第59話 初戦(練習通り)

 その日、俺は目覚ましをセットした時刻よりも、ずっと早くに目が覚めた。


 二度寝しようにも目が冴えてしまい、起き上がる。


 そして俺は窓を開けて、朝日に染まった街を眺めた。朝の少し冷えた空気が頬に当たって、俺はとうとう今日この日がやってきたのだということを理解した。


 顔を洗って、卵かけご飯をかっこんで、制服に着替える。


 リュックにクラスTシャツと体操服が入っていることを何度も確認して、俺は家を出た。






 学校に行くと、既に教室に居た数人はクラスTシャツに着替えていた。有名な海外のサッカーチームが着ているユニフォームを模した、水色のTシャツ。


 背中には背番号とクラス一人ひとりのあだ名が書かれている。ちなみに俺は『ちひろちゃん♡』で、赤坂は『赤坂サカス』だったか。落合は確か『おっちー』である。完全にノリで決めたのだが、こう改めて皆の背中にあだ名が書かれているのを見ると、何かちょっと恥ずかしいな。


 去年までは、こんな、他人のあだ名とかに注目することなんて無かったなぁ、と思う。去年は書くことがなさすぎて『神隠しされてそう』という謎の文章が勝手に申請されていたが、今年は違う。ちゃんと友達と自分で考えたものだ。


 ……まぁ、センスは微妙かもしれないけれど。


 それから先生が来て、集まった生徒はどんどんグラウンドへ行くように指示された。俺もすぐに着替えて、人の波に乗る。


 二年五組というプラカードが表示されたところへ向かうと、チームの皆もそこに集まっていた。


「おっすー」


 赤坂が右手を軽く上げる。


「おー」


 俺はそれに砕けた返事をした。その声で四人組も俺が来たことに気付いて、挨拶をしてくれる。


 それからやや遅れて、落合が到着した。


「……おう」


 いつも低い声をいっそう低くして、落合は挨拶をしてくる。なんだか、調子が悪そうだ。


「大丈夫か?」


 そう聞くと、落合は溜息をつく。


「……緊張してんだよ」


「へ?」


「これだけやってきて、本番で失敗したら最悪だろ?」


 落合は自嘲的に鼻で笑った。


 俺が見る限り、落合は今日まで本当に練習を頑張ってきた。決して運動神経が良い訳ではないけれど、パスコースを潰したり、相手にとって邪魔な場所を考えたり、直接ボールに触れなくても役に立つ方法をずっと模索していたのだ。


 落合はずっと真剣で、だからこそ、今、緊張している。そんな事実が、俺はたまらなく嬉しかった。


「人が緊張してるってのに笑うなよ」


「すまんすまん。でも、心配すんなよ。誰かが失敗しても何とかなるように、皆で練習してきたんだからさ」


「……まぁ、それはそうか。とにかく、気を付けるしか無いよな」


 そんな風に話をしていると、グラウンドに設置されたスピーカーから、女子生徒の声がした。


『それでは、球技大会の開会式を始めます』


 俺たちは前を向いて、青い空と、その下に綺麗に並ぶ生徒たちの頭を見た。


「いよいよだな……」


 赤坂が小さく呟いたのが、やけに耳に残る。


 見上げた青空は、正に運動日和、といった感じで。

 俺は言いしれない高揚感を感じていた。






 開会式後、サッカーの会場であるグラウンド奥へ行くと、そこには移動式のホワイトボードがあった。ホワイトボードには大きな模造紙が貼り付けられており、風ではためいている。


 俺はその紙をじっと見る。ここに書かれているのは、事前の抽選によって決められていたトーナメント表だった。


 参加したクラスは七つで、本来は予選、準決勝、決勝と三回勝てば優勝となる。


 ただ、俺たちのクラスだけは事情が違った。抽選会に行った赤坂が、シード枠を引いたのだ。だから、俺たちに限っては二回勝てば優勝、ということになる。


「三組は、反対側か……」


 いつの間にか隣に居た落合が、ぼそっと呟く。改めてトーナメントを見ると、クラブチームの生徒が二人も居るという三組は、丁度俺たち五組の反対側である。


 つまり、決勝まで、俺たちと三組が試合をすることは無い、ということだ。


「決勝で最強の相手とか、めっちゃ燃えるじゃん!」


 すると、赤坂が勢いよく表れて、落合と肩を組む。少し痛かったのか、落合はしかめっ面をした。


「まぁ、確かに、燃えるな」


 俺がそう言うと、落合がはっ、と吐き捨てるように笑う。


「そもそも決勝に行けるとは限らないけどな」


「えぇー!? 行けるっしょ! めっちゃ練習したんだし」


「勝負は時の運、とも言うだろ?」


 さっきまで緊張して、失敗したくないと言っていた口で、落合はすぐこういうことを言う。もう既に周知に事実になっていることだが、落合という人間は本心と真逆のことをとにかく言いたがるのだ。


「運がどうだろうと、多分、やることは変わらないだろ。ただ、練習の通りにやるだけだ」


 俺は自分に言い聞かせる意味を込めて、そう宣言する。


「だな!」


「……そうかもな」


 それぞれ反応は微妙に違えど、赤坂も落合も、俺の言葉に頷いてくれた。目の前に広がるグラウンドで、今すぐにでも駆け回りたいような衝動に駆られる。


「それでは、第1試合に出場する方は集まってください!」


 すると、ホイッスルの音があまりにも広く見える青空に響いた。


 第1試合には、件の三組が出場することになっている。これは、しっかり目に焼き付けておかなければ。


「お手並み拝見、といきますか!」


 落合が芝居がかった口調とともに、ニヤリと笑う。


 そして、遂に。


「それでは!」


 俺たちの球技大会が。


「第1試合を始めます!」


 始まった。



 



「あそこに居る、色麻と女川って奴だな」


 白石がコート上に並ぶ二人の生徒を指差す。


「あー、あの二人か。確かに、がっちりした身体してんなぁ」


 赤坂は納得したように頷いて、その二人をじっくりと観察する。


 俺たちチームは、グラウンドの端にある部室棟前に座り、第1試合を見ていた。


 勿論目当ては、クラブチームに通う二人の実力を知ることだ。白石の話によれば、その二人の名前は色麻と女川というらしい。


 見ると、明らかにその二人は動きが違っていた。二人でどんどん敵チームを抜いていき、色麻がシュートを決める。相手が可哀想になるくらい、一方的な試合だ。


 とにかく、強い。レベルが段違いである。

 やっぱり来年からはルールに『外部でその種目をやっている生徒は出場不可』と明記するべきではないだろうか。


「やっぱりすげぇなぁ……」


「マジで強すぎるだろ」


 柴田と名取がぽつりと弱音をこぼす。実際、そんな言葉が漏れても仕方がないくらいには、色麻と女川の能力は群を抜いていた。


「いや。でも、隙がない訳では……無いと思う」


 しかし、俺は試合を見ながら、あまりの実力差に絶望して勝負を諦めた、という訳ではなかった。


「そうなのか? あの二人、めちゃくちゃ上手いけどな」


 落合はシュートが吸い込まれたゴールを見て、ため息をつく。確かに、あの二人だけを見れば、とてもじゃないが勝ちの目は見えない。


「でも、上手いのは多分、あの二人だけだ」


 正直、この試合はほぼ色麻と女川だけで成り立っている。三組の他の生徒は、皆暇そうに棒立ちしていた。目立って強いやつが居る分、他の生徒が寧ろやる気がないくらいである。


「まぁ、幾ら強くても、二人だけじゃどうしてもカバーできる範囲に限界が出るか」


 赤坂は腕組みして、納得したように頷く。


「まぁだから、ボールを奪えさえすれば、チャンスは十分にあるはずだ」


「おぉ!」


「そうか、ボールを奪えば……」


 突破口が見えた気がして、にわかに盛り上がる俺たち。


 すると、また甲高い笛の音が響く。どうやら、再び三組……というか、色麻と女川がシュートを決めたらしい。


「全然ボール奪えねぇ……!」


 シュートを決められた選手たちが、がっくりと肩を落とす。


「……奪える、か?」


 その様子を見た落合は、苦笑いをする。

 しばし沈黙。


「まぁ、六人でいけば……何とか?」


 赤坂が珍しく自信なさげに言う。

 練習は沢山したし、きっと俺たちの実力はあの二人にも通用するとは思う。

 ただ、目の前でこうやって無双されていると、自信がなくなってくるよなぁ……。






 結局、第1試合は一方的なままで終わった。


 その後も幾つか試合を見たが、三組を超える実力のチームは居ないようである。とはいえ、油断して良いとも思えないが。


 そして、ようやく、俺たちにとっての最初の試合である、第6試合が始まろうとしていた。


「それでは、真ん中の方で並んでください!」


 実行委員のアナウンスを聞き、俺たちはウォーミングアップを終えてグラウンドへ集合する。ボールを隅の方に片付けていたせいで、俺は整列にやや遅れてしまった。


 最後尾だった落合の後ろへ並ぶと、皆が妙な顔をする。


「どうかしたか?」


 聞くと、赤坂がちょっと呆れたように笑う。


「いや、千尋ちゃんは先頭だろ?」


 赤坂の言葉に頷き、皆が俺に前へ行くように促す。俺はてっきり赤坂が先頭だと思っていたので、驚いてしまった。


「何戸惑ってんだよ。サッカーをやるって決めたのも、練習を始めたのも、お前だろ? ……それに、俺がこんな必死にサッカーをやる羽目になったのも、お前のせいだ。だからやっぱり、先頭は……このチームの中心は、お前だよ」


 落合は、俺の背を強く叩いた。じんわり滲む痛みが、ここに自分が居るということを感じさせる。


 俺は、チーム一人ひとりの顔を見た。皆、ちょっと照れくさそうに笑って、頷いている。


「あの、すいません、早く並んでもらえますか」


 実行委員に言われて、俺は慌てて先頭へ並んだ。

 赤坂と、落合と、皆と肩を並べて、グラウンドに立つ。なんだかそのことが誇らしくて、俺は少しだけいつもより胸を張った。


「お願いします!」


 そして、試合が始まる。


 じゃんけんの結果、こちらが先攻。落合が軽く蹴ったボールを受け取って、俺は走り出す。フェイントで一人を避けて、右サイドからどんどん相手ゴールへ近付いた。


 すると、俺の方へと人がどんどん集まってくる。色麻や女川のように、三人を一気に抜くような実力は俺には無い。


 そこで俺は一瞬横を見る。そこには、準備完了とばかりに右手を上げる赤坂の姿があった。


 ……練習通り!

 中学の時から身体に覚え込ませた、二人で上がって攻撃をする基本の形。あの頃はたった一人だったが、今は受け取って貰える相手が居る。


 俺がパスを出すと、ボールは赤坂の足に吸い付くようにぴったりと転がった。


「完璧!」


 赤坂がニヤリと笑って、ほぼフリーでシュートをする。赤坂が蹴ったボールは、気持ちよくゴールに突き刺さった。


 ゴールが決まった瞬間、俺は赤坂の方へ駆け寄る。


「よっしゃぁ!」


「やったな!」


 赤坂とハイタッチして、自陣へ戻る。すると、続けて皆が赤坂とハイタッチしていった。


「千尋ちゃんも、ナイスアシスト!」


 それから、名取が俺に向けてぐっと親指を立てる。


 それに続いて、他の皆も「ナイス!」と俺に声を掛けてくれた。


 そして再び、試合が再開される。俺はふと、頭上に広がる青空を見た。練習の成果がちゃんと出てくれたことが嬉しくて、口角が上がるのを感じる。

つま先から頭まで、活力で満ちているような、そういう感覚。


 再び鳴った笛の音と共に、俺はまた地面を蹴った。

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