選ぶ人

簇谷 和囲

第1話 森と礼拝所

 なぜこうなった。全裸で独り地面に転がり雨に打たれながら、俺は辺りを見回す。見覚えはある。ここは山中だ。しかし無論のこと、全裸で登山に挑んだ覚えはない。


 礼拝所は広い。反して、何もない。

 そのだだっ広い空間の中心に、聖典を片手に開き立つ私の前で、憔悴した様子の女性が一人、跪き、頭を垂れている。一心に祈りを捧げる姿を私はただ、見つめる。見つめながら、一、二、三、と、胸中で数える。

 十数えても動かなければ、そのまま二十まで数え、それでも動かなければ更にまた三十まで数える。

 三十数えても動かなければ、垂れた頭に手を翳し、言うのだ。


「悩める人よ、憂うことはありません。私には見えるのです。貴女には高潔なる魂が宿っています。貴女の選択には必ず神の御答えが示されます。己が信ずる道を歩みなさい。神はその選ばれし高潔なる魂を決して見捨てはしません」


 丸暗記している台詞のうちの、一つだ。何を言っているのか、その意味は自分ではよく分からない。

 ただ、こう言えば、憔悴した様子でいた女性は、ああ、と感じ入った声を上げ、元気を取り戻し、救われた様子で私に感謝を述べ、帰っていく。

 礼拝所には、元気になった女性と入れ替わりに、顔色の優れない男性が入ってくる。

 毎日、毎日、救っても、救っても、一向に終わりは来ない。



 今の状況に陥る前、俺は山越えの乗り合い馬車に乗っていた。歩いて山道を越えるつもりだったところに人の良さそうな御者が、席が一つ空いているからどうですか、安くしますよ、と声をかけてきたのだった。

 見れば俺以外にも複数の乗客がいて、俺が乗れば馬車は満席だった。山向こうにはここらで一番に栄えた街があるからだろう、と思った。俺もその街に用があるから尚のこと、なんの疑問もなかった。

 乗客全員がチラチラと俺を気にするような視線を向けてくることにも特に疑問はなかった。俺の容姿が物珍しいのだろう、と、その程度にしか思わなかった。

 馬車に揺られてしばらくは空や麓を眺める穏やかな時間を楽しんだ。

 その途上で、山賊が出た。

 といっても、男が一人きりでナイフ片手に馬車の前に立ちふさがり、有り金と金目の物をすべて差し出せば命だけは見逃してやろう、と述べただけだった。馬車が加速するだけで、振り切ることも、うっかりを装って轢き殺すことさえも容易だったろう。

 しかし、御者はそのどちらもすることなく、馬車を停止させた。愚策だ。思った瞬間、横合いからこめかみに衝撃を受けた。何事かと驚く間もなく俺の視界は急激に暗くなっていった。視界が完全に暗転する直前、最後に、真隣にいた乗客が小さな鉄の筒を俺に向けていたことだけは視認できた。

 

 そして今、俺は山中で独り、全裸で転がっているわけだ。他にいたはずの乗客は一人として転がっていない。

 要するに、御者も、俺以外の乗客全員もすべて、あの馬車丸ごと、山賊の撒いた餌だったということなのだろう。麓で金を持っていそうな余所者に親切顔で声をかけては馬車に乗せ、人目のない場所まで来たら鉄砲で撃ち殺し身包み剥いで山中に棄てていくといったところか。

 手際の良さから察するにあの山賊どもの犯行は既に一度や二度ではないのだろう。この山一帯を捜索すれば一体いくつの人骨が出てくることか。

 撃たれたこめかみを指先で擦る。血の一滴も着かない。痛みも傷みもないそこが疼いた気がしたが、やはり気のせいだった。


「にしても……全裸は厳しいな……」


 独りきりであることを確信して、遠慮なくぼやく。

 雨が降ってきたのは不幸中の更なる不幸だ。掠り傷一つなくとも、屋外で全裸に雨は沁みる。何も下着まで盗らなくてもいいだろうに、血も涙もない悪党どもだ。

 とはいえ、もしも下着まで金になると思ったのだとしたら、見る目は確かだ。男の中古品の下着が売れるかは知らないが、見た目は地味でも上等な代物であったことは間違いない。

 外套から下着一枚に至るまで上等品で固めるといつかこういうことになる危険があるとは思っていたのだ。やはり固辞するべきだった。そう後悔するが、俺がこんな目に遭ったと知っても尚、きっとあの世話焼き爺はまた最上級の上等品一式を俺に手配するのだろう。溜め息が出る。

 しかし、それでも、全裸よりはマシだ。遥かにマシだ。今は一刻も早く爺に会いたい。滅多に思わないことを思って、だがそのための手段がない。

 街へ下りて服を買おうにも当然のように荷物も盗られて金もない。それ以前に服がなければ街へは下りられない。下りたとしても露出魔の烙印を押されて神殿附きの牢獄行きか、精神の異常を慮られて礼拝所附きの療護院行きだろう。どちらにせよ監禁され、虐げられ、果ては神殿の供物台に載せられる運命だ。考えて、はたと思考を止める。

 そうか。その手があったか。

 俺は元々、山向こうの街を宗教国家と謳っている集団に用があったのだ。そのために山を越えようとしていた。しかし、山を越えたあとで俺の用がある街の深部にまで入り込む手段は、まだ講じていなかった。

 宗教施設に当たりを付けるつもりではいたが、礼拝だ祈願だと言っても俺の容姿を見て素直に入れてくれる礼拝所などあろうはずがない。仮にあったとしても、逆にそんな場所には俺のほうが用がない。俺を受け入れない場所に、俺は用がある。

 どう入り込むかは山を越えてから考えようと思っていた。だが、そうだ、今の状況を利用すれば、牢獄か療護院のいずれかにであれば、簡単に入り込めるのではないか。

 入り込んだあとどうするかは、入り込んでから考えればいい。何をされようが死ぬことはない。脱獄の機会なら掃いて捨てるほどあるだろう。何しろ、興りは十年前、巨大化したのはここ数年、過去に一度として襲撃を受けたことのない生まれたての集団だ。取るに足らない。

 それに、投獄されるに当たって没収されることを惜しむような物は既に悪党どもにすべて盗られてしまった。今の俺に失う物は何もない。全裸で街に出没して正気を疑われることで失う何かはあるような気がするが、気のせいだろう。俺には尊厳や名誉など元々ない。

 つまり、今の状況、これは、渡りに船というものではないか。

 そうとなれば善は急げだ。選ぶべき道が定まって俺は漸う地面から起き上がり、


「……」


一層激しくなってきた雨に全身を打たれながら、前後、左右、ついでに上下を見渡し、


「……街はどっちだ……」


途方に暮れる。



 夕刻の鐘が鳴る。礼拝所の出入口が封鎖され、途絶えることのなかった悩める人と救われた人の交通が遮断される。

 終わりはないが、区切りはある。本日の勤めはここまでだ。部屋へ戻ろう。踵まで伸びた髪と脚より長い神衣の裾を踏まないように気を付けながら、私は踵を返す。

 鏡のように磨かれた石の床はひんやりと冷たくて心地いい。


「また裸足で」


 いつの間に現れたのか、礼拝所から神殿に続く扉の前に立っていた神学師は私の足を見て眉間に皺を寄せる。


「御靴ならば用意させましたでしょう。神子が木靴は歩きにくいとおっしゃるのに心を痛めた職人が帆布で拵えた一級品です。お気に召しませんでしたか」


「いえ、そのようなことは決して」


「御無理なさる必要はありません。裸足でいらっしゃることが何より御心の表れでしょう。腕は確かな職人が御満足いただける物を作れなかったということは即ち信心が足りなかったということ。直ちに保護し教化更正を」


「お待ちください。シュピゴラの信心は確かです。靴の出来映えは素晴らしかった。ただ、私が靴のないスカルツォに施したのです」


「……?シュピゴラ?スカルツォ?なんですかなそれは」


「シュピゴラは靴職人の名、スカルツォは市場に住む孤児の名です」


 私の答えを聞いて、神学師は眉間の皺をますます深くし、神子、と低く唸るような声を絞り出す。私は失敗を悟るが、もう遅い。


「あなたの御声は神の祝福です。信心の足らぬ靴職人の名、まして自ら研鑽を積むこともせず恐れ多くも神子に物乞いする孤児の名を軽々しく呼ぶなどと……他の信心深き信徒が知ればどれほど嘆き悲しむか……!」


 神殿に勤める神職者は皆、私が神職者以外の者の名を呼ぶことを酷く嫌う。我を忘れて怒り狂うほど嫌う。今に始まったことではないが、このところ余り外の者の名を知る機会もなく、知った名を神職者に話して聞かせる機会は尚のこと皆無で、忘れてしまっていた。

 迂闊な私のせいで神学師はすっかり怒り狂っている。私が靴を履いていないのはシュピゴラに信心が足りないからではないと言ったはずが、通じていない。怒りでそれどころではないのだろう。

 スカルツォに関しても、物乞いなどと蔑まれるような人物ではない。齢十歳にして家族なく独りで生きている傑物で、月に一度の市中礼拝の際に知り合った私の良き友人だ。年の頃が同じであることもあって意気投合し、神殿と礼拝所の往復しか歩かない私より余程有意義に使えるだろうと私から進んで靴を贈ったのだと、今、この神学師に言ったところで理解は得られないだろう。沸騰した鍋の中の湯ようにグツグツと止め処なく神子の使命について吐き出し続けている。

 私は諦めて、従順に微笑んだ。


「まったくそのとおりです。心に留めておきます」


 そう言って、最後に名を呼んで落ち着かせるつもりだったが、そういえば、この者の名はなんだったか。思い出せないでいるうちに、名を呼ばずとも私の肯定だけで足りたらしい神学師は我を取り戻し、お分かりいただけるのであれば結構です、と引き下がる。


続く

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