第40話 地上の民の捕虜生活

 審問会を終えたラストルは、四人の憲兵に囲まれ天界の政治中枢である中央議会の建物を出た。


 外に出ると、生暖かい風がラストルの身体を包む。青い芝生の中央を貫く石造りの道を歩きながら、春を感じさせる空気をラストルは肺の中に取り込んでいた。


 天界の空気は地上に比べ少し薄かった。だが、一ヶ月も経てば適応力溢れる若者の身体はたちまちその空気にも慣れてしまった。


 ラストルは空を見上げ、暖かい日射しを地上に降り注ぐ太陽を両目を細めて見た。ラストルが住む世界では太陽は平等に大地を照らすが、この天界では少し事情が異なっていた。


 一ヶ月前、捕虜として天界の船に乗せられたラストルは、信じられない光景を何度も目の当たりにした。


 カリフェースの街から空に向かって飛ぶ黒い船の中で、ラストルは空の中央に巨大な割れ目を見た。


 その割れ目の中は漆黒の闇であり、船はその闇に向かって航行していた。


「あれは私達天界人が「扉」と呼んでいる物よ。あそこを通って私達は天界の世界に戻るの」


 つい最近まで、天界と地上を結ぶ唯一の道は「虹の塔」と呼ばれる建造物だった。だが、天界人はそれ以外の方法で地上の世界に行き来する方法を確立した。


 茫然と立ち尽くすラストルの隣で、風の精霊一族当主メルセラムが嬉しそうにそう説明する。


 この空を飛ぶ船の原理にもラストルは驚かされた。天界軍が使用する軍船には天空石と呼ばれる鉱石を積まれていた。


 それは、精霊の力を増幅させる効力があった。天界軍は一般の民衆から僅かだが精霊を操る力がある者達を徴用し、風の精霊の力を天空石で増幅させ軍船を飛ばしている。


 メルセラムに言わせると、精霊の力を天空石と言う名の道具によって増幅させるなど自然の摂理に反しいている事だと言う。


 それが六大一族が軍部と対立する理由の一つであり、メルセラム達が使用する船は天空石に頼らず、精霊使いの力のみによって飛行していた。


 程なくして船が割れ目の中に入った瞬間、ラストルの視界は暗闇に包まれた。その空間は音も振動も存在しないかの様に静寂に包まれていた。


 そして暫くすると、ラストルの目には眩しい程の光が射し込んで来た。


「······これは!?」


 ラストルは更に驚愕して自分の目を疑った。紺色の髪の勇者が目にしたのは、空に浮かぶ大陸だった。


 それも大陸は一つでは無かった。九つの大陸が上下に一直線に並んで浮かんでいた。九つの大陸は中央から薄い霧に覆われ、その霧の濃さは下層の大陸程濃くなっていた。


 天界の世界では厳格な身分制度が存在し、九つの大陸で生まれた天界人はそれぞれの大陸から出る事は許されず、その大陸で生き、死んでいく。


 唯一出身大陸から出る事が許されるのは、軍に入隊し軍人になるか、奴隷として上の等民区の天界人に仕える事だった。


 最下層の九等区が一番下に浮く大陸であり、頂点の一等区が太陽に一番近い大陸だった。


 そしてこの太陽の日射しも、この世界の身分制度に迎合するかの様に平等では無かった。


 上から二番目に浮く二等区民が住む大陸の空には、ごく薄い霧がかかっていた。そしてその下の三等区皆が住む大陸には、それより少し濃い霧が空にかかっている。


 そして視線を下に移して行くと、下の大陸程空を覆う霧が濃くなっていく事が容易に分かった。 


 霧が濃くなる下の大陸は太陽の日射しが遮られ、作物の生育が阻害され民は満足な食事を摂る事が叶わなかった。


 事に最下層の九等区民が住む大陸は民衆が常に飢え、治安は天界の中でも最悪だった。それでもこの天界の歴史上於いて、下層の民がそれを不満に反乱を起こす事は無かった。


 何故なら、九つの大陸には一等区民達が送り込んだ恐ろしい憲兵達が常時目を光らせているからだった。


 彼等憲兵は鋭敏な嗅覚を発揮し、反乱を生む危険な芽をたちどころに摘んで行った。一部の富める者と大多数の貧しい者。


 地上の世界と何ら変わらないそ天界の世界の構図を知った時、紺色の髪の勇者は一人ため息をついた。


「······お帰りなさいませ。ラストル様」


 感情のこもっていない人形の様なその声でラストルは出迎えられた。中央議会から四人の憲兵に囲まれ、ラストルは緑に囲まれた大きな屋敷に送られた。


 そこは最上位に位置する一等区民が住むこの大陸の中でも特別な場所だった。一等区民達は勿論、その代表でもある最高議会でも迂闊に手を出せない特権階級が住む区画。


 六大一族と呼ばれる精霊使い達が住む場所だった。


「ただいま。ティル。今日も外は暖かいね」


 短い黒髪のメイド服を着た少女に、ラストルは優しく微笑みかけた。ティルと呼ばれた少女は無言で会釈し、ラストルからマントを丁寧に受け取り壁にかけた。


 この天界の季節は一つだけであり、今日の様な春の陽気がずっと続くとラストルは思い出し、ティルに妙な事を言ってしまったと後悔する。


「ティルは九等区出身なんだよね? あそこは船から見た時、とても濃い霧に覆われていたけど。やっぱり気候はここと同じなのかい?」


 手早くお茶の用意をするメイドの少女に、ラストルはソファーに座りながら問いかけた。

 

「······あそこは太陽の日射しが届かない極寒の地です。こことは違います」


 白磁器のカップに熱い湯を注ぎながら、ティルはか細い声でそう返答した。下層の貧しい大陸の民は、定期的に募集される奴隷の求人に殺到する。


 ある者は貧しい家族を養う為に。ある者は極貧人生からの逆転を夢見て。またある者は過去に起こした犯罪を帳消しにする為に。


 ティルは二年前、親から口減らしの為に奴隷商人に売られた。そして三等区の裕福な男に買われた。


 男は痩せ細った十五歳の少女を買った理由は憐れみでは無く、己の欲望の為だった。半年後、男はティルに興味を失ったと言わんばかりにまた少女を奴隷として売った。


 その奴隷市場を偶然通りかかったメルセラムの目に止まり、ティルは風の精霊一族当主の屋敷で働く事となった。


「お帰りなさい。ラストル。今日の審問会はどうだった?」


 ラストルに用意された部屋に、白いドレスを着た屋敷の主が明るい表情で入って来た。


「いつもと同じだよ。メルセラム。一体この審問会は何時まで続くんだい?」


 ティルの淹れてくれた紅茶を一口飲み、ラストルはため息混じりにメルセラムに問う。天界の茶葉は地上より香りが豊かだった。


「どうかしら。最高議会の考えている事は分からないわ。それよりも貴方との午後の散歩は駄目になったの。六大一族当主の会議が急に入って」


 メルセラムは両腕を組みながら、口を尖らせ残念そうに呟く。六大一族の会議と聞き、ラストルの表情は引き締まった物に変わる。


「······メルセラム。その会議に僕も参加してもいいかい?」


 突然のラストルの要求に、メルセラムはきょとんとした表情になるが、直ぐに笑顔になる。


「いいわよ。ラストル。六大一族の当主達に貴方を紹介するいい機会だわ。一緒に行きましょう!」


 メルセラムはラストルの腕に自分の両腕を回し、肩までの長さの白髪を揺らしながらはしゃいでいた。


「そうだ。もう一つ。審問会に僕と一緒に呼ばれるウラフと言う男。彼はどう言った経緯で天界に来たんだい?」


 ラストルの質問に、メルセラムは細い指を顎に着け首を傾げる。


「ええと。確か地上に住む鳥人一族を天界に運ぶ船の中に潜んでいたらしいわ。まあ密航者ね」


 メルセラムの返答に、ラストルは思案に暮れる。何の為にウラフはその船に潜り込んだのか。


 鳥人一族は地上に存在する希少な一族だった。背中に生やした羽根はメルセラム達天界人の半分以下の長さであり、鳥人一族は空を飛ぶ事が出来なかった。


 鳥人一族は、かつて天界が地上と友好的な関係を築いた時の混血児の子孫だった。天界は鳥人一族の存在に気付き、一年前から彼等に接触し、天界への移住を勧めていた。


 鳥人一族は羽を生やした珍しいその姿の為に、常に奴隷商人から狙われていた。鳥人一族は決断した。


 安寧の地を求め、天界の世界に移る事を。だが、これは天界の最高議会の罠だった。最高議会は最下層の九等区より更に下の十等区を造る事を推し進めていた。


 理由は下層の民衆達の不満を逸らす為だった。自分より下の身分が存在する。その事実が貧しい者達に精神的安定をもたらすと最高議会は考えた。


 鳥人一族達は富める者達の利己的な政策の犠牲者となった。


 最下層の九等区民が住む大陸の下には、小さい島が浮かんでいた。そこは九等区よりも更に濃い霧に包まれた灰色の空の荒れ地だった。


 鳥人一族達はその島に送られた。そこは正に流刑地だった。ここで鳥人一族達は天界人に騙された事に初めて気付いた。


 だがこの島から脱出する術も無く、今日食べる食事にも事欠き、地獄の様な日々を鳥人一族達は島で過ごす事になるのだった。


 寒風が吹き荒れるその島の中で、一人の少年が空腹を覚えながら空を眺めていた。少年はある巨漢の男の事を思い出していた。


 地上に住んでいた頃、鳥人一族である少年は森の中で奴隷商人に囲まれ、連れ去られそうになった。そこに巨漢の男が突然現れ、手にした大剣で奴隷商人達をあっという間に斬り伏せた。


 巨漢の男は今の少年と同じく飢えていた。少年は鳥人一族の集落に巨漢の男を連れて連れて行った。


「息子を救ってくれた恩人よ。名を何と申される?」


 少年の父は巨漢の男を精一杯もてなし、恩人の名を聞いた。


「······ウラフだ」


 一大勢力を誇った武装勢力の首領は、当時カリフェース、タルニト連合軍に敗れ、単身森を彷徨っていた。


 そこで少年を救ったのは単なる気まぐれだとウラフは語った。元武装勢力の首領は暫く鳥人一族の集落に留まった。


 そして鳥人一族を迎えに来た天界軍の船に忍び込んだのだった。そして流刑地の様な島に辿り着いた時、ウラフは憲兵に発見され、最高議会に移送された。


 ウラフが連行される際、その姿を見送っていた少年に元武装勢力の首領は小さく呟いた。


「······俺にもお前位のガキがいる。お前を助けた理由はそれだ」


 ウラフは少年にそう言い残し、流刑地の島から去って行った。


 


 ······風の精霊一族当主の私室をノックする者がいた。部屋の主が入室を許可すると、黒髪の奴隷少女が姿を現した。


「今日のラストルの様子は? 変わった事はあった? ティル」


 衣装部屋からドレスを選びながら、メルセラムはティルに背を向けたまま問いかける。真紅のドレスを身体に当ててみたが、鏡に映った姿が気に入らなかったのか、ドレスを床に投げ捨てた。


「はい。メルセラム様。ラストル様は陽気のお話をされていました。この天界。いえ。この一等区の大陸が常春だと言う事に気付き、陽気の事を口にしたのを少々悔やまれている御様子でした」


 ティルの返答を、メルセラムは緑色のドレスを掴みながら頷く。


「それでいいわ。ティル。ラストルに関しては逐一私に報告なさい。どんなささいな事でもね」


 ティルは「かしこまりました」と頭を下げ、部屋を出ようとした。その時、メルセラムが奴隷少女に初めて振り返った。


「ティル。私は人の心の色が見えるの。貴方の心の色はどす黒く、まるで地の底の闇のような色をしているわ。でも。私は嫌いじゃないわ。貴方はお利口さんだもの。だからね。ティル。私を失望させないでね」


 メルセラムは優しく微笑む。だが、その鋭い両目は寸分も笑っていなかなった。


「······メルセラム様に拾われた御恩は生涯忘れません。私はメルセラム様の為なら、どんな事でも致します」


 ティルは主人に頭を下げたまま、感情が消え失せた声で忠誠を宣言する。その忠実な奴隷の態度に、メルセラムは満足そうに頷いていた。



 

 


 ······天界軍がカリフェースを強襲してからニ週間が経過した頃、カリフェースの王都にある聖騎士団の鍛錬所では一人の少年が訓練を重ねていた。


「······信じられん。一週間前まで、手も足も出なかった筈だ」


 副聖騎士団長であるワトランは、黒く短い癖毛に手を当てながら目の前の光景に驚いていた。


 白髪の少年が、聖騎士団の中でも有数の実力を持つ騎士から剣の稽古で一本を取った。ワトランが口にした様に、つい一週間前までは少年は騎士になす術無く負かされていた。


 亡き聖騎士団長ヨハスの息子アキラスは、父を失ってから人が変わった様に剣の鍛錬を積んでいた。


 元々アキラスは知勇に優れ、周囲から将来を嘱望されていた。だが、アキラスには悠長に将来などという長い時間を待つ気など微塵にも無かった。


「本当に会得したのか。アキラス。古代呪文「乾土水吸」を······」


 ワトランが口にしたのは、古代呪文の中でも会得が段違いに難しく、扱える者が殆どいない希少な呪文だった。


 この古代呪文を唱えると、その字の名の通り乾いた土が水を吸い込むように術者が得る経験値が数倍になり、短期間で飛躍的にレベルを上げる事が可能になるのだった。


 だが術者には副作用もあった。経験値が数倍になる代償に術者が負うダメージも数倍になってしまうのだ。かすり傷が重症になり、重い傷は即座に命に関わる致命傷となった。


 事実アキラスは剣の稽古中に、軽い打ち身が骨折になった事が何度もあった。白髪の少年は自ら治癒の呪文で無理やり治し、意識を失うまで毎日鍛錬を続けた。


 そしてついに、聖騎士団の騎士と互角に戦える迄に成長した。疲労で両足が震えていたアキラスの姿を見ながら、ワトランは心痛を抱いていた。


 アキラスが生まれた頃からその成長を見守って来たワトランは、両親を失った白髪の少年の親代わりになるつもりだった。


 亡き父の仇を討つ為に無茶な鍛錬を続けるアキラスにワトランは胸が痛んだが、それを止める事は憚られた。


「······もういい。今日は休むんだ。アキラス」

 

「······はい。ワトランさん」


 まだ少年の小さな肩に手を置き、ワトランはアキラスに優しく語りかける。白髪の少年も素直に従った。


 時間をかけてアキラスの傷付いた心を癒やし、負に傾いた精神を元の快活な少年に戻す。ワトランは上官であった亡きヨハスの為にも、それが自分の使命だと誓っていた。


 その翌日。アキラスは父ヨハスの愛用していた家宝の剣と共に、カリフェースの王都から姿を消した。

 

 


 

 


 

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