第2話 軽い命

 太陽の位置を知ろうにも空は分厚い雲に覆われ、雨足は強くなるばかりだ。

 時刻もろくに分かったものではないが、馬車に乗り込んだ頃には既に夕方に差し掛かっていた。辺りの闇も刻々と色濃くなってきている。夜は間近だろう。

 野営の道具も何もかも失ったというのに、今夜は野宿か。全裸で土砂降りの中を過ごすのか。できれば作りたくない思い出だ。

 とはいえ、方角さえ分からないでは動きようがない。どう足掻こうが死ぬことはないのだから遭難覚悟で彷徨うのも悪くはないが、目的の街から遠ざかるのは避けたい。今の俺の最優先事項は街へ辿り着くことだ。


「……」


 こうなっては仕方がない。

 山賊どもは無視して街へ直行するのが目的達成のために選ぶべき最短の道かに思えたが、無一物ではここから一歩確実に街へ近付くことすらままならないのであれば、盗られた物は全て取り返そう。

 幸い、山賊どもの居場所ならば手に取るように分かる。



 どうしても名を思い出せない神学師に見送られ、私は礼拝所から神殿の奥室へと戻ってきた。

 何もない部屋だ。四方を支えている豪奢な飾り細工が彫られた白く太い柱が唯一の装飾品と言っていい。

 つるりとした石の壁は白く、絵の一つも掛かっていない。外の光と風を取り込む天窓はあるが、景色を楽しむような窓は一つとしてない。

 あるのは、雲のように白くふかふかな寝台が一つと、その傍に白く冷たく重い石の脇机と椅子が一つずつ。脇机の上にはやはり白い石の燭台が倒れないように接着され固定されている。それだけだ。何もなくて、何もかもが白い。まるで私のようだ。

 私は体毛も体色も生まれながらに真っ白だったそうだ。もちろん生まれた頃の記憶はない。物心ついた頃にはこの部屋にいた。

 母はいない。父は天上におわすらしい。私はある日、誰もいないこの部屋に一冊の本とともに独り生まれ落ちていたそうだ。神である父が苦しみに喘ぐ地上の人々に救いを与えるべく私と聖典を神殿へと遣わされたのだ。そういうことになっている。


「……」


 本当のところは、どうなのだろう。

 私が知るのは、私はこの部屋にいて、人々を救うための聖典と呼ばれる本を一冊持っている。その事実だけだ。

 神職者達が言うには、白は神聖な色、らしい。この部屋が白いのも、私を神子などと呼ぶのも、すべてはそこに起因する。その割に、聖典の表紙は表も裏も背も黒いのだが。

 私は白い。私の体で彩りを持つのは瞳くらいだ。私は私の白に特別思うところはないが、瞳の青はとても良いと思っている。白は神聖かもしれないが、世界には彩りが不可欠だ。

 いつだったか、常に持っている聖典を眺めてふと、木製の本棚の一つでもあれば少しはこの部屋を好きになれそうな気がして、神官に本棚の調達を頼んだことがあった。神官の名はラインハイトといった。

 快く返事をしてくれたラインハイトの手配で大きな本棚が即日この部屋へと納められた。空っぽで。

 だから、今度は本が欲しいと頼んだ。ラインハイトは躊躇を見せたが、神子の頼みとあらばと頷いてくれた。

 そして翌日、ラインハイトは神殿から姿を消した。私の部屋の本棚は取り払われた。

 説明を求めた私にあのとき答えたのは、そういえば先ほど私の裸足を見咎めた神学師だった。厳しい顔と声で、本とは聖典でしかあり得ず、聖典以外の本は須く排斥すべき異物なのだと教えられた。消えたラインハイトの処遇や行方は何も教えてはもらえなかった。



 あれか。山中を真っ直ぐ山賊どもの居場所へ向かって十分程が経った。今、俺の視線の先には森に隠れるように建つ一軒の小屋がある。見覚えのある馬車もある。馬は馬車から外され、軒下で干し草を食んでいる。山賊のアジトといったところか。

 俺から剥いだ上等な戦利品が奴らの愉快を誘っているのか、小屋の中からは下品かつ愉しげな笑い声が雨音をものともせずに響いてくる。


「──」


 少し考えて、まあいいか、と特に準備もなく扉へと向かう。気配は気にしなくとも雨が消してくれる。

 相手の人数も武器も不明だが、なんとかなるだろう。なんとかならなかったとしても、どうせ奴らに俺を殺すことは不可能だ。そして今の俺は命のほかに何一つ失う物がない。全裸も悪くないかもしれない。


「……」


 いや、嘘だ。服は欲しい。人として、服は着ていたい。季節柄、寒いとは感じていなかったが、長時間雨に打たれ続けてさすがに身体が冷えてきた。そろそろ服を着たい。

 扉の前に立つ。響く笑い声に負けまいと強めに四回、ノックをする。扉の向こうが、しん、と静まった。

 中にいる山賊が一人、扉に近付いてくる気配がする。


『誰だ』


 問われたから、答える。


「俺だ」


『あ?どこの俺サンだ』


「さっきお前らに頭ぶち抜かれて荷物を盗られた俺だ」


『何ィ……?』


 扉の向こうの山賊は訝しげに唸ったかと思うと、目撃されてんじゃねぇかマヌケども、と仲間に向かって馬鹿にした笑い声を上げてから、また、俺に問いかけてくる。


『俺らの悪行を目にしてここまでつけてきたのか?俺らを強請ろうってか』


 なるほど。俺を被害者本人だとは思っていないらしい。確実に仕留めたと確信しているのか。


「強請るつもりはない。俺から盗った物を返せ」


 通じないだろうと思いつつ、一応は俺の意思を伝えてみる。山賊は笑う。


『ハッハ!いいぜ、入れよ。何人連れてきたか知らねぇが、俺らに勝てるつもりならめでてぇこった』


 自分達の強さに余程の自信があるらしく山賊は言い、その割に用心深くも閂でも差してあったか、ギッ、と扉が軋む。同時に俺は足を振り上げ、扉が開く前に扉を渾身の力で蹴り飛ばす。蝶番から解放されて吹き飛んでいく扉の裏からグギャッと蛙のような声がした。笑っていた山賊が潰れたらしい。めでたいことだ。

 開け放たれた小屋には、馬車で見た顔、見ない顔、半々くらいの人間がいた。予想していたより大所帯だが、問題はなさそうだ。各々が口汚く人語に近い何かを叫びながら刃物や鉄砲を取り出している。

 刃物はちゃちな投擲ナイフが多い。中には盗品だろう長剣を持つ者もいて、その中に俺の剣を手にした馬鹿を一人見付けるが、特に忠告してやる義理もないから黙って見過ごす。

 鉄砲は馬車で俺を撃ち抜いた拳銃もあれば、狩りに使うような猟銃を持つ者もいる。弾丸だけでも相当の値がするはずだが、これだけの数を揃えているとなると今まで一体どれほど強奪で儲けてきたのか。いよいよこの山は人骨だらけなのではないかと思えてくる。



 深く反省した私は、以来、本棚も本も欲することはなくなった。

 代わりに、市中礼拝の折に知り合った街で古書店を営んでいるブーホという名の店主に頼み一冊ずつ本を借りることにした。

 市中礼拝は簡素なテントを礼拝所として設営して行われる。テントの出入口には神官が見張りに立つが、礼拝中、テント内は私と信徒のみとなる。その隙に私は読み終わった本を神衣の裾に隠し、ブーホが礼拝のため私の前に跪くときそれを新しい本と入れ替えてくれた。

 金銭の類を持ち合わせていない私はブーホになんの見返りも与えられなかったが、彼は神子が読んだ本だと売れば倍以上の値段で売れるから構わないと笑って貸し出してくれた。

 もちろん神職者達には内密だった。一冊であれば神衣に隠して持ち出すのも持ち込むのも容易かった。月に一冊。それでも何十冊の本を読んだろう。聖典を読むためだけに教えられた私の貧弱な語彙では不明な言葉の意味を周囲の文章から類推することが楽しかった。多くの本を読んだ。色々な言葉を、文化を、世界を知れた。

 そういえば、教わることもないのに語彙が増えていく私に疑問を覚えたのか、このときもそう、あの神学師だったが、何故と問われたことがあった。全てを知る父に教わったと答えれば神学師は黙った。

 しかし、それももう数年も前の話だ。

 ある月の市中礼拝から、ブーホは現れなくなった。それまでは毎月欠かさず礼拝に訪れていたというのに、彼はぱたりと姿を消した。

 最初こそ身体を壊したのだろうかと心配しただけだったが、ふた月続けてともなると異様に感じた。

 そうして戸惑う私を観察するような目で見つめながら、件の神学師は、神子の読んだ本だなどと嘯き邪教の書を高値で売りさばいていた悪徳古書店が街にあったため取り潰したと報せた。ブーホの処遇も行方も、やはり教えてはもらえなかった。


「──」


 ふと、先ほどの、礼拝所での神学師との遣り取りを思い返す。

 シュピゴラの信心を証明するためとはいえ、スカルツォの名を出したのは軽率だった。神子として恵まれぬ者への施しならば問題ないと思ったのだが、神学師はそうは捉えなかったように見えた。私はまたしても誤った道を選んだのではないか。激しい後悔が押し寄せてくる。


続く

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