5.2

◆◆◆


 私には終わりが近いことがわかっていた。そしてそれがハッピーエンドなんてものではないことも。

 私たちにとってのハッピーエンドとはなんだろう。救助ヘリに乗ってきた軍人さんがワクチンの開発を知らせてくれるとか。それとも細菌には寒さに弱いとかの弱点があって、それを突いて病気を根絶させていたとか。

 色んな映画を見てきた私たちには色んな希望的な未来を描くことはできたが、いざ口にしてみるとどれも作り物臭く、絵空事にしか思えなかった。

 だから私たちの終わりはきっと、このまま緩やかに完成していくんだと思っていた。それで構わないとも。私たちの逃避行は十分に有意義で、意味のあるものだと感じていたから。

 でも。

 それなのに。

「ごめんね、恵理。私本当はまだ信じられていなかったの」

 私は苦しむ彼女の前に、私が苦しませている彼女の前に膝をつき、両手を祈るように重ねた。まるで神の膝許で許しを請うように。

「恵理は私を選んでくれたのに、信じてくれていたのに、私は信じられなかった。……あなたじゃなくて、私自身を信じられなかったの。あなたをちゃんと見ていられているか、目の前の美しさだけに心を許していないか、私は自信がなかった」

 それはおそらく、どうでもいいような些細なこと。忘れてしまってもよかったこと。そして、私にとって一番大事なこと。

「私は恵理に夢中だったよ。一緒にいてこんなに楽しい人は今までいなかった。……でもそれがあなたを覆っている美しさのせいなのか、あなた自身になのか、わからなかった。あなたは私がちゃんと見ているって言ってくれたけど、確信なんかこれっぽっちも持てなかった。……でも、私たちにはもう確かめる時間だって残ってなかった」

 そう。終わりは近かった。手を伸ばせば身を焦がすほどに。

 どうせ終わるなら。

 二人とも終わるから。

「私は最後に、信じたかった。絶対の自信を持ってあなたの隣にいたかったの。だから……」

 そして私は醜く地面に頭を擦り付け、懺悔を続ける。決して許されざる告白を、自らの汚れ果てた体で押さえつけながら。

「だから私は、あなたから美しさを奪うことにした。あいつらと同じ醜いものにすれば、私の本当の気持ちがわかると思ったから」

 罪の告白は、やがて悲鳴へと変わる。己がした残酷な事実に身を裂かれるように。

「本当はあの時、知ってたの……っ。あそこにあれがいるって! だけどそれを知りながら、私はあなたを行かせた……!」

 私の体は氷のように冷え切って、泥を詰めたように重かった。私は冷水の濁流に呑まれてしまったかのように体を震わせ、必死に地面に食らいついていた。溺れてしまえば、呼吸を諦めてしまえば楽になれるのに、苦痛にしがみついて。

「だから私は……私は恵理を……」


「知ってたよ。そんなこと」


 その声に。私が一番聞きたかったその声に。私は顔をあげた。水面から頭を出して呼吸に喘ぐように。

「恵理……?」

「由羽はおバカさんだね……。そんなのとっくに知ってるのにさ……」

 彼女は体を起こしていた。額から汗を零し、唇は震え、それでも真っ直ぐに私を見下ろして。私を私だとはっきり見据えて。他の何かに侵されてはいない、恵理自身だ。

 私は苦痛を滲ませる彼女に、それでもその言葉の意味を求めなければいられなかった。

「知ってた、って……どうして……」

「だってさ、由羽、死にそうな顔してたもん……。あの場所が安全だって私に伝える時……まるであなたが死んじゃいそうなくらい、思いつめた顔して……辛そうな顔して……。そんなの、気付くに決まってるじゃん」

 彼女は笑っていた。いつものように、穏やかに。その顔はもはやかつての面影も残さないほどに荒れ果てているのに、その原因となった私を見つめ、穏やかに。

「じゃあ……じゃあなんで! 気付いてたならどうしてっ!」

「私も同じ気持ちだったから」

 その言葉に、私は彼女の瞳は穢されずあの頃のままだと教えられる。

「ごめんね。やっぱり謝るのは私の方なんだ。私は偉そうに由羽を信じるなんて言ってたけど……私だって本当は信じ切れていなかったの。もしかしたら、由羽は私の外見が、私自身じゃない何かが気に入って一緒にいてくれるんじゃないか、って……」

 恵理は、自らの腕を撫でた。朽ち果て崩れ落ちそうなその腕が、今では愛おしいとでもいうように。

「だから私も確かめたかった。私が醜く腐り果てても、由羽が一緒にいてくれるかどうかが」

「そんな……どうなるかなんてわかって……」

「うん。……それでも知りたかったの。ちょっと怖かったけど、でもやっぱり私も知りたかったから」

 彼女が手を下ろす。私の方へと。私に近くへ来て欲しいというように。私はこの手を取ってもいいのだろうか。掴みたいとまだ思っていられているのだろうか。

「私たちはね、同じなんだよ。どっちが悪いかとかじゃないの。二人で確かめることにしたんだよ。二人の本当の気持ちを」

 彼女の手は、歪で、皺だらけで、固くて。そして温かかった。

 醜く腐ったその繭の中に、とても柔らかで小さな太陽を隠しているかのように。

 それを私は両手で包み込む。いつの日か、彼女と手を取り合って歩いた日のように。彼女は私を掬い上げ、柔らかなベッドの上に誘い込んだ。

「ねぇ、一番大事なことをまだ聞いてないよ」

 彼女の隣は私の定位置だ。この世界のどこよりも過ごしやすい、私の居場所。

「由羽の気持ち。私がこんなになって、由羽の気持ちが変わったかどうか」

「わたし、は……」

 彼女の瞳から溢れたそれは、もう昔のように真っ直ぐには流れていかなかった。歪んだ道を通り、時折溜まり、そして頬を伝って私の手の上に落ちた。それは私のものと混ざり合う。

「私は、ここが、好き。恵理の隣が」

「うん」

「恵理の手がしわくちゃになっても、恵理と手を繋ぎたい」

「うん」

「恵理の皮膚が剥がれていったって、恵理を抱きしめたい」

「うん」

「恵理の顔が別人みたいになっちゃっても、恵理と話していたい」

「うん」

「私……私の気持ち、今でもこれっぽっちも変わってないっ……変わらなかったっ……!」

「うんっ」

 恵理は、誰でもない恵理は、私の隣で私の言葉を聞いてくれる。それはいつだってそうだった。ずっと変わらない、腐らない、私たちの気持ち。

「やっとわかったっ……私、恵理のこと、大好きだ……っ!」

「ふふ、ほんとだ……由羽、私のこと大好きじゃん」

 結ばれた手はほどけない。代わりに私たちはおでこをくっつけ合わせて、その手をびしょびしょに濡らしていった。私たちの口からは嗚咽と笑い声ばかりが休みなく溢れ、空っぽだった世界を満たしていった。

「私たち、バカだよね……世界がこんなになるまで気持ちを確かめられないなんて……」

「うん、本当にバカだ。最初からわかってたことなのに……」

 私と、恵理は、もしかしたらこの世界で一番のおバカさんなのかもしれない。世界にぽつんと残された、最後のおバカさんだ。だけど、彼女と一緒ならそれも悪くない気がした。

「ねぇ、由羽。私やっぱり世界の終わり好きかもしれない」

「うん、私も。恵理と一緒に映画を見る時、いつも思ってたよ」

 この世界は緩やかに終わっていく。流れるように腐り朽ちていく。

 だけどそれは何もがなくなることでは、きっとない。

 美しさを奪われた世界は、確かに何かを残している。

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