宝石の罪

古川暁

~前篇~

 オレンジ色の太陽が昇る。朝が訪れたのだ。そして今日も又何の変哲も無い一日がある原っぱで繰り返されようとしていた。まず花が咲く。そこに一匹の蜘蛛が地面から茎をつたい、花と花の間に糸を掛ける。そして空を悠々と飛ぶ虫たちがその糸にかかる。蜘蛛はその虫たちを食べて命を繋ぐ。そしてその蜘蛛を鳥が摘んでお腹を満たす。今日もこの自然の摂理が繰り返される。今日だけでは無い。今までもこれからも、変わらず自然の、美しい秩序は乱れることなく繰り返される。


 ああ今日も美しい一日が繰り返されるのだ。


静かなこの原っぱには一本の大木があった。楠木だ。楠木には今日も一羽の年老いた木兎ミミズクが満足そうに原っぱを見渡していた。この時期は、楠木が作り出した木陰に麗春花ポピーが咲き乱れている。その周りには青筋鳳蝶アオスジアゲハが舞っているのだ。生い茂る葉の隙間からはラピスラズリのような群青色の空がのぞく。今日も一匹の鬼蜘蛛が麗春花ポピーたちの体に罠を張った。


 ねぇ、見て彼

 私、さっきの方がいいなぁ

 あ、やだこっち見てる


蝶たちの小さな会話は誰にも聞こえない。


 やぁ、こんにちわ

 こんにちわ

 君いくつ

 今朝羽化したばっかなの

 本当!僕もだよ


蝶たちは戯れながら、麗春花ポピーの蜜を吸う。

今日も何の変哲も無い平和な日々だった。自然こそ美しい秩序なのである。

それから幾日か経った日のことだった。まぁこの原っぱには何日経ったかなどどうでもいいのだ。だいたい、いつを基準にして数えたのかすらあやふやなのだから。それにいつだろうとこの原っぱでの出来事はだいたい一緒だ。

再び、オレンジ色の太陽が昇る。そして何の変哲も無い一日が繰り返される、そのはずだった。そう、大事なのは今日が何回目に訪れた朝かでは無い。この自然の美しい秩序が無謀で浅はかな欲望によって壊される可能性があるということだ。だがもちろん、その可能性を誰も知るよしは無い。

今日もいつものように青筋鳳蝶アオスジアゲハたちが麗春花ポピーの周りを楽しそうに舞っていた。


 あっちに色の濃い麗春花ポピーが咲いてるって

 行ってみようよ

 行ってみよう


 ねえどこ行くの?

 あっちに美味しそうな麗春花ポピーが咲いてるって

 私も行きたい

 ねえ連れてって!


美しい蝶たちがひらりひらりと舞っている。ひらりひらりと踊るように。


 綺麗なんだろうねー

 私もあんな風に飛んでみたいな

 気持ちいのかな?

 気持ちいいでしょう!

 でも風が吹くと痛いじゃない

 きっとあの子たちは避けちゃうのよ

 僕たちの蜜って美味しいんだって

 なにそれ!変なの僕らが美味しいって?

 ねぇ、あの子達が行っちゃったよ


麗春花ポピーたちの小さな声は誰にも届かない。その間、罠を仕掛けた鬼蜘蛛はじっと密かに身を潜めていたのである。八つの瞳はどこを見ているのか誰にも分からなかった。


 あの、ちょっと、すいません


 見たことないよ

 誰だろう

 困ってるのかな


蝶たちがざわめく。


 すっごく綺麗だ

 僕のものに

 俺のものだ

 馬鹿言うなよ


蝶たちが囁く。


 すいません、ここはどこですか


その蝶が聞いた。


 何処って?


蝶たちは口々に言った。そう、何処って言われったってここは何の変哲も無い何処にでもある原っぱだ。名前など無い。そして名前をつける必要も無いのだ。それに何処って言われったって蝶たちには答えようがないのだ。彼らは蝶だ。縄張りなどはない。だからここが何処であろうとあまり関係がなかった。それは人間のように地球に線を引いて区切るような愚かなことに費やす時間など無かったからかもしれない。


 彼女たちが騒がしいわね

 何があったんだろうね


麗春花ポピーたちも囁いた。彼女たちもここが何処だろうと何も変わらない。花の会話は蝶には伝わらない。そして、蜘蛛の会話も花にも蝶にも届かない。花は風の流れで全てを感じるのだ。だから蝶たちが騒いでいる理由なんてわからなかった。青筋鳳蝶アオスジアゲハたちがその蝶の周りにまるで波の様に近づいては離れ、近づいては離れていった。どうやらその蝶はモルフォ蝶のようだ。きっと無責任な人間どもが海の向こうの原っぱから、この原っぱに持ってきたのだろう。


ああ、困ったことになった。このなんの変哲も無い平和な原っぱの繰り返されてきた歴史が今変わろうとしている。いや逆に同じところを回っていたものが一歩前進しようとしているとでも言っておこうか。


林檎のように紅く染まった太陽が沈む。そして対照的に叢雲むらくもの隙間から鈍く蒼白い光を放ち、月が昇る。疲れたきったモルフォ蝶は麗春花ポピーの上に身を沈めた。日が沈めば辺り一面漆黒の闇に包まれる。この原っぱから太陽の光を奪ってしまえば闇しか残らない。月の光など無いも同じに等しい。これまではそうだった。だが残念なことに今日はそうでも無いらしい。モルフォ蝶の大きな翼を月の光が引き立てた。モルフォ蝶のか弱い体と漆塗りのような翼の縁は漆黒の闇に呑み込まれ、サファイヤがまぶされているような翼だけが光輝いていた。もちろん風を頼りにしている麗春花ポピーたちは気が付くはずも無い。青筋鳳蝶アオスジアゲハたちも夜は危険だと体を休めていた為気が付かなかった。そう、今は夜だ。その美しさに誰も気が付くはずがない。夜行性の儂以外。ただ今宵のとある麗春花ポピーに糸を張っていた鬼蜘蛛だけは違った。先程、日が沈んでもしばらく遊んでいた一匹のまだ若い青筋鳳蝶アオスジアゲハを美味しそうに頬張りながらモルフォ蝶を眩しそうに眺めていた。漆黒の八つの目には、宝石を通して暉光と化した月光しか映っていなかった。そして呟いた。本来彼は美味しそうだなぁと呟かなければいけなかったのだ。でも残念ながら現実は違った。


 なんて美しいんだろう


勿論その声はモルフォ蝶には聴こえない。蜘蛛の声は蜘蛛にしか伝わらない。蝶からしたら恐ろしい唸り声にしか聴こえないのだ。ただどうやら可哀想なことに蝶の会話は蜘蛛にも聴こえるらしい。自然の摂理とは時に残酷だ。

彼は今日、生まれて初めて何かを美しいと思う感情を知ったのだろう。そして、在ろう事か蜘蛛は再び囁いた。


 彼女に愛される為ならば何でもする


と。蜘蛛は愚かにもそのモルフォ蝶を愛してしまったらしい。美しいと思うその感情はいつしかモルフォ蝶への愛情へと変わっていった。それは自然の摂理に反してる。あくまで、蜘蛛にとって蝶たちは生きるための食べ物でしかなのだ。それ以下でもそれ以上でもあってはならない。そして蜘蛛は愚かにも欲望のままに巢をより大きく張り巡らせた。それはもはや罠ではなくなっていた。巣は、美しく大きいモルフォ蝶に見せるための蜘蛛が生み出せる唯一の芸術作品愛情表現だった。それに蜘蛛は知っていたのだ。朝露が付いた巣は朝日に照らされて太陽の様に煌めくことを。そしてその輝きこそ世界一美しいものだということも。まるでモルフォ蝶と自分の巣は対照的だと思ったのかもしれない。まぁ確かにそうかもしれない。真夜中の月の光に照らされて光り輝く金属様藍色と朝日を浴びてオレンジ色に染まりながら煌めく巣。彼女もその巣をきっと世界一美しいと思うだろう。しかし同時に、それを作り上げた彼はただの自分を喰らってしまう鬼蜘蛛で世界一恐ろしい化け物だ。蜘蛛はまだその事に気が付いてはいなかった。

蜘蛛の心をサファイア色に染める為だけに昇ったような月は役目を果たし沈んだ。


オレンジ色の陽光が降り注ぐ。


あぁ今日はどんな一日になるのだろうか


目が覚めたモルフォ蝶は花びらの縁で止まっていた。彼女の視界に何か眩しいものが入り込んだ。例の蜘蛛の巣だ。案の定彼女はつい言葉を漏らした。


 なんて綺麗なの


と。耳をすませてずっと待っていた蜘蛛は思わず足を踏み外すかと思うほど喜んでいた。ただ今日はそれだけで蜘蛛のささやかな喜びは終わってしまった。人生とは思い通りになかなかならないものだ。まぁしょうがないだろう。

それから幾日か経っただろうか。この数日間蜘蛛は同じような事を繰り返した。よくもあんなに続くものだと思わず感心してしまう。ただ蜘蛛のささやかな幸せはそう長くは続かなかった。


 お願い、誰か助けて


蜘蛛の巣から悲鳴が聴こえてきた。周りの青筋鳳蝶アオスジアゲハたちがざわついた。もちろん麗春花ポピーたちは何も知らない。蜘蛛の巣は大きく揺れた。モルフォ蝶が彼の巣に引っ掛かったのだ。彼女の悲鳴と共に周りの蝶たちはいなくなった。


 可哀想ね

 でもかかったものはもう無理だよ


そう言いながら、一目散に逃げていく。そんな中、モルフォ蝶に蜘蛛はそっと愛おしそうに近いた。


 ねぇ、怖がらないで

 ずっと君とお話ししたかったんだ

 ずっと君のことを見てたんだよ

 君は本当に綺麗だね


伝わるはずのない言葉を嬉しそうに話す。蝶の言葉が蜘蛛に分かっても、蝶に蜘蛛の言葉は唸り声にしか聞こえない。それがこの自然界の掟だ。

蝶は悲鳴をあげ続け巣を揺さぶった。もう美しい芸術作品はただの罠に過ぎない。

その時彼は気が付いたのだ。決して満たされることの無い自分の欲望の過ちに。そして自分が何者かということに。彼はしばらくの間もがく彼女を見つめ微動だもしなかった。その分彼の心は激しく揺れ動いていたのだ。


 あぁそうか

 僕は化け物だ

 そう化け物だ

 僕は君を食べなければ死んでしまう


 僕は、化け物だ


 もしこの恋が叶わないなら

 もしこの欲望が満たされないのなら

 いっそ彼女の全てを食べ尽くしてしまおうか

 それにこの間から何も食べていない

 食べてしまえば、彼女は一生僕のものだ

 それとも逃してあげようか

 でも感謝されることも

 愛されることも

 一生ありはしない

 あぁ僕はどうすればいい

 愛おしい彼女をどうすればいい

 どうすれば僕の気持ちは彼女に伝わるんだ

 君に愛されるためならなんでもする

 僕は君に愛してはもらえないのかい

 僕は君をこんなにも愛しているのに

 愛しているんだ

 本当に、愛しているんだ

 ずっと君を愛してたんだ

 これからもずっと愛してるんだ


彼が動き出した。そして彼女の方に向かった。逃がそうと、食べようととりあえず彼女の元に行かなければ話にならない。でももう既に彼は決心がついていたらしい。後一歩、後一歩という時だ。いきなり彼女が飛び立った。彼女の美しい翼に張り付いた罠を命がけで振り払ったのだ。蒼い月から溢れ落ちた雫のような鱗粉が辺りに舞い散った。美しかった。目を奪われる程、美しかった。しかし彼にとって全身に降りかかった鱗粉はただの火の粉でしかなかった。彼の心の全てを燃やしてしまう火であった。これでは彼がどっちの選択を選んだのか分からないではないか。唖然とする彼を置いて彼女は空高く舞い上がった。そして死にものぐるいで大きな翼を動かしこの原っぱから逃げようとした。どうやらあの美しい翼はただの誘惑のためだけのお飾りではないらしい。

モルフォ蝶が飛び立ち、再びこのなんの変哲も無い平和があの鬼蜘蛛を残して戻ろうとしていた。いや、正確に言うとそのはずだった。なぜなら、突然飛びたったモルフォ蝶の真っ白ななのかが勢いよく被さったからだ。いや、被さったというより、彼女の体を勢いよく地面に叩きつけた。星屑のようなサファイアのかけらが宙で乱れた。


「パパーすっごく綺麗な蝶々さん捕まえたー」

「どれ、見せてごらん」


麗春花ポピーたちが悲鳴を上げる隙もなく、踏みおられていった。男の子は地面に倒れたモルフォ蝶を手の平に乗せて父親に見せた。死んだように固まって動かなくなった彼女はもう、サファイアそのものだった。


「モルフォ蝶じゃないか、珍しい!外来種だぞ、きっと誰かが逃しちゃったんだな…

アメリカでは森の宝石って呼ばれてる程の世界一美しい蝶なんだぞ、よかったな!」

「やったねぇ!自由研究、蝶々さんの標本にしようよ」


男の子は嬉しそうに飛び跳ねた。麗春花ポピーたちの断末魔が響き渡る。例の鬼蜘蛛は小さな手の平いっぱいに収まったモルフォ蝶を眺めていた。時がまるで止まっているようだった。痛々しく火傷を負った彼の心だけが。


「死んじゃったのかな?」

「強く網で叩きすぎたんじゃないか?次はパパが取ってやるよ」

「ねぇすぐ帰って標本にしようよ」

「もう帰るのか、来たばかりだぞ」


そんなやりとりを人間たちはしばらくの間続けていた。モルフォ蝶はこんなにも呆気なく逝ってしまった。鬼蜘蛛はただただ黙って彼女を見つめていた。


「よし帰るか」


人間の父親が動き出した。再び麗春花ポピーたちの悲鳴が上がる。断末魔は雨のように原っぱを濡らす。父親について男の子が走っていった。


「わぁ、気持ち悪っ…」

「ん、どうかしたのか?」

「でっかい蜘蛛踏んじゃったよ」

「だからちゃんと足元を見て歩けってさっきも言ったろ、虫さん達だって生きてるんだから可哀想だろ」

「分かってるよ、でも靴の裏が気持ち悪いよ…」

「とりあえず車まで戻るぞ」


そういうと、人間の親子は去っていった。沢山の麗春花ポピーたちを踏みつけて行きながら。いや沢山の麗春花ポピーたちを殺して行きながら。それも無自覚に。

自然の美しい秩序を変えてしまうかと心配すらしたこの一匹の愚かな鬼蜘蛛と罪深いほど美しい一匹のモルフォ蝶のお話は恐ろしいほど呆気なく終わってしまった。

打ち寄せる波が一瞬にして引くように。運んできたものを、何も残さず、全てをさらっていった。人間とは身勝手なものだ。つくづくそう思う。それに、人間のようなことを言いたくはないが、「外来種」はモルフォ蝶だけではない。そう、近頃はアネモネの花たちが増えて困っていたのだ。そういえばモルフォ蝶って何故人間が名付けたのか知ってるかい。そうだ、古代ギリシャ神話の話をしよう。

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