復讐の季節

 篠原絵里子しのはらえりこという女性がいた。

 少しおとなしい性格で、優しくて、他人を思いやれる女性だった。


 彼女はアパレル系の仕事に就きたくて、専門の大学に通うために田舎を出て一人暮らしを始めて、そこで恋人を作った。


 ほかのカップルと同じように会話をして、食事をして、デートをして、そして夜を共に過ごした。

 彼はあまり感情を表には出さないタイプの人間だったが、それでも絵里子が提案したことには何も言わずに従ってくれていたので、それが嫌いなわけではないように思っていた。


 だが。

 冬のある日、絵里子は自分が妊娠していることを知った。

 むろん、関係を持っているのは彼だけなので、彼の子供であるのは明白だった。


 学生の身分でありながら、子を身ごもるというのは、世間体を気にすればあまり良いものではないだろう。

 しかし、彼に打ち明けないわけにもいかず、絵里子は彼を喫茶店に呼び出した。


 窓の向こうでは雪が降っていて、横断歩道を小さな子供が親に手を引かれて渡っている最中だった。

 絵里子はそれをぼうっと眺めていると、彼がやってきて向かいに座った。

 

 切り出し方が分からず、とりあえず飲み物を注文して、それから他愛のない話をした。

 授業の事、家族の事、そんなことを話して……そして一息ついたところで、ようやく切り出した。


 子を身ごもった。

 産みたい。

 そして結婚してほしい。

 

 遠回しにそんな事を彼に言った。


 絵里子はきっと生涯、その時の彼の顔を忘れることはなかっただろう。

 能面のようだった彼の顔が、さっと青ざめた。

 怒りと恐れが入り混じったような表情を浮かべて、彼は一言「別れよう」と告げたのである。


 それからさっと席を立って、彼は消えてしまった。

 後日、絵里子の元には堕胎のための費用が届けられていた。

 差出人は無かったが、これが彼からのものだということは分かった。


 

 けれど。

 絵里子は優しい性格で、この身に宿った命を殺すことが出来なかったので。


 だから子を産んだのである。

 子は娘だった。

 名は瑞枝とつけた。


◆◆◆


 さすがに図書室を出てからは、目立ってしまうのでドールズ・オーダーを一時解除し、進行方向が分かる程度にまで人形を歩かせて、また解除する、という方法をとっていた。


 肇と瑞枝の二人は、すでに神森町を抜けて、そこから少し離れた住宅街を歩いていた。

 神森町はマンション街だが、そこを出たところにあるのは一軒家を中心とする住宅街だった。

 今は人通りもないので、ドールズ・オーダーを解除せず人形をひたすら歩かせていた。


 ここらに越してくる人間の殆どは、神森町のマンションに住むことを選ぶ。

 そちらのほうが安いし、一軒家ほどはなくともそれなりに広いからだ。

 逆に一軒家は、維持費が多くかかってしまうので、あまり人気があるとは言えなかった。

 せいぜい庭をほしがる人間が購入するくらいに留まっている。そのせいか、この辺りはずいぶん静かだった。


「一つ、聞きたいんだけど」

 さっと頬を風が撫でていった。

 それは冷たくて、引っかかれたように頬はこわばった。

 瑞枝の手首に巻かれた包帯が、ゆらゆらと揺れる。


「オレから【骨】を借りてまで殺したい奴ってのは、一体どんな奴なのさ」

 瑞枝はしっかりした足取りで、そのまま歩き続けた。

 質問に答えようという気はないのだろうか。肇がそんなことを思い出したその時に、瑞枝が口を開いた。

「普通に生きてて、誰かを殺したくなる理由って、一つしかないんじゃない?」

 

 復讐、という言葉が脳裏に浮かぶ。

 自分にとっての木原と同じ存在なのだろうか。

 いや、自分の場合はそもそも復讐でも無かったのだが……。


 それ以上の会話をする前に、人形が足を止めた。

 そこにあったのは、小綺麗な一軒家だった。

 二階建てで、普通の一軒家より五割増しで高そうな家だった。

 住んでいるのは、大金持ちとまではいかなくても、それなりの金持ちなのだろう。


「――人形が止まった。己が帰るべき所を見つけたのね」

「つまり、この中に紺野が居るって事?」

「そういうことになる。そして、おそらく誘拐犯もこの中に居る」

「――思い出したことと、気付いたことがある」

「何?」

「どうして誘拐犯がクズ野郎だって知ってるんだ?」

「誘拐なんてするやつはクズ野郎でしょ」

「そこじゃないだろ」


 肇の問いに瑞枝は答えない。ただ、あいまいな視線を寄こすだけだった。

 誘拐犯の家の玄関を前にして、肇たちはただじっと立ち止まる。

 長い、白い息を口から吐き出してから、瑞枝は力なく笑った。

 するすると彼女は、自分の手首に巻かれた包帯を解いていく。


 肇はクズと呼ばれた人間の家の表札を見た。

 見ればそこには、裕理人志と書かれている。


「さぁね。それより、どうやって中に入ろうかしら。まさかインターホンを鳴らすわけでもないし」

「オレの能力で入れ替われば良い。適当に小石でも投げ込んで、それと入れ替わるんだ」

「あら便利」

「まずはお前からだ」


「でも、その前に骨を頂戴」

「何?」

「アンタの入れ替えるって能力。昨日試した感じだと、二つになっても変化が分からなかったんでしょ?」

「――それも見てたのか」

「まぁね。……でもアタシの場合はハッキリしてる、どうなるか。使い道が分からないアンタの能力より、アタシに骨を渡しておいた方が確実じゃない?」

「けど、お前の能力が誘拐犯に有効な能力とは限らないだろ」

「でも、アンタの能力よりも用途が確実。アタシの能力は、誘拐犯を必ず殺そうとする」


 じりと瑞枝に睨まれて、肇はため息をつくほかなかった。

 つまり初めから、そういうことだったのだ。


「――中の奴が、ソイツってことか」

 肇の問いに瑞枝は短い笑いで返す。


「でも、骨にはマーキングさせてもらう。もしオレたちを裏切るようなことがあったら、何かと入れ替える」

「それでいいわ」

 

 肇は骨を取り出し、それを瑞枝に渡した。


 その後、落ちていた小さな粒のような小石を適当に拾って、そっと誰にも見られぬように家の中に投げる。

 あまりにも小さかったので、落ちた音もしなかったが、きっと小石は家の中に入ったのだろう。

 それから瑞枝に触れて、小石と彼女の位置を入れ替えた。


 もう一度同じことをしようと、瑞枝が居た場所に現れた小石を拾おうとして屈んだ瞬間、後頭部を強い衝撃が襲った。

 誰かに何かで殴られたような感覚。


 そこに倒れ込んで意識を失う寸前に見たのは、緑色のコートだった。


◆◆◆


 あれは誰だ。

 二人とも学生のようだが、灰色のアスファルトの上を『ノートが走っている』

 ――ノートが走るか?


 裕理人志は、昼間からやってきた訪問者たちをじっと窓の中から覗き見ていた。

 本来なら、今頃出社していなければならない時刻なのだが、今日ばかりは休むことにした。

 紺野理香子について、調べ切れていないからだ。


「――アナタは、敗北する」

 理香子は既に起きていた。

 ベッドの上にいる彼女には趣味の一環で買った拘束具をはめている。

 手枷足枷のおかげで彼女は、まるで芋虫のように体をくねらせることしか出来ないでいた。

 どうみても餌なのだが、その瞳に宿る意志の色は、色あせることはなかった。


「なるほど。彼奴ら二人は、キミを助けに来た仲間というわけか?」

「二人?」


 理香子が不思議そうな顔をした。どうやら彼女の中で人数があっていないらしい。

 だが、この際増えているのか、減っているのかは関係ない。


 敗北するわけがないのだ。例えどんな相手であろうとも、【支配】してしまえば、もう後はどうしようもないのだから。


 現実は残酷だ。強者が弱者を支配して食い物にする。

 しかし、ルールが分かったのならば、強くなればいいだけの話だ。

 支配者と奴隷というルールを知ったのならば、支配者になればいいのだ。

 人生とは、そういうゲームなのだから。


◆◆◆


 霧元肇には感謝している。

 裕理人志の自宅に入った篠原瑞枝は、右手を壁に当てたままじっとしていた。

 本来なら彼女は、霧元肇が後ろからついてきていない事に気づくべきなのだが、念願の宿敵を前に、そういった冷静な思考は排除されていた。


 この家に居る人間はサラリーマンだ。

 そして今は平日の昼間。

 普通なら、こんな時間には誰もいないはずだ。

 しかし、果たして本当にそうだろうか。


 家の中はしんとしていて、まるで無人のようだった。

 壁についたままの右手にも、何の振動も返ってこない。

 だが、だからといって油断することは出来ない。


「まずはアタシの能力で攻撃する。誰もいなけりゃ、しっちゃかめっちゃかになるだけだけど」

 と、背後についてきているはずの肇に呟く。

 返事は帰ってこないが、瑞枝は自分自身の中で伝わったものと処理してしまっていた。


 玄関口に几帳面にもそろえられた男物の靴に全て触れていく。

 瑞枝に触れられたそれらの下に、人形が現われる。


 さっきと同じくるみ割り人形たちだったが、今は違う。

 靴が変形し、サーベルのようなものになっていた。

 それを人形が手にしている。


 どうやら持ち主の元へと返る所は、前の能力と同じらしかった。

 人形たちは真っ直ぐに玄関を抜けて、リビングへと走っていく。

 瑞枝もその後を追う。


 長めの廊下を抜けた先に広がっていたのは、大きなリビングだった。

 部屋の半分はテラスのようになっていて、二階に上るための階段が伸びていた。

 人形たちは、その階段を上っていた。


 その先に、この家の主は居る。

 場所から考えて寝室だろうか。

 寝ていたにせよ、なんにせよ。ともかく寝首が掻ければ幸いだ。


「【命令】だ。止まれ」

 吐き捨てるような男の声があたりに響く。

 人形たちはその声を聞くやいなや、動きを止めてしまった。


「どうやって、ここを突き止めたのかは分からなかったが、なるほど。持ち主の元へと帰る能力か。面白い」

 二階部分から、見下ろすように男が立っていた。

 自分と同じような癖のある髪の毛をしていて、目元は毎朝鏡に映っている自分と、よく似ている。

「――裕理人志」

「そして、私の名前を知っている。いよいよキミは誰なんだ?」

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