3.2

◆◆◆


 あなたに明日があるかわからない

 あなたに未来があるかわからない

 でも私には昨日があったかどうかも、わからない

 だから確かめよう

 私たちの昨日が本当にあったのかを

 さぁ、今すぐにでも

 だって明日があるのか、わからないから

 

 

 あの日から、私たちには帰るべき場所がなくなった。

 一つの場所に籠っていたらあの頃と同じだ。そう思って行く当てもなく歩けるだけ転々と渡り歩いた。食料のある所、治安のマシな所、知り合いができた所。それらも全て私たちにとっては通過点だった。

 けれど拠点となる場所を作らなかったわけではない。ある程度住みやすそうだったり、どうしても休まないといられない時には腰を落ち着けられる場所を作って、しばらくそこに住んだ。

 大概は戸の締められる空き家。食べ物は無かったとしても、人のいない家を見つけるのはそこまで大変なことではない。今じゃ人がいなくなることも、人が人じゃなくなることも普通なんだから。

 今私たちがいる場所もそういう新しい拠点だ。そしてたぶん、最後の。

「恵理、食べられそうな物取ってきたよ。ろくな物はなかったけど」

 私の声を聞くと彼女は暗がりから億劫そうに手を振った。

「……ありがと由羽ー。ごめんね一人で行かせて」

「そんな体で歩かせる方が気が重いよ」

「だよねぇ。あいつらはいなかった?」

 私は袋から出した缶を机の上に一列に並べながら答えに少し時間を置いた。先に消費期限を確認していたからだ。

「うーん、3……いや4人かな。でも襲ってくるやつじゃなかった」

 あいつらはゾンビなんかと呼ばれるから勘違いしやすいが、別に見境なく襲ってくるわけではない。思考能力を失った人間、やつらは野生動物みたいなものだ。近づかない限りはそうそう関わってこない。近づき過ぎたり向こうの気が立っていれば危ないことに変わりはないので細心の注意を払うけれども。

「あーぁ。私ももう少ししたらあいつらの仲間入りかぁ。花の女子高生ゾンビ。高校卒業する前に人間を卒業しちゃうなんて思ってもみなかったな」

 彼女は古びたベッドの上でわざとらしく、うーとかあーとか呻き声をあげてみせた。私は返事をしないで缶をいくつか腕に詰め込んで運んだ。

「どう、自分で食べられそう?」

「無理かも。体がゾンビってきた。由羽食べさせて」

 私は彼女の気の抜けるような物言いにいい加減堪えきれずに笑いを漏らしてしまった。私の顔を覗き見て、彼女も嬉しそうに口の端を大きく横に伸ばした。

 持ってきた中で一番大きい缶の封を開けると、楽しそうに体を起こしていた恵理は途端に眉間に皺を寄せる。

「……何それ? 何の缶詰?」

「たぶんホールトマトじゃない?」

「私トマト苦手」

 恵理はうへぇ、という顔をして私がスプーンで口元に運ぼうとするのを拒んだ。

「選り好みするような状況じゃないでしょ」

「違うよ由羽。逆。こんなひどい状況だからこそ、自分の好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、ってちゃんと言うの。……だから私そっちの缶詰がいい」

「随分とグルメなゾンビさんだこと」

 私は掬い取ったトマトを自分の口に入れてから、別の缶詰に手をつけた。

 冷え切った食事を終えて私が空き缶を外に出して戻ると、彼女はまたベッドに横たわっていた。湿ってカビっぽくなった布団の臭いが鼻を突く。

 近づいた私を見上げる恵理の額には大玉の汗が浮かんでいた。起き上がろうとする彼女を止める。

「恵理、暑い?」

「うーん、少し。クーラー入れて」

 もちろんもうこの家には電気など通っていない。場を和ます冗談だとはわかっていても、表情に苦痛を浮かべ始めた彼女の前ではもう笑うことはできなかった。

 今日も始まったんだ、発作が。私は濡れたタオルを用意しながら唇をきつく結ぶ。

 恵理の病状は日に日に悪くなっている。初めはたまに頭痛を訴えるくらいだったのが、発熱や嘔吐が加わり、次第に一日の中で行動できる時間は短くなっていった。

 そしてここ数日起こり始めた発作。突発的な発熱と、錯乱。軽口で私に気を使わせないようにしているけれど、本当は相当辛いことはわかってる。今だって呼吸は次第に荒くなっていた。それに……。

「……恵理、体拭くね」

 彼女が弱々しく服を抑えた手をどかし、それを捲る。私は目を逸らそうとする自分を懸命に抑えた。

 恵理の体はもう女のものでも、子供のものでもなくなっていた。全体が薄黒い灰色に染まり、無数の皺が濃い線を刻んでいた。膨らんだ乳房は火傷のように爛れ、なんの物かもわからない濁った汁が流れ出していた。

 ベッドが腐っていると思っていた臭いは彼女から出ているものだった。鼻をつく悪臭は彼女の胸が上下するたびに浮かんでくる。

「……気持ち悪い、って言っていいよ。私もおえっ、ってなるもん」

 浅い息づかいの中の呟きに、私はしっかりと声に力を込めて答えた。

「気持ち悪いとは思わないよ。苦しそうだな、とか痛そうだな、とは思うけれど、気持ち悪いなんてことは、全然ない」

「……そっか、由羽ったら変なの」

 恵理がはにかみながら壁の方を向いている間に、私はタオルで彼女の体を入念に拭いていった。すぐにタオルは何かの皮と液体で染まっていく。

「この家の人達はさ、どうしたんだろうね……」

 話すのも辛いだろうに、それでも気を紛らわせないといられないのだろうか、彼女は言葉を続けた。

「私たちみたいに旅に出たのかな」

「どうだろ……避難所に行ったのかも」

 サイドテーブルに置かれた写真立てに目をやった。額だけで写真は入っていない。きっと持ち主が中身だけ持っていったのだろう。

「どこかで、幸せになれたのかなぁ……」

 それはひとり言のようだったので、私は無言でタオルを握った手を動かしていた。彼女の脇腹。今は皮膚がたるんでしまったそこには汚れが溜まっているような気がした。確かこの辺にはホクロが一つあったはず。そう思っていると、何かがそこから落ちた。そしてすぐにその上にタオルが落ちる。

 脇腹から剥がれ落ちたのは、彼女の肉だった。黄土色の液体と一緒に、彼女の肌と肉は音もなく腐り落ちた。それが着いていた場所からは、僅かに痙攣する何かが覗いている。

「……ねぇ、恵理、どこか、痛い?」

 私の声に、彼女は汗ばんだ顔で少し笑った。

「ううん。気持ちいいよ。ちょっと痒いくらい」

 私はタオルを拾い上げることもできず、何か言葉を継ぐこともできず、ただ固まっていた。私がようやく彼女に布団をかけようとした時、それよりも先に彼女が言葉を繋げた。

「私さっき、まだ動けるうちに少し探索してみたんだ。それで、これ見つけた」

 彼女は枕元から何かを取り出した。鈍い輝きと金物の音を鳴らせて、恵理は宙に浮かんでいた私の手にそれを握らせる。

「ここに住んでた家族の誰かもそうだったんだね、たぶん。使わなかったみたいだけど……ありがたく使わせてもらおう?」

 自由になった手をそのまま握ってこちらに出す。ベッドの支柱の近くに。

「私もそろそろみたいだしさ。自分じゃ着けにくいし……由羽に着けてもらいたいな」

 私は自分の手に握られている手錠に目を向けた。

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