第35話 変わる(まず形から)
土曜日の朝。
俺は、自室のベッドで昨日のことを考えていた。
小夜ちゃんと交わした約束。
「……変わる。変わる、か」
どう変わるとか、何を頑張るとか、どんな関係になるとか、そういうことの全てが曖昧な約束である。
しかし、俺は約束を二度と破らないと決めた。
俺はこれから、今まで逃げていたものに向き合わなければならないのだ。
差し当たり、やることは決まっている。
俺は、赤坂と話す必要があるのだ。
赤坂から見ると、俺の行為というのは完全なる裏切り行為でしかない。告白をあれだけ応援しておいて、これから小夜ちゃんと関係を深めていこうとしているなんて、とんでもないことだ。
だから俺は殴られるのを覚悟で、赤坂にある程度の事情を話さなければならない。
「どう話したら良いんだろうなぁ……」
とはいえ、事実は変わらない。言い訳じみた話し方で誤魔化そうとするのは逆効果だろうし、そんなやり方は、逃げているのと同じことだ。
月曜日になったら直接会って話そう。そう思ってはいても、赤坂がどんな反応を見せるか考えると、どうしても憂鬱な気持ちになってしまう。
「……んー」
暗くなった思考を取り払うように、大きく伸びをして立ち上がる。自室を出て洗面台に行くと、鏡にはいかにも暗そうな男が映っていた。
伸び切った髪を見て、ふと思い付く。
「見た目から入るのも、ありかもな……」
頭を丸めて謝罪とか、失恋してショートカットにするとか、散髪というのは気持ちに踏ん切りをつける時に行われるイメージがある。
どうせなら、バッサリいってしまおうか。前髪をうんと短くして、そして、真っ直ぐ前を向いて、赤坂と話そう。
朝食をとってから、俺は近所の床屋へ向かった。
「いらっしゃいませ」
扉を開くと、カランカラン、と小気味の良い音がする。四十代くらいの女店主が、少し掠れた声で俺を迎え入れてくれた。
どうやら、他に客は居ないようだ。この床屋には古い漫画が幾つか置いてあるので、それを読むのも良いなぁと思っていたのだが、待ち時間はゼロらしい。
「どうぞ」
言われるがままに椅子に座り、しばらくは見られないであろう、長めの髪形をした自分を見つめる。
「いかがいたしますか?」
「えっと……とにかく、短くして欲しいんですけど」
「全体的にバッサリいっちゃう感じですか?」
「あぁ、はい。そうですね」
そんなやり取りの後、散髪は始まった。ものすごい勢いで、髪が切られていく。
そういえば、小学校の時は髪が短かったなぁ。床屋は勿体ないからって、母さんがバリカンで適当に切って……いや、でも素人にしては結構上手かった気がする。
前髪が目に入らないよう目を瞑っていると、思考が色々なところへ飛んだ。
赤坂だけじゃなく、落合や宮町に事情を話したら、どんな反応をするだろうか。思えば、俺は宮町の好意からも随分と逃げ回っていたような気がする。宮地は「それでも良い」と言いそうだが、それでは俺の気が済まない。きっと俺は彼女とも、しっかり向き合わなければならないのだろう。
「終わりましたよ」
そんなことを考えていると、散髪は案外直ぐ終わった。目を開いて鏡を見ると、かなりさっぱりとした見た目の自分が居る。
「ワックスとかで整えますか?」
店主にそう問われて、俺はいつも通り断ろうとした。しかし、何となく、そういうのもアリなんじゃないかと、そんな気になる。
「えっと……じゃあ、お願いします」
頭が軽いような気がする。風が頭を撫でる感覚が、違っている。
なるほど確かに気分を変えるのに散髪というのはかなり有効なのかもしれない。前髪によって遮られていた空の明るさが、世界を今までとは違ったように見せる。
何となく、小さい頃を思い出して、姿勢を正して外を歩いてみる。いつも下を向いていたせいか、自分ってこんなに身長高かったっけ? と思った。
「ただいまー」
何も言わずに家を出たから、きっと母さんは驚くだろうと思い、帰宅する。すると、玄関には女物の靴が二足あった。
「おかえりなさい」
「おかえり」
そして、リビングの方から二人分の女性の声が聞こえる。
軽くデジャヴ。
「おかえり、千尋。小夜ちゃんが、この前のケーキのお礼にって、お菓子持ってきてくれたわよ」
母さんは得意の大声で、俺がリビングに入るよりも早く事情を説明してくれた。
まさか、昨日の今日で小夜ちゃんが家にやって来るとは。前に彼女が家に来た時とは別の意味で緊張するな……。
そして、俺はリビングのドアを開ける。
「……え」
俺を見て、母さんが短く声を漏らす。
「……えええええええええええ!?」
すると、やや遅れて小夜ちゃんが叫んだ。この反応。転校初日以来かもしれない。
髪を切った程度で、幾ら何でも大げさだ。
「ち、ち、ちちちち……」
恐らく「ちーくん」と言いたいのだろう、小夜ちゃんは壊れたおもちゃのように同じひらがなを繰り返す。
「小夜ちゃん、落ち着いて……」
「ちょっとお手洗いお借りしますね」
すると、小夜ちゃんは脱兎のごとくリビングを出た。
「え、あ、良いけど……」
母さんはそんな小夜ちゃんの様子に、目を丸くする。
俺が髪を短くしたことで、ここまで小夜ちゃんが動揺するなんて思わなかった。言ってしまえば、小学生の頃の髪型に近くなっただけで、そんなに新鮮な髪型でもないはずなのに。
……いや、だからか。
小学校の頃の『ちーくん』に近い俺が出てきたから、小夜ちゃんはあれだけ動揺している訳だ。
「どったのその髪。失恋?」
母さんが冗談めかしてニヤリと笑う。
「まぁ、そんなとこ」
否定してもからかわれるだけなので、俺は適当に同意しておいた。俺の冷たい反応に、母さんは「何よー」と唇を尖らせる。
「失礼しました……」
すると、小夜ちゃんがお手洗いから戻ってきた。
「折角だから、お菓子、一緒に食べましょ」
そのタイミングを見計らって、母さんが小夜ちゃんが持ってきたのであろう箱を開ける。中を見ると、美味しそうなマドレーヌが小分けに包装されていた。多分、結構良いやつだろう。
「これ、どこで買ったやつ?」
俺はやや緊張しつつ、小夜ちゃんに話しかける。
昨日は何というかお互いに普通じゃないテンションの中で話していたから、これから小夜ちゃんとどう関わっていけば良いのか、正直俺はよく分かっていない。
だから、次に会う時の会話が、この先の俺たちのコミュニケーションの指針になると俺は勝手に考えていたのだ。そういう訳で俺は緊張していたのだが……。
「あ、えっと、うん。駅前のデパ地下で、そう。駅前で。買ってきました」
小夜ちゃんは俺の方を一切見ず、信じられないくらいたどたどしい口調で話し始める。まさか昨日の今日で嫌われたなんてことは無いだろうし、心当たりと言えば、髪型を変えたくらいだ。
まさか、気合を入れるためにやった散髪でコミュニケーションがままならなくなるとは思わなかった。
「そういえば、結局、アルバムって見付からなかったのよね?」
キッチンから母さんが話しかけてくる。この前小夜ちゃんが来た時、部屋を随分探したが、とうとうアルバムは見付からなかった。捨てている訳が無いから、家のどこかにはあるはずなのだが。
「母さんの部屋にある押入れとかに入ってない?」
他に考えられるのは、そこくらいである。こんなことになるなら、事前にアルバムを探しておくんだった。いや、昨日以前の俺は小夜ちゃんがもう一度この家に来るなんて想像すら出来なかっただろうから、そんなタラレバの話をしても意味はない。
「あー、あそこねぇ。ちょっと探してくる?」
「え、あ、そんなわざわざ……」
「私が久しぶりに見たいのよ。丁度ほら、小学校の頃と今の髪型似てるじゃない?」
そして、母さんはお茶を三人分出すと、二階へ上がっていってしまった。
二人きりになったリビングに、妙な沈黙が訪れる。
「……小夜ちゃん」
精一杯の勇気を出して名前を呼ぶと、小夜ちゃんは肩をビクリと震わせた。
「な、なに?」
「いや、なにっていうか……」
寧ろこっちがなんなのか聞きたいくらいだ。
「……だって、仕方ないでしょ」
すると、小夜ちゃんは俺を恨めしそうに睨む。しかし、その表情は次第に真顔になっていく。
「あぁ……めっちゃちーくんだ……ヤバい……」
そしてとうとう、恍惚とした表情を浮かべる小夜ちゃん。
確かにヤバい。多分、俺が言っているのと小夜ちゃんが言っているのとでは、意味は違っているだろうけど。
「小夜ちゃん、気を確かに……」
「はっ!」
小夜ちゃんは首をブンブンと横に振り、両手で自分の両頬を叩いた。
「駄目よ三条 小夜。落ち着いて、そう。落ち着くの……。髪型が変わったことであの頃の面影が強く感じられるからと言って露骨にテンションを上げちゃ駄目」
「あ、あの……」
「あーでもちーくんだぁ……!」
露骨にテンションを上げる小夜ちゃん。なんていうか、脳が溶けてる。
もしかして、幼馴染のことを長く考えすぎて、条件反射のようになってしまっているのだろうか。
「駄目駄目。そう。ちーくんは、『ちーくん』じゃないんだから……」
「……ちーくんはちーくんじゃない?」
妙な言い回しが出てきて、俺は小夜ちゃんに真意を問う。すると、小夜ちゃんは深呼吸をして、ようやく落ち着いた様子を見せた。
「私、きっと『ちーくん』に理想を押し付け過ぎてたんだって、そう思ったの。ちーくんを、どこにも居ない理想の人に仕立て上げて……私は、自分がやられて一番嫌なことを、ちーくんにやってた。そして、理想に逃げて、人と向き合ってこなかった。だからね。私も、ちーくんと同じように、変わらなきゃって、そう思った」
「小夜ちゃん……」
「だから私はまず、ちーくんと、ちゃんと向き合いたい。理想の幼馴染とじゃなく、
『私を一人にしない』って約束してくれた優しい男の子と、過去がどうとかじゃなくて、ちゃんと話したい」
小夜ちゃんは、今度こそ真っ直ぐな目で俺の顔を見つめる。
そうだ。
俺は小夜ちゃんが屋上で泣いているあの時。負い目だとか過去だとか、そういうことを別にして、彼女を助けようと思えた。
過去は無かったことにならないし、忘れていいものでもない。しかし、俺たちは昨日の約束を経て、ようやく「今のちーくん」と「今の小夜ちゃん」として再会出来たのかもしれなかった。
「昨日の夜そう決めたのに、髪を切っただけで昔を思い出してドキドキしちゃうとか、私馬鹿すぎるでしょ……」
密かに感動している俺をよそに、拳を握りぐぬぬと唸る小夜ちゃん。
「いや、まぁ、俺は別に気にしないから……」
「私が気にするの!」
小夜ちゃんがきっぱり言うので、俺は閉口した。
そう言われてしまうと、こちらとしては何も反論できない。
「多分、これも気にしないって言うだろうけど」
「?」
小夜ちゃんが湯呑に視線を落としたので、俺は何の話かと首を傾げる。
「……再会してから、いっぱい酷いことを言っちゃったけど、さ。私も、変わってくから。だから、見てて」
こちらを少しだけ見た小夜ちゃんの瞳には、微かな不安の色があった。
「分かった。見てるよ。隣で、ちゃんと見てる」
きっと、約束を破った方も、守っていた方も。俺たちは、それぞれが微妙に歪んでいたのだ。良い悪いは別として、小夜ちゃんにも、色々と問題があったのだ。
その小夜ちゃんが、自分からより良く変わろうと言うのなら、俺はそれを応援しない理由が無い。
「……ありがと」
小夜ちゃんは少しだけ口をすぼめて、ぽしょりと呟く。
「……こちらこそ」
言いながら、自分の口角が勝手に上がるのを感じる。
「ははっ」
「ふふっ」
そうして互いに笑い合うと、家のリビングに、普段とは違った、くすぐったいような雰囲気が漂った。
「二人とも!」
すると、突然母さんが入ってきて、俺たちは二人揃って背筋をピンと伸ばす。
「アルバム、見つかったよ!」
その後、俺と小夜ちゃんと母さんで、アルバムを見ながらお菓子を食べた。次第に大きくなり、写真が減っていく自分。中学の卒業式に家族で撮った写真には、ドロドロに濁った目をした、髪の長い自分が居た。
ごめんな、今度は、間違えないから。
心のなかでそう呟いて、俺はそっとその写真に指先で触れた。
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