、」
さすがに私は慌てる。聖典は私以外が触れてはならないことになっている。もし、こんな場面を神職者達に見られたら、この男性はただでは済まないだろう。
いや、思えばこの男性は鐘が鳴ったあと、封鎖された礼拝所の扉を破って入ってきているのだ。随時三人の神官が見張りに立っているはずだが、男性の乱入を神官達が未だに止めに来ないことから考えれば、既に男性はこの場から無事に去ることなどできないような事をしでかしてしまったあとなのかもしれない。
私の焦りなどどこ吹く風で、男性は私から奪った聖典の最初の頁を開く。それから、とても中を読んでいるとは思えない速度でパララララと頁を送り、最後の頁にたどり着くとそのままパタリと閉じた。
「なるほどな」
何が分かったのか、男性は何かに納得したように呟くと、閉じた聖典を縦にして右手に持ち、左手の掌に聖典の角を軽く打ち付ける。それを二回、三回と繰り返したかと思うと、今度は背表紙を摘まみ、バサバサとまるで頁の間にある塵をふるい落とすかのように振った。
「あ、あの、何を」
何をしているのか。問い終わる前に、ふわっと頁の隙間からこぼれ落ちた黒い塵が舞うのが目に映る。そんなに汚れていただろうか。恥ずかしく思うと同時に、見ろ、と男性は振るい終わった聖典を私に示し、先ほどのようにパララララと最初の頁から最後の頁までを順に開いてみせる。
「──え?」
そこには、何も書かれてはいなかった。開かれる頁、開かれる頁、最初から、最後まで、白紙だ。
そんなはずはない。物心つく前から持っていたのだ。見間違うはずがない。聖典には、びっしりと文字が犇めいていたはずだ。全頁白紙など、あり得ない。
「えっ?ちょっ、え?なんで……どういうことです?」
事態が呑み込めず混乱する私を、男性は面白くもなさそうに観察し、私の疑問には答えず、独りごちるように零す。
「その様子だと、本気で何も知らないな」
「え??」
何を、ともう一度問い直そうとしたときだった。
「神子」
呼ばれて、振り向けば、例の神学師が神殿へと続く扉の傍に立っている。そして、聖典はまだ、男性の手中にある。
続く
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