第55話 独白⑤(宮町 理沙の場合)

 例えば、100点満点のテストで、98点をとった時。どうして残りの2点を取れなかったのかについて反省文を書かされるのが、私の当たり前だった。


 小さい頃はそんな風に思ったことは無かったけれど、今から思えば、あれはきっと、英才教育、というやつだったのだろう。


 ピアノ、英会話教室、バイオリン、絵画教室……私は、本当に色々な習い事をやらされた。楽しいものもあったし、楽しくないものもあった。でも、全てに共通しているのは、私は一番にはなれなかった、ということだ。


 その中で、私が楽しいと感じたのは、絵だった。

 物を自由に描くのが楽しくて、小学校の高学年辺りまで、かなり夢中で教室に通っていたのをよく覚えている。


 その絵画教室は、髭をたっぷりたくわえた、小綺麗な身なりのおじさんが先生だった。色々とお手伝いをしてくれる先生の奥さんは美人で、顔には皺と一緒に、気品のようなものが刻み込まれていた。


「思うように描いて、良いんだよ。絵に正解なんて無いんだから」


 先生の低く掠れた声を、私は今でもありありと思い出すことが出来る。


 私はその言葉に、酷く安心した。この世にちゃんと、正解の無い物事というのが用意されているということが、私は嬉しかった。だって、正解が無ければ、誰かに……お母さんに、責め立てられることもない。


 でも。


 私の絵が上達していくと、お母さんは、その絵を賞に出そうと言い出した。


「結果を形にしなきゃ、意味が無いでしょ?」


 そう言われた時の私の顔は、どんな風だっただろう。きっとそれを知っている人は、誰も居ない。目の前に居たお母さんでさえ、私を見てはいなかった。お母さんは絵を……私の結果を、見ていたのだ。


 結局、私は絵を賞に出すことになった。

 私はそれから必死に絵を描いた。デッサンが狂わないように、正しい絵を描けるように、必死に、必死に描いた。


 結果は、銀賞。

 審査員の評価は、上手だけれど個性が無い、というようなものだった。


「どうして金賞が取れなかったと思う?」


 銀色の印を貼られて展示されている絵を見て、お母さんはいつものように私へそう質問をした。


 でも、私は答えられなかった。


 大抵の場合、勉強でも楽器でも「努力が足りなかった」という話で終わるのだが、私はどうすれば絵で金賞を取れるのか、本気で分からなかったのだ。


 だって先生は「正解が無い」と言った。金賞の絵は、技術的には私より下手だったけれど、描かれたゾウが生き生きしていて、今にも動き出しそうだった。


 考えて、考えて、考えて……。

 そうしていると、急に、私の中にあった糸が、ぷつんと切れてしまったような感覚がした。


「私が……」


 お腹の底に溜まった良くないものを嘔吐するように、私は言葉を放つ。


「私が、駄目だから。私が駄目な人間だから……だから、金賞が取れなかった」


 この言葉に、お母さんは「自分を卑下するような言葉は止めなさい」と言ったけれど、私はもう、お母さんの話なんて聞いていなかった。


 後ろ暗い高揚感が胸一杯に広がって、私は強く、納得したのだ。私は、お母さんの期待には答えられない。


 私は、駄目人間なのだ。






 それから私は、習い事を全部サボって、全部を適当に生きるようになった。中学に進んだ頃には、学校すら気が向いた時にしか行かずにいた。お母さんは初めのうちは怒っていたけれど、段々私に、諦めの色がある視線を向けるようになっていった。


 そうだよ、お母さん。私に、期待なんてしちゃいけないよ。だって、あなたの娘は、何をやらせても一番になんてなれやしないんだから。


 それから私は、色々なものに手を出した。急に部活に入って辞めてみたり、急にゲームを初めてみたり、漫画や小説を読んでみたり。そしてそのどれもを、適当な態度でやっていた。


 私はあの時、自分が何を好きで、何について真剣になってしまうのか、周りに知られたくなかったのだ。それが、すごく恥ずかしいことのように思われた。結果が出ていないのに、何かを「好き」だなんて、口が裂けても言えなかったから、私は全部を適当に、曖昧にした。


「宮町さんって、何でも出来るよね」


 そう言われる度に、私は心のなかで否定する。


「何でも出来るんじゃないよ。ただ、何も決められないだけなんだよ」


 私にとって、周りの褒め言葉は、あまりにも空虚なものだった。誰も私を分かってくれない、なんて、そんなドラマや漫画で使い古されたようなことを、私は本気で思っていた。


 そして、自分のことを分かってくれそうな人を、私はずっと求めていた。例えば、私と同じような人なら。誰にも分かってもらえないと思っている、駄目人間なら、共感してもらえるんじゃないだろうか。


 そう思って私は、教室の隅に居る人や、嫌われ者や、周りから駄目だと言われている人と片っ端から付き合ってみた。私は美人だから、付き合うのは簡単だった。

 でも、片っ端から、という言葉の通り、私と彼らの交際は、長続きせずに終わってしまう。


「宮町さんみたいな人と付き合うなんて、夢みたいだ」


 彼らはそう言って、いつも私にへりくだっていた。まるで私を救いの女神かなにかのように扱い、丁重にもてなす。彼らの思いとは裏腹に、私はそんなこと、これっぽっちも求めていなかった。


 私が求めているのは、何よりも共感だった。特に、私がその人に共感できるかが、一番重要。


 何かが違う、何かが足りない、と、私は彼氏を取っ替え引っ替えした。別れた瞬間、彼らは私にとってどうでも良い人になっていたから、誰かが傷つくとか、誰に嫌われるとか、そういうことは全く気にならなかった。誰に目の敵にされようと、どうでも良かった。


 多分、趣味と同じなのだ。

 私はきっと、自分が誰も好きになれていないことを知っていて。そのことを悟られたくなくて、どんどん適当に告白していったのだろう。

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