第34話 告白(千尋の)

 小夜ちゃんの涙を見た瞬間。


 俺は、自分があまりにも酷い思い違いをしていたことに気付いた。


 小夜ちゃんは、どんなに怖くても、一人になるまで涙を見せず、そうしてあの告白をきっぱり断った。でもそれは、他に手段がないから、無理をしていたに過ぎなかったのだ。


「小夜ちゃん」


 俺がもう一度名前を呼ぶと、小夜ちゃんは袖で涙を拭い、立ち上がった。


「近づかないで」


 きっぱりと言われ、俺は立ち止まる。しかし、引き下がる訳にはいかなかった。最早、負い目だとか、過去にとらわれているか否かなんて、関係ない。俺は純粋に、目の前で泣いている、この脆く強い彼女に、何かをしてやりたかった。


「……これ」


 俺は手に持っていたぬいぐるみを小夜ちゃんに見せる。


「それって……」


 小夜ちゃんは手に持っている自分の鞄を見る。彼女の鞄には、やはりあるべきキーホルダーが一つ失われていた。


「落とし物を拾ってくれたのは、ありがとう。それじゃ」


 小夜ちゃんは俺からぬいぐるみを受け取ると、階段を下りて、さっさとここを立ち去ろうとする。


「あのっ」


 俺は咄嗟にそれを呼び止めた。振り返った小夜ちゃんの表情には、微かな驚きの色がある。しかしその表情は、瞬き一つ分の間に、こちらを睨むようなものへと変貌してしまう。


「……今更、何を話すの? 告白、見てたでしょ。私はもう、一人でも大丈夫。これからどんな風に言われようと、大丈夫だから。貴方が言っていた通り、全部、忘れるから。それで良いでしょ?」


「そんな風に泣き腫らしてる人の言うことを、俺は、信用できない」


「どうして? 忘れろって、そう言ってたじゃない」


「……幸せになって欲しいとも、言った」


「幸せになんてなれる訳ない!」


 小夜ちゃんは床に足を叩きつけ、俺に怒鳴る。


「小夜ちゃん……」


「私は怖いの。嫌われるのが怖い。人と向き合うのが怖い。好かれるのが怖い。勝手に良い子扱いされて、失望されるのが怖い。美人だなんだって持ち上げられて、仲間はずれになるのが怖い」


 言いながら、小夜ちゃんは次第に涙声になっていった。赤くなった目に、再び涙が溜まる。


「ちーくんだけだったのに。ちーくんだけが、私の味方だったのに。どうして赤坂君を応援するの? 忘れろ忘れろって言うけど、私がちーくんのこと忘れたら、もう私、一人ぼっちなんだよ? 責任取れるの?」


 小夜ちゃんは泣きながら、一気に捲し立ててきた。


 彼女が、自分のことを一人ぼっちだなんて、そんな風に考えていることを、俺は知らなかった。傍から見れば、彼女の周りにはいつも多くの人が居たから。でも、彼女は心の上では、俺よりも深い孤独を内に抱えていたのだ。


 ずっと自分を一人だと思い、本当の自分を隠して、唯一信じられる幼馴染にさえ裏切られてなお、小夜ちゃんは赤坂の告白から逃げなかったのである。


「……なんで」


「え?」


「なんでそんなに小夜ちゃんは強いんだろう」


 思わず、純粋な感想が口から溢れた。


「なにそれ。別に、私は強くなんて……」


「いや、強いんだ。そんなにも沢山怖いものがあるのに、優等生で人気者で、最高に美人な三条 小夜でいられるっていうのは強い証拠だ。俺なんか、サッカーの練習を一年間一人でやっただけで心が折れたっていうのに、小夜ちゃんは全く折れちゃいないじゃないか」


 俺の言葉に、小夜ちゃんはぎゅっと拳を握った。


「だから何? 強いのなら、一人で大丈夫でしょ? そっちのお望み通り、もう関わらないから。それで良いじゃない」


「良くない。良くないんだよ、小夜ちゃん。一人ぼっちで独りよがりにやったって、上手くいかないってことを、俺はよく知ってるんだ」


 俺が一歩近寄ろうとすると、小夜ちゃんは拳で壁を殴ってそれを静止する。


「じゃあどうしろって言うの! 何? 今更赤坂君と付き合って二人で生きろとでも言うの? それとも、良い人紹介してやるって? ふざけないで!」


「……そんなことは、言ってない」


「じゃあ、なんだっていうの?」


 小夜ちゃんに質問されて、俺は小さく息を吸い、ゆっくり吐く。


 その数秒のうちに、俺は、幾つかの言葉を思い出していた。


『結局、何でも、やってみなきゃ分かんねぇじゃん』


 あぁ、全くそうだ。


『これは、幼馴染さんの問題で、先輩の問題じゃない』


 ごめんな。本当はずっとこれは、俺の問題だったんだ。


『心は決まってるくせに、悩んでるフリすんなよ』


 言われてみれば、俺の心っていうのは、ずっと決まっていた。


『ちーくんは、私のことどう思ってるの?』


 俺は、この質問に答えるのに、随分と時間を要してしまったらしい。


 息を吐き終え、俺は、ようやく自分の心の内を、小夜ちゃんに話す覚悟が決まった。顔を上げ、小夜ちゃんの泣き腫らした目を、正面から見つめる。


「小夜ちゃんと再会してから、俺はずっと、小夜ちゃんが羨ましかったんだ。何もかもに恵まれて、約束を守るための努力もしてて、俺が欲しくても手に入らなかったものを、全部持っているみたいに見えたから。羨ましくて、後ろめたくて……だから、遠ざけたかった。いかにもそっちの幸せを願ってるみたいなことを言って、その実、俺はただ、小夜ちゃんを諦める理由が欲しかっただけなんだ」


「……」


 小夜ちゃんは話の意図をはかりかねているようで、特に口を挟むようなことをしなかった。

 踊り場の窓から、西日が差し込む。舞っている埃が、遠い思い出のように細やかに輝く。


「俺は、本当はずっと……小夜ちゃんと並び立てるような、そんな人間になりたかった。毎日、目標のために頑張って、ちゃんと生きているような、そんな強い人になりたかったんだ」


「私は、ちーくんが言うほど立派な人間じゃない」


 小夜ちゃんは首を横に振り、唇を噛む。


「いや、凄いよ。本当に立派だと思う。俺は、小夜ちゃんのことを尊敬してるんだ。そして、だからこそ、小夜ちゃんを一人にしたくない。これだけ頑張った人が、幸せになれないなんて、そんなの嘘だ」


「……でも、私は一人だよ。幸せなんて、程遠い」


「今は、そうかもしれない。だけど、その……」


 土壇場にきて、頭がこんがらがる。言いたいことが多すぎて、言葉が上手に出てこなかった。

 すると、小夜ちゃんが、正面から俺の顔をじっと見た。


「お願い。言って」


 彼女の目が、輝く。

 微かな希望を捉えたかのように、輝く。


「……俺、もう一度、頑張っても良いかな。約束を破って、どうしようもなく怠けて、挙句の果てには小夜ちゃんから逃げ回ったけど……」


 自分の情けなさに、涙を溢してしまいそうになる。俺はそれをぐっと堪え、改めて、前を向いた。



「……でも、それでも。もう一度だけ、頑張って良いかな」



 俺は、恐らく小夜ちゃんと再会したあの瞬間から、正しい答えを知っていた。


 俺が約束を破って、そのせいで小夜ちゃんが苦しんでいるのなら。他ならぬ俺が、彼女を少しでも幸せにしてやるべきなのだ。そして俺は、ずっとそれがしたかった。


 自信が無いからって、失敗が怖いからって、逃げるのは、もう止めだ。そうして逃げた結果が、小夜ちゃんをこんなところで一人で泣かせることなら、俺はもうそんな自分を許すことは出来ない。


「じゃあ、もう一回、約束して」


 小夜ちゃんは一歩を踏み出し、俺との距離を縮める。


「もう二度と一人ぼっちにしないって、そう、約束して。絶対破らないって、そう言って」


「……約束する。これから、頑張るよ。正直、自信は無いし怖いのは変わらないけど、それでも、諦めたりしない。そうやって、ゆっくり変わっていくから、だから、その……待ってて欲しい」


 心からの誓いを告げると、小夜ちゃんは俺を強く抱きしめた。


「え、ちょ、小夜ちゃん?」


「……待ってるよ。これまで何年も待ってきたんだから……そんなの、待てるに決まってるでしょ」


 耳元で、泣きそうな声がする。

 でも、その涙の意味は、さっきとは違っていた。


「良かった。ずっと、もうずっと一人なんだって、そう思ってた……。良かった。良かったよぉ……」


 泣き方も喋り方も、まるで子どもみたいだった。でも、思えば昔の小夜ちゃんは、怖がりで人見知りな子だったのだ。きっと、誰にも見せていなかっただけで、小夜ちゃんには今でも、こういう弱い面があったのだろう。






 それから、俺と小夜ちゃんは、お互いの今までの事情をぽつりぽつりと話しながら、ゆっくりと、遠回りして帰った。


 俺がサッカー部で馬鹿をやった話をしても、小夜ちゃんは俺を慰めたりしなかった。小夜ちゃんが人を信じられなくなった話を聞いても、俺は彼女を慰めたりしなか

った。ただ、小夜ちゃんは俺の話を聞いて、ちょっと泣いたし、俺も小夜ちゃんの話を聞いて、ちょっと泣いた。


 お互いの過去が、ようやく本当に過去になったのだということを確かめるような時間だった。


 きっとこれから、ようやく、俺たちは前に進めるのだろう。

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