『セブンス・ルーム』と『ズー』②
初めて誰かを殺したのは、大学生の頃だった。
簡単な思いつきだったのだ。とでも言えば、それはきっと免罪符になるくらいの、簡単な話だった。
要は、偶然をたぐり寄せたというだけの話なのだ。
もしかしたら死ぬかもしれない、という不確定の要素をはらんだ、何らかの行動をしたのである。
結果として、同じ大学の女生徒が死んだ。
死体が見たかった訳でもなければ、彼女に恨みがあったわけでもない。
ただ、【凄く溜まっていて】それを吐き出さなければ、苦しかったから、かもしれない。
とにかく、そのままで居たら、自分は壊れてしまうのではと思ったのだ。
昔、人形展に行った事がある。
神森町の中央にある、黒い四角形の建物の中。
この町に住み始めてから、ずっと気になっていた。
奇妙な話だが、自分以外の人間はその建物を気にする様子は無かった。
視界に入った所で無視して、歩を進めて歩き去ってしまう。
だが自分は気になった。
ある日、人形展が開かれるという話を聞いた。
前々から気になっていたので、さっそく向かうと中に飾られていたのは、もはや人との区別が付かない人形たちだった。
触れればきっと、人のソレと同じように、ほどよい弾力を持ち、温もりすら感じられそうなほど、それは精巧に出来ていた。
だが、【アレら】には、感情がない。
そこに向かった理由の一つに、自分がもう人を殺さなくても良いのではと、思ったからだ。
人形で我慢出来るのではと、期待していた。人形を壊すのは罪にはならない。
私は、その時は得体のしれない誰かを殺したいという衝動を抱えていたが、捕まりたくはなかった。
だがやはり、作り物では駄目なのだ。
偽物では駄目だったのだ。
人を満たすのは――人の心を満たすのは、人の心なのだ。
温もりなり、熱なり、とかくそういった、代替出来ない何かなのだろう。
ふと思う。
【骨】の力はなぜこうも、こんなにも都合のよい能力を自分に与えてくれたのか。
誰も侵入出来ず、邪魔されない空間は、殺人を行うのにはもってこいだ。
さらに、他の生物を自分好みに凶暴に変化させる力は、まさに自分の性欲を満たすためだけに存在しているような力だ。
もしかすると、【骨】が与える力は、持ち主が求めている【願い】を叶えるために必要なものなのかもしれない。
◆◆◆
霧元肇はしばらく、眼前の敵を見定めていた。
おとなしそうなベージュの服に身を包んだ、その男の目は、そこだけが別の生き物のように異彩を放っている。
それは獣の目だった。狩りを楽しむ獰猛な獣の瞳だった。
コンクリートの檻の中で、自分たちは餌なのだ。
「いつかは、そうきっといつかは来る日だった。それが今日だっただけに過ぎない」
木原の声は、普段よりもトーンが一つ低く、妙に落ち着いていた。
「誰かがボクにたどり着く。キミたちが、【皆元知美の頭】から何を得たのかは知らないけど、ボクの事を知ったのならば、ここで死んで貰うしかないというわけだが……」
一つ、肇の頭に引っかかった。不意に木原は妙な事を口走った。
皆元知美の頭を、自分たちが持っていると、この男は思っている。
しかし、自分たちはそんなものは持っていないし、今この瞬間まで、連続殺人事件の犯人が奪っていったものだと考えていた。
「――連続殺人事件の犯人は、先生だったんですね」
もうそこに出ている答えを、肇はあえて問うた。
木原は眉一つ動かさず、じっとしたまま、口を開く。
「そうだよ? だがそれを知ったところで、何になるというんだい。キミたちは此処から出られないし、ここで死ぬんだ」
部屋の隅の影がうごめいた。
チュィ~ン、と奇怪な鳴き声が部屋のあちこちで聞こえる。
暗い影から、それらは一斉に肇たちに姿を現す。
「ネズミ?」
背後の理香子がぼそりと呟く。
それはネズミ代の大きさで、しかし毛は無く、ピンク色の肌で、目がない代わりに、鋭い牙が見えていた。
明らかに肉食獣だ。
数は二十を超えている。
ネズミのような生物は、肇たちのほうを向いたまま、じっとして動かない。
あの犠牲者達の獣に喰われたような傷跡は、全てコイツらの仕業だったのか。
(姉の体を引き裂いたのは、コイツらなのか……?)
「前に殺したのはウチの生徒だったか。名前は……いや、忘れてしまったし、そうであることが大事なんだったか。
ボクの人生において脇役の女性を雑に殺すことが、ボクの生きがいなのだから」
木原が欠伸をした。
「実は最近寝不足なんだ。前の少女を殺すのに時間をかけすぎてしまって。反応が良かったものだから、ついつい夜更かしをしてしまった」
ぎろりと肇は木原を睨んだ。
あの疲れた顔は、生徒を思ってのものではなかったわけだ。
敵だ。
こいつこそが、自分がずっと追いかけて来た敵。
姉の仇というわけだ。
「【ズー】……。それは生物を獰猛で従順なしもべに変える、ボクのもう一つの能力。諦めるんだ。コイツらは獲物を絶対に逃さない。この部屋に入った時点でキミたちの負けなんだ」
確かに。今の自分たちには対策が無い。そのままで闘うのは得策ではない。明確な攻撃手段も定まっていない。
しかし、次の手はある。
「――紺野」
無数のネズミたちが吠え立てる部屋の中で、肇は落ち着いて言う。
「オレで良かったな。オレの【入れ替える能力】だからこそ、この危機を抜けられる」
肇が理香子を抱き寄せる。
冬の寒気に当てられた冷たい手が首に巻きつく。
肇は自分の体に右手を当てて、そのまま念じた。
かつて左手で触れたものと【自分たち】を【入れ替える】。
次の瞬間には、すでに目の前の景色は変わっていた。
僅かに明かりの灯っていたコンクリートの四角形の部屋ではなく、月明かりだけが差し込む廃墟が眼前に広がっている。
ついさっきまで居た、廃ホテルの一室だった。
◆◆◆
あの【骨】が届いた日。
指の骨だろうか。それは小さかった。
乾燥してぱりぱりになった【骨】には、小さな穴が開いていた。
ちょうど紐を通すくらいの穴だ。アクセサリーにしろ、ということなのだろうか。
それにしても気味が悪い。
何せ【骨】だ。そもそも何の【骨】かさえ分からないというのに。
いや、それ以前に誰がここに置いたのか。
恐る恐る【骨】を箱から取り出すと、その下に小さなメモが敷かれていた。
【これはアナタの願いを叶えるための道具です。存分にお使いください】
いたずらか、そうでないにしても間の悪いことだった。
思わず手にしていた【骨】を握りつぶしかける。
しかし予想以上に【骨】は硬く、いっこうに潰れる気配さえない。
【骨】を握っていた右手には、小さな粉が付着していただけだった。
仕方なく【骨】を机の上に置く。
ほんの些細だが、その時異変は起きていた。
よく注意して見なければ分からないほどの、微々たる物だが、一瞬で【骨】が移動したのだ。
いや、【骨】だけではない。メモ用紙もだ。
【入れ替わっている】
目の前で一瞬にして起こった事象に、肇はしばらく呆然とするしかなかった。
メモ用紙と【骨】の位置が一瞬で入れ替わった。
何故だ。一体何があった。
肇は冷静に先の自分の行動を思い返す。
さっき自分は、まず右手で【骨】を取り、次に左手で【メモ】を取った。
それから、【骨】を机の上に置き、続いて【メモ】も机の上に置いた。
この二つの距離は僅かだが離れている。
自分がおかしくなってしまったのだろうか。
だが、今目の前で起こった事象を確かめなくてはならない。
肇はもう一度【骨】に右手で触れ、次に【メモ】に左手で触れた。
しかし、何も起こらない。
やはり何かの間違いだったのか。
疲れているのだろう。
念のため鼻でわらいながら【入れ替われ】と念じてみる。
するとどうだろうか、二つの位置がぴったり【入れ替わった】のだ。
これは幻ではない。
肇は自分の両手をまじまじと見つめた。
◆◆◆
「全く、本当にキミの言う通りだったね」
理香子はため息混じりに、冷や汗を拭くように、髪をかき分ける。
普段は余裕たっぷりの彼女も、今回ばかりは少し動揺しているように見えた。
「キミの能力が無ければ、あの密室から脱出することは出来なかったというわけだ」
辺りは静寂に包まれている。
だが、月明かりから逃れた所にある闇の中では、何かが息を潜めているような気がした。
そして、それは真っ直ぐに素早く、理香子のほうへと駆けていく。
月明かりに照らされて浮かび上がったのは、さっきの部屋で見たピンク色のネズミだった。
舌打ちまじりに理香子が体勢を崩してネズミの攻撃を避けようとする。
間一髪の所でネズミの鋭い歯は、彼女の和らげな手首を裂いていった。
鮮血が舞い上がる。
「紺野!」
夜の闇を勢いよく舞う血液を見て、肇は思わず叫んだ。
手首を裂かれたというのに、しかし理香子は涼しい顔をして、通り過ぎて闇の中へ逃げ込んだネズミを尻目に言う。
「なに。ワタシもだよ、霧元クン。これでいい。ちょうどワタシの血が出て、それがアイツに付着したんだからね」
白い肌を月明かりに怪しく照らして、紺野理香子は、自分の手首を握りしめながら笑っていた。
直後、甲高く短い小動物の悲鳴が部屋に響いた。
ネズミのような小さな体を、赤黒い無数のトゲが串刺しにしている。
「【血液】は人の証、命の証だ。ワタシの能力は、血液という命を操る。今回はネズミに付着した血液を内側に【刺した】だけだがね」
暗闇の中でネズミはぐったりとしていて、それ自体の血液と理香子の血液とが合わさって、小さな赤い池を作っている。
何とか、このネズミは撃退した。
しかし、このネズミがここに来ているということは。
「気をつけろ。木原孝司はワタシたちを追跡してきている。そして来るとすれば、扉からだ」
木原の能力は、とかく扉が無ければ始まらない。
だから、彼が何かをするとすれば、それは全て【扉】から行われることになる。
この凶暴な生物を送り込むのも、彼自体がこちら側に来るのも、【扉】からやって来る。
トタトタトタ、と。
小動物が移動するような音がした。
すでに、ネズミたちは送り込まれているらしい。
しかし。
もうすぐそこまで、敵は来ているのかもしれないというのに、理香子は死体になったネズミを観察していた。
「おい、もうそんなことをしてる場合じゃないだろ……!」
「場合だよ。このネズミには目が無い。つまり視覚でワタシたちを捕らえているわけではない。
嗅覚だ。ヤツらは嗅覚で獲物を捕らえているんだ。ワタシたちの匂いを追ってきているというわけだ」
ネズミたちの足音がだんだんと近づいてくる。
だが、あくまで理香子は冷静な表情をしたまま、思考を続けていた。
月明かりに照らされて光る、陶磁器のように白い肌を、鮮やかな赤色の血が滴っていく。
「そして、勝機があるとすればそれだ」
彼女はおもむろに上着を脱いで、そこに手首から噴き出す血液を染みこませていった。
紺色の上着が、みるみる朱色に染まっていく。
「反撃開始だ」
それは自らに言い聞かせるように。
理香子はそう言っていた。
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