第46話 ある貧困者の投書
「······この空の濃い霧は自然現象では無いだって?」
「ちょっと待て。それが本当だとしたら、この霧を創り出している闇の精霊一族のお陰で俺達は毎日寒さと飢えに苦しんでいるのか?」
「何故だ? 何故そんな事をする? 何故そんな残酷な事が出来るんだ!?」
中央公園の広場を埋め尽くす十万の民衆達は、アメリフェス最高議会代表が明らかにした驚くべき事実に呆然とし、放心した。
そして刻一刻とその内なる心に沸々と怒りが沸き起こって来た。
その怨嗟の声は地鳴り様に響き始め、広場は異様な空気になりつつあった。アメリフェスはその中心地に立ちながら、内なる静寂の中にいた。
最高議会好戦派代表の耳には、頭痛がする程の群衆達の怒りの声が全く聞こえていなかった。
この時アメリフェス視線には一人の痩せ細ったみすぼらしい子供の姿が映っていた。最高議会好戦派代表は、その子供に過去の自分を重ねていた。
数瞬の回顧から現実に意識を戻したアメリフェスは、右腕を天に突き出した。
「九等区の貧しい民よ! 私は君達に約束する! この不条理な天界の慣わしと間違った歴史を正すと! 君達をこの地獄から必ず解放すると誓おう!!」
アメリフェスは高らかに宣言した。その様子を壇上の後ろから蒼白な表情で見上げる人物がいた。
この九等区大陸の治安維持を担う憲兵組織の指揮官、ホルモス三等区中将はアメリフェスの演説を脂汗を流しながら聞いていた。
『······この男は正気か? 一体何のつもりでこんな事を口にしている?』
ホルモス三等区中将は太く大きい鼻の汗を拭う事も忘れ内心で独語していた。各大陸に常駐する憲兵は民衆に睨みを利かせる事が仕事であり、暴動発生を未然に防ぐ為に集会などは厳しく取り締まっていた。
この中央公園でのアメリフェスの演説も、集会を禁じる法律に違反する物であり本来な許される筈も無かった。
だが、ホルモスの上官であるバニラス一等大将から直々に命令が下されていた。それは、アメリフェスの行動を黙認しろとの指示だった。
アメリフェスの演説内容は明らかに民衆を扇動する類の物であり、天界に於いてそれは極刑に値する重罪だった。
ホルモスは知る由も無かった。新設された十等区の島に於いて、ウラフなる物が反乱を起こした事実を。
そしてその事実を見逃す代わりに、バニラス一等大将はアメリフェスの言いなりになっている事実に。
「······九等区の民よ。既に弓は放たれている。この九等区の大陸には、諸君等を導く救世主が存在している!!」
アメリフェスは更に声に抑揚を加える。この最高議会好戦派代表が声を発する度に、ホルモス三等区中将の胃が軋んだ。
「その名もウラフ! 彼は地上の世界からこの天界に密航して来た歴戦の強者だ。彼は今こうしている間も行動を起こしている! 全ては諸君達をこの暗黒の世から解放する為だ!!」
アメリフェスの熱弁に、十万の観衆は催眠術をかけられた様にその言葉を信じていった。
「······ウラフ。地上の民」
「俺達の指導者。俺達の救世主!」
「ウラフに従えば、もう飢えなくても済む!!」
熱病にかかった様に、民衆達は虚ろにウラフの名を叫び出した。
「戦え! 九等区の民よ! 自由は血を流し勝ち取ってこそその価値が輝く! 私は全身全霊で諸君等を支援する!!」
最高議会好戦派代表の絶叫に、十万の観衆はウラフとアメリフェスの名を連呼した。民衆達は全身に滾った熱量で寒さを忘れていた。
その群衆の中で、冷静な表情でアメリフェスを見上げる一人の男がいた。茶色い髪に小柄な身体。
年齢は三十代後半に見えた。その痩けた頬は、栄養状態が決して良くない事を物語っていた。
「······アメリフェス。これは君の復讐なのか?」
男は弱々しい声を発し、最高議会代表の名を呼んだ。民衆達の大歓声に手を上げながら壇上を降りるアメリフェスの背中を見送った痩せた男は、熱気に包まれた中央公園広場から離れ、憲兵が管理する事務棟に向かった。
その建物の外には白い木箱が置かれていた。それは民衆の意見要望を聞き入れる投書箱だった。
数ヶ月に一度、それは回収され一等区の大陸にある最高議会に送られる。痩せた男がその投書箱に先程走り書きした意見書を入れた。
すると、事務棟から出て来た憲兵がその投書箱の中を改めた。そして憲兵が舌打ちを立て痩せた男を睨みつける。
「お前か? この投書箱にこの意見書を入れたのは。箱の中はこの一通のみだ。お前が気を利かしてこの無駄な意見書を出すのを止めれば俺達の仕事が一つ減るんだがな?」
憲兵のこの言葉は、投書箱が何の効力を持たない事を遠回しに語っていた。事実、この意見箱は最高議会に送られるが、そこで議会代表員達が意見書を真剣に吟味する事は無かった。
あくまでこの意見箱は貧しい民衆達の不満のはけ口の一つとして設置されているだけだった。
威圧的に意見書の取り戻しを要求する憲兵に、痩せた男は半ば諦めた様に意見書を取るために手を伸ばした。
その時、痩せた男の背後から十数人の憲兵達が血相を変えて走って来た。
「何だ? 何事だ?」
意見書を回収しに来た憲兵は、同僚達の慌てぶりを不思議そうに見ていた。
「ぼ、暴動だ! 中央公園広場で十万の民衆達が暴れだしだぞ!!」
「す、直ぐに船を出せ! 奴等は俺達憲兵を倒せと叫んでいた! ここから脱出するんだ!!」
同僚達の驚愕の事実に、痩せた男を睨んでいた憲兵は呆然とする。憲兵は圧倒的多数で少数の貧しい庶民を威圧するのが常だった。
だが、それが正に逆転した状況が生じた。頭の中に駆け巡った打算と保身から、憲兵達は直ちに逃走する事を決断した。
投書箱を脇に抱えていた憲兵は、何かを思いついた様に痩せた茶色い髪の男の腕を掴んだ。
「お前も来い! いざという時は人質になって貰う!」
理不尽極まりない理由で痩せた男は憲兵に連れ去られる。こんな非常時に何故この憲兵は投書箱を持ち続けているのか痩せた男には不思議だった。
事務棟に詰めていた憲兵達を合わせ、数十人となった憲兵達は小型船で直ぐに飛び立った。
舟から地上を見下ろすと、憲兵達が先刻まで仕事をしていた事務棟を民衆達が囲んでいるのが視認出来た。
「あ、危なかったな。間一髪だったぜ」
「で、でもどうする? このままじゃ俺達は職務放棄の罪に問われないか?」
身の安全を確保した安心感の後、憲兵達はこの先の保身の不安に駆られる。その時、投書箱を抱えていた憲兵が妙案を思いつく。
「いや。違うぞ。俺達は脱走したんじゃない。この天界の歴史上、初となる民衆暴動の事実を最高議会に報告する為に俺達は行動しているんだ。このまま最高議会がある一等区の大陸に飛ぶんだ!」
憲兵の提案に、他の憲兵達もたちまち同意する。その光景を、座り込んでいた痩せた男は空腹感を覚えながら眺めていた。
天界の歴史上、初となる民衆暴動。彼等憲兵はその現場から逃走した歴史上初の憲兵となった。
その事実に気付いていない憲兵達の未来は決して明るく無い。痩せた男はそんな事を考えていた。
中央公園広場の十万の民衆達が今正に暴れ出そうとしていた時、演説を終え壇上から下りたアメリフェスにホルモス三等中将が駆け寄る。
「アメリフェス最高議会代表! 貴方は御自分で何をしたかお分かりですか! これは明らかに民衆扇動の重罪ですぞ!!」
大きな鼻から怒りの鼻息を勢い良く出すホルモスの耳元に、アメリフェスはそっと囁く。
「······ホルモス三等区中将。目の前の民衆達が暴動を起こそうとしている。直ちに鎮圧するんだ。それが君達憲兵の仕事であろう?」
その仕事を無用にも作り出した張本人の信じられない言葉に、ホルモスは絶句する。
「さあ。急ぎたまえ。ホルモス三等区中将。仮に民衆暴動を許せば、君は天界の歴史に永遠に名を残す事になる。歴史上初となる民衆暴動を起こさせた九等区大陸の憲兵総指揮としてね」
アメリフェスの囁きに、ホルモスは怒り心頭だったが、その不名誉な記録は絶対に避けねばならなかった。
しかもアメリフェスの行動はホルモスの上官であるバニラス一等大将から黙認する様に命じられている以上、ホルモスはアメリフェスを民衆扇動の罪で逮捕する訳には行かなかった。
並びの悪い歯を血が滲む程歯軋りをして、ホルモス三等区中将はアメリフェスから離れ部下達に指示を出す。
「この都市から離れるぞ! 北の要塞に向かい、この九等区大陸の憲兵達を全て集結させるのだ!!」
ホルモスは戦略的撤退を即断する。この都市に常駐する憲兵は五千。十万の民衆が蜂起したらとても対抗出来る数では無かった。
この九等区大陸の憲兵総数は五万。その全兵力を以ってホルモスは民衆暴動に対抗する事を決めた。否。それ以外の選択肢が存在しなかった。
ホルモスは自分の名誉の為に、何としてもこの事態を手持ちの五万の憲兵達で解決しなくてはならなかった。
他の大陸の憲兵に援軍を乞うなど、口が裂けてもホルモスには出来なかった。この九等区大陸の憲兵組織の総指揮者のこの判断により、天界の歴史は大きく変わる事になるのだった。
忙しく部下に指示を出しているホルモスに背を向け歩くアメリフェスを、全身黒の甲冑を纏った六人の騎士が守る様に囲んでいた。
その一人の騎士に、アメリフェスは口を開く。
「船に戻るぞ。予定通り八等区大陸に移動し、演説を行う。演説の周知は滞り無いか?」
「問題ありません。八等区大陸で最も栄えている都市で二十万の民衆が集まる予定です」
アメリフェスの質問に、黒騎士が直ぐ様返答する。最高議会の好戦派代表は満足そうに頷いた。
アメリフェスは貧しい下層の大陸全てで演説を行うつもりだった。先刻の演説でアメリフェスは確信していた。
貧しい大陸の民衆達の不満は根深く深刻な物だと。憲兵組織の巧妙な治安維持により、民衆達は羊の様に飼い慣らされていた。
だが、ひとたびその鎖を解き放てば、積もり積もった不満と言う名の怒りの炎は燃え盛り、乾いた草を燃やす様に誰にもその勢いは止められなかった。
『燃えるがいい。全て燃えて灰になれ。この歪みきった世界には似合いの末路だ』
地鳴りの様な民衆達の叫び声を背中に感じながら、アメリフェスは薄暗い心の中で一人独語していた。
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