密室と薔薇

 ひとしきりドリンクバーを堪能した紺野理香子は、さて、と短くつぶやいて立ち上がった。

 霧元肇は、先ほど彼女にもらったノートを鞄にしまっている最中だった。


 先ほど数ページ確認したが、やはり理香子の言うとおり、あまり参考にはならないのかもしれない。

 肇は自分の頭の中にある事件の記憶と、このノートに書かれていることとを照らし合わせる。

 どれも、一度は見たこと聞いたことのあるものばかりだった。

 

 ふと理香子の姿を探すと、すでに彼女はレジのほうへスタスタと歩いていっていた。

 置いていかれぬよう、肇も慌てて席を立つ。

 支払いを済ませて外に出ると、また朝と同じように凍える寒い空気が頬を撫でていく。

 一足先に支払いを済ませた理香子が白い息を細かく短く吐き出している。


 肇がその横に並ぶと、それと一緒に理香子も歩き出した。

 パブロフを出たところすぐにある横断歩道を渡ると、噴水の広場がある。

 無邪気な幼稚園児たちが走り回っていた。

 わけのわからない、何が楽しいのかもわからないような遊びをしている。


「まったく、子供は無邪気だね」

 ふん、と嘲笑うように理香子が吐き捨てる。

「ワタシたちは来年受験だってのに。ああいう無邪気なガキを見ているとムカムカするよ。しかもこっちは見知らぬ土地に転入してきて、随分疲れてるってのに」

「――酷い八つ当たりだな。っていうか、転入生だったのか」

「あぁ、そうだよ。あれ、言ってなかったかい?」

「聞いてない」

 そうだっけ、と彼女は呟きながら、またスタスタと歩き出した。


 噴水の広場を抜けたところに、あまり近寄らない建物がある。

 立ち並ぶマンション群の間にぽつりと、肩身を狭そうにして建つ【黒い箱】のような建物。


「そういえば、前から気になってたんだけど、この建物はなんだい?」

 ほらこれ、と理香子が件の建物を指差して言った。

「まるで、黒い箱のような――。一体何が置いてあるんだ?」

「美術展だよ」

「なんの? 絵画の?」

「普段は使ってないんだろうけど、個展とかを開くとかに使うんだってさ。前は人形展なんかをしてたっけか」


 ふぅん、と自分から聞いたくせに興味なさげに理香子が返す。

「さて、それじゃあ、ワタシはここで」

 じゃ、と理香子が別の方向に向かって歩き出した。

 そっちに家はあっただろうかという疑問が肇の中で浮かんだが、それもすぐに夜の闇に溶ける理香子の背中と一緒に消えてなくなった。


◆◆◆


 そこは、まるで世界から切り離されたような所だった。


 四方を壁で囲まれて、窓も何もないくせに、適度に明るかった。

 よくよく考えてみれば、おかしな部屋だ。

 地面も天井も壁も、冷たくて無骨なコンクリートだというのに、しかしどこかから照らされているように、少しだけ明るいのだ。


 皆元知美は、そんなところで目を覚ました。

 

 どうにも全身が痛い。どうやら、どこかをぶつけてしまったようだ。

 悲鳴を上げる体をむりやり起こして、周囲を確認する。

 注意深く見ていくと、この部屋には決定的な矛盾が存在していることに気づく。


 出入り口がなかったのだ。

 この部屋に入ってくるための、何らかの穴が存在していない。

 もしやと思って天井も見てみたが、やはりそこにも何も無い。


 では。

 では自分はどうやって入ってきたのか。どこからここに入ってきたのだろう。


「――キミが」

 それは猫をあやすように優しい声だった。

 その声は背後から聞こえてくる。

 慌てて振り返ると、そこには先ほどまでは無かった【扉】が存在し、その前に誰かが立っていた。

 顔は暗闇の中に隠れてしまっていて、今はその声だけが耳に届くばかりだった。

 知美をちらと見ると、そのまま続ける。


「ボクにとってキミがどんな人間なのか、とかはどうでも良い。だが、その【どうでも良い】ということが大事なんだ」

 その声の主は座ったままの知美を見下ろす。

「惨めで哀れで、本当に心の底から可哀想だと思う存在は何だと思う?」

 ん? と声の主は知美の答えを待っている風に視線を投げかけた。


「知らないわよ、そんなの」

 知美はぶっきらぼうに答えた。次の瞬間、床に寝かせていた右足に激痛が走る。

 見ればそこには小さな歯形がついていて、血が滴っていた。

 その小さな歯形の持ち主は、知美が視界に納める前にどこかへと姿をくらましてしまったらしく、辺りにはもう気配しか残っていなかった。


「ボクは子供のころ――そう、無邪気で残酷だった子供のころ、夢中になって地面を這う蟻を踏み殺していた。なんとなくだよ、なんとなく。だけど、踏み殺していた。楽しかった、と思う。今となっては、そのころの感情なんて覚えていないけどね」


 逃げなければ。この人物は、多分ではなく絶対に異常だ。

 知美は噛まれた右足を軽く動かしてみた。

 大丈夫だ。走ることが出来る。


「踏み殺すたびに考えた。この蟻どもは何のために生まれてきたのだろうか。まさかボクに踏み殺されるために生まれてきたのか。というか、彼らは何を考えて生きているのだろうか、とか、ね」


 楽しくなってきたのか、声は流暢に語り始める。

 知美はその間中ずっと、声の主を見つめ続けていた。

 機を伺い、ヤツの後ろの扉に駆け込むしかない。


「中学生のころに初めて【エイリアン】というシリーズの映画を見たんだ。あれは良かった。

 特に名も無き女性がエイリアンに食い殺されるシーンは、本当に鳥肌ものだった。

 女性の腹からエイリアンが飛び出すシーンも見ていてゾクゾクした。

 恐怖に泣き喚く無力な女性が無慈悲にも殺されていく様を見て、ボクは興奮したんだ」

 

 ふと、鼠のようなものが目の前を横切っていくのを、知美は見た。

 つ、とその鼠のようなものは立ち止まる。

 しかし、それは、ようなものであって、鼠ではなかった。

 艶やかな肌色の皮をまとい、目は無かった。

 

 知美の前にいる鼠のような生物が、チュィーン、と鳴いた。

 耳が痛くなるような、甲高い鳴き声だった。

 その鳴き声が部屋のあちこちから聞こえてくる。

 ぞろぞろと、部屋の隅の暗がりから、その生物たちが知美の視界の中に這い出してきた。


 逃げる。

 という選択肢は、その時から知美の頭からは零れ落ちていた。

 恐怖という感情の塊が頭の中を埋め尽くしてしまっている。


「――セブンス・ルーム。キミの悲鳴は誰にも届かない」


 鼠のような生き物が、今度は威嚇するように鳴き声をあげる。

 小さめの口を開いて、鋭い牙をむき出しにする。そのうちの一匹の牙から、赤い血が滴っていた。


 助けて。

 心の中で強く念じた。


 わけの分からない生き物に囲まれて。

 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 自分が何をしたというのか。ただ普通に生きてきて、ただ普通に夢を見て、恋をして、生きて。

 

 どうして、こんな奴に殺されなければならないのだろうか。

 

 鼠のような生物達がいっせいに襲い掛かってくる。

 知美はその瞬間、涙声で芳川歩生の名を叫んだ。


◆◆◆


 かつて。


 姉がその人形展に行きたいと言い出した、あの冬。

 

 肇は姉と2人、人形展にやってきていた。

 正直人形にはあまり興味が無かったのだが、しかし断る理由も無かったのでこうしてついてくることにしたのだ。


 人形展というのだから、いわゆる『ドール』と呼ばれる類のものが展示されているのかと思ったが、その予想は外れていた。

 

 そこにあったのは、限りなく人に近い何かだった。

 もはやそれらは人形と言ってよいのか分からない代物たち。今にも動き出すのではないかと思うほど、人そっくりな人形たちだった。

 

 その中でとりわけ印象に残っている物が二つあった。

 

 そのうちの一つが、赤いドレスを着た人形だ。


 ガラスに区切られた部屋の中で、真紅のドレスを身に纏い、一輪の薔薇を抱いて眠る人形は、まさにそれこそが薔薇のように見えたものだ。

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