あの日だ。あの日のことだ。

 忘れもしない、全てが狂いだしたのは、あの日の朝午前7時三十二分から。

 その瞬間は芳川歩生の命日であり、緑のコートの誰かの誕生日だった。


 朝。

 いつもの日課で歩生が新聞を取ろうと玄関に向かおうと、扉の向こう側で何かが動く気配がした。

 ふと気になって、つい扉を開けてしまった。

 そこに頭だけの彼女がいた。


 木原孝司は皆元知美を殺した後、彼女の頭をもいだりはしなかった。

 なぜなら彼が好むのは、絶望の表情と悲鳴なのだ。

 頭をもいだりしてしまえば、何も見られないし、何も聞こえない。

 だから、彼が知美の頭をもぐわけがないのだ。


 では誰が、彼女の首を引きちぎって、ここまで持ってきたのか。


 誰かではない。やってきたのだ。彼女自身が、そこへ。


 引きちぎられた首の断面に埋め込まれた【骨】が、彼女をここまで連れてきた。

 それは、彼女自身の能力でもあったし、そこで終わりではなかった。


 泣くべきか、鳴くべきか迷う歩生の腕に、知美の髪が巻きついた。

 タコのようにイカのように、彼女の髪はまるで触手のように伸びて、歩生を捕まえた。


 そして這い上がる知美は、歩生の中へと入っていった。

 腹の中へ、胸の中へと。

 硬直する歩生の手のひらに、知美の骨がぽとりと落ちた。

 

 そうして【緑のコートの誰か】は完成した。


 彼はもはや芳川歩生ではないし、彼女は皆元知美でもない。

 二人の人間の感情と願いが合わさった、【何か】だった。

 そして皆元知美の願いは叶う。

 恋人と永久に寄り添い続けるという純粋な願いが。

 もう2度と離れ離れにならないように。もし、そうなったとしても、2人の恋が決して終わらぬように沢山の予備を作って。


 そして、皆元知美が所持する骨は、芳川歩生の願いも叶える。

 それは幸せな日々に戻りたいという思いと、過去を乗り越えたいという祈り。

 アルバムの中にいる彼女との日々に飛んでいきたいという思い。

 

 果たして骨は2人の願いを叶えた。

 歩生は骨を集めた。

 木原や裕理を殺すときは、相手の時間を加速させて急激に老化させて殺し、進めた時の分だけ、知美の時を戻す。

 頭だけだった彼女は、徐々にその体を取り戻していった。


 知美は結合を進め、歩生の体の浸食を進めていた。

 その侵食もやがて腹部から頭部へと伸びていき、そこまで進んだところで浸食はぴたりと止まった。

 

 所持する骨の数が増えたことで、知美の能力も進化したのだ。

 それは結合や複製を超えたもの――創造だった。


 知美と歩生の子供。

 生まれるはずだったそれが、歩生の左半身を取り込んで産まれる。


 それは、もはや人ではなかった。

 知美の願いによって生み出された、空想上の何か。

 それそのものに脳はなく、二人の人間の脳を共有して思考する何か。


 それは――緑コートはもはや当然人ではなく。

 人類とは別種の生命体となりつつあった。

 

◆◆◆


 紺野理香子が目的の中学校に辿り着いたのは、もうすぐ夜の8時になろうかという頃だった。

 あの同じ顔の少女たちから情報を聞き出し、どうにかここまでたどり着いた次第である。

 幸いにも学校には誰も残っていないようで、正門をよじ登って容易く侵入することが出来た。


 体育館だと、あの少女は言っていた。

 理香子は耳を澄ませながら、夜の校舎を一人歩く。


 キュ、キュ、キュと。

 何かが擦れる音が聞こえた気がして立ち止まる。


 理香子は直感的に、その音の方に向かって駆けだしていた。

 正門から入って、校舎全体の左奥側にその建物はあった。

 緑色の思い扉をどうにか開けて、中に入る。


 目に飛び込んできたのは、何かに捕まっている肇だった。

 開かれた緑のコートから伸びる4本の手に絡めとられたまま、肇の視線がこちらへと向けられる。


「理香子、逃げ――」

 肇の言葉そこで途切れた。

 彼女の肩を掴んでいた手が、次の瞬間には口をふさぐように彼女の頭に掴みなおしたからだ。


 そして――。

 何の音も出ずに、彼女の頭部は急速に老い、そこだけが砂になって消えた。


「え……」

 突然の展開に、理香子はただその言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった。



 彼女と過ごした日々が、頭の中を駆け抜けていって――

 それらは頭を失った彼女の体が崩れ落ちるのと同時に、過去のものになった。

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