4.2
◆◆◆
うそつき
うそつき
でも
だいすき
私は祈っていた。その悪夢が終わることを。
けれど、頼れるような神も仏もいないことを私たちはもう十分すぎるほど学んでしまっていた。それでも、私は何かに祈らずにはいられなかった。
冷たい壁に背を貼り付けて、震える両手を重ねて。抱えた足の感覚はかなり前からなくなっている。私は自分の体を小さく小さく丸めて、その降りかかる時間から身を隠そうとしていた。
聞こえてくる絶叫とベッドが軋む音に肩を震わせながら、私は時折音の方を窺った。そして彼女が拘束を解こうと半狂乱で体を跳ね上げて暴れるのを目にして、また祈りに戻るのだ。誰かが、この声を聞いて助けに来てくれれば。言葉の形にまで辿り着かないこの声を、夜を裂くようなこの声を誰も聞いていないなんてありえないんだ。そう、誰かが来てくれて……。
でも、どうやって? 誰かが来てくれたって何もできない。だからこれが過ぎ去るまで、私たちは耐えなければならない。そしてまたあてどない祈りを捧げる。あと少し……今日はあともう少しのはずだ……。
世界の全てが寝静まったような夜更けに、ようやく彼女は落ち着きを見せ始めた。胸の動きがなだらかになっているのを確認して、私はその場で深く息をついた。
ベッドの傍らに落ちている逆さまの洗面器。私はこぼれた水を一瞥してから新しい物を取りに行く。恵理の汗を拭いながら、その表情が安らかなものに戻っていることを見届けて、私は元の場所に戻ってまた膝を抱えた。
彼女の、恵理の発作は日に日に激しくなっている。始まってしまえばもう私の声も届かないし、抑えることもできない。発作の時間は毎日少しずつ増え、そして反対に彼女が彼女でいられる時間は短くなっている。
でもまだ。まだあれは恵理だ。私は自分に言い聞かす。発作が収まって少し経てば目を覚まし、私と会話してくれる。いつもの前向きな恵理だ。この明け方にかけてのしばしの休息が、彼女が次目覚めた時何を話すかを考える時間が、私にとって祈っていてよかったと思える時間だ。
彼女の寝息を聞きながら、私は昔のことに思いを馳せる。恵理とどんなことをしたか、どんな話をしたか。そしてこれからどんなことを話すか。それは気付けば夢となり、私は意識の片足を踏み込んでいた。
「由羽、そこにいる……?」
私は優しい声色でゆっくりとこちらに引き戻された。夢との境界線は暖かく、とても穏やかだった。窓からの光が夕日であることに気付いて、私はそこから離れるように彼女の方へ体を引きずった。
「なんか、楽しいこと考えてたでしょ?」
暗がりの中でも彼女が微笑んでいることはわかる。いつもの恵理の、綺麗で、ほんの少しイタズラっぽい彼女だけの笑顔だ。その幼さと、美しさと、妖しさの繊細な調合は彼女にしかできない。彼女にしかできないけれど、いつも一番最初に私へ振舞ってくれるのだ。
「うん、よくわかったね」
私はベッドの片隅に腰を下ろした。こうすると彼女の顔がよく見える。ひび割れた頬に、眼球が転がり落ちそうなほど骨が目立つ眼孔、それに周りには抜け落ちたたくさんの髪。彼女はそこにいつもの優しい笑顔を浮かべた。
「だって由羽のことだもん。……聞かせて?」
恵理の痩せこけた手を取って、私は話し始めた。高校に入った時のこと、初めて話した時のこと、映画を観に行って夜遅くまで感想を言いあったこと、それに私の家でお泊りもしたっけ。その時もこうやって、ベッドで二人で語り合ったんだ。
二人でいる時の私たちは、絵本で、教科書で、日記だった。話すことはいくらでも出てくる。彼女が昔々と始めれば、私はめでたしめでたしと最後まで続けられるし、彼女が難しい問題を出せば、私は簡単に答えられる。彼女と私の日記は、毎日が一冊分だ。
いつだって私たちはずっと話していた。チャイムがなって、夕日が落ちて、夢に足を踏み入れるまで、ずっと。今日だって、話そうと思えばずっと話せたはずなんだ。
あの頃も、昨日も、今日も。だけど。
「由羽は心配性で……あの時もさ……」
音楽のように流れる会話は、彼女が酷く咳き込むことで途切れた。彼女は浅い呼吸を繰り返し、私の手を強く握った。
「昨日は、もっと……話せたんだけどなぁ……」
彼女は顔面を強張らせ、震える唇を食いしばった。私は恵理の肩にまで毛布をかけ、額に水を含んだタオルを乗せる。
「また、明日話せばいいよ。今日は少し休もう?」
宙を見たまま、恵理は何度か深呼吸を繰り返し、引きつったように口角をあげた。
「……うん。ごめん、ね……もっと、話したいんだけど……」
静かに目を閉じてからほどなくして、彼女は苦痛に呻き声を上げ始めた。すぐに額から大粒の汗が流れ落ち始める。あと少ししたら、彼女はもう私が誰かもわからなくなる。何を話したかも忘れてしまう。
今夜もまた、彼女が彼女でなくなる時間がやってきた。
私は一歩下がって、彼女を見下ろした。手錠で繋がれた彼女の姿を。もう美しかった名残など失くした彼女の姿を。
そして囁くように語り掛ける。彼女の苦痛の声に紛れてしまうような声で。
「謝る必要なんてないよ。だって……」
謝るのは、私の方だ。
「だって、恵理があいつらと同じになるように、私が仕向けたんだから」
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