メロディはいつも雨模様

SIN

第1話

 カーテンを開けると、外はまだ昼間なのに薄暗い。ザーッという音が窓を通り抜けて部屋に響く。

 今日も一日中雨。私はすっと目を細めた。最近梅雨入りしてからほとんど毎日雨が降っている。太陽を見られるのは週に一、二回程度。

 そんなことを考えていると、後ろからそっと抱きしめられる。私よりも白くて透き通ったその肌は、私がよく知る彼の特徴。

「夏葵、どうした」

そう言って彼は窓の前に佇む私の肩に顎を乗せ、私の顔を覗き込んだ。

「最近雨ばっかりだなあって」

「ふっ、お前らしいな」

「ん?」

「お前は雨降るとよく眺めてるじゃん。なんていうか、お前らしい感性だなって」

「ふふっ、ありがと」

「雨、好きか?」

「うん、好き。零がそうさせたんだよ」



 夏葵たちが出会ったのも、今日みたいな雨の日で。夏葵は彼氏と喧嘩して、思わず家を飛び出してしまった。大量の滴が夏葵を打ちつける。当然傘なんて持っているはずもなくて。

「最悪……」

そう言いながらも今更引き返せない。夏葵はひたすら雨の中を走っていた。

「どこか雨宿りできるとこ……」

辺りを見回すと、外灯に照らされた公園の東屋が目に入る。しばらくここで雨を凌ぐしかなさそうだ。

 屋根の下に入りベンチに腰かけ、乱れた息を整える。しばらくすると手や足先がひんやりとしてきて、それが私の後悔をより一層引き立たせた。

 家に帰りたくても、彼氏と住んでいたあの家が、夏葵の唯一の家で。他に行けるところなんてどこにもなかった。

「はぁ、なんで喧嘩なんかしたんだろ……」

後悔の言葉は空しく雨音に消されていくだけで、今の状況を変えられるようなものではなかった。

 すると突然、目の前に現れる黒い影。なんだろうと思い顔を上げると、背の高い男性が、傘をさして立っていた。

「あんた、こんなところでどうした?服濡れてんじゃん」

「……」

「傘ねぇんだったらこれ使え」

そう言って夏葵に黒い傘を差し出す。使いたいという気持ちは山々だが、もう一度会えるのかも分からない人に借りるのはどうなのか、という葛藤が、夏葵の頭の中を駆け巡っていた。そんな時、ポケットの中で聴き慣れた音楽が流れ始めた。

 すると空気を読むようにして彼は傘を置いて去っていった。夏葵はそんな彼を目で追いながら通話ボタンを押す。

「っ、夏葵、今どこ?」

焦った彼の声。息が乱れていて、走っているのがすぐにわかった。

「……公園」

「公園?ちょっと待ってて」

通話が切れたと思った瞬間、後ろから

「夏葵!」

と名前を呼ぶ声。夏葵にとって、とても聞き慣れた声。

「仁くん……」

「夏葵、よかった……」

息がすごく乱れていて、傘をさしておらず、外灯に照らされた彼は私よりも濡れていた。

「ごめんね仁くん……急に飛び出しちゃって……」

「僕もごめん、あんなこと言って。夏葵がいなくなった後、すごく後悔した。ほんとにごめん」

そう言って手を差し出す仁。何も言われなくても夏葵にはすぐに理解できた。彼の手が“早く帰ろう”そう言っていることを。夏葵はさっき渡された傘を開いて、仁と二人で仲良く分け合って歩いた。


 カーテンの隙間から溢れる朝日とおいしそうなにおいに誘われ、夏葵は重たい瞼を開けた。

「夏葵、起きた?朝ご飯できたよ」

そう言って仁は夏葵を起こしてくれる。あの日、仁と喧嘩してから数回目の朝。仲直りをして今ではすっかり元の幸せな日々に戻っていた。リビングに行くとおいしそうな朝ご飯がテーブルの上に並べられていて、仁と一緒に食べ始める。仁が作ってくれる料理はどれもおいしく、すごいなぁと感心する。


 朝ご飯を食べ終えて、仕事に行こうとドアに手をかけると目に入る黒い傘。あれからというもの、この傘の持ち主には一度も会えていない。この傘どうしよう……そう思いながら家を出るのが夏葵の癖になっていた。

「行ってきます」

そう言ってする、今日の一回目のキス。

「行ってらっしゃい」

と言って毎朝玄関で見送ってくれる彼。つくづく思う。よくできた彼氏だ。

――――――――

 定時になってほかの社員が帰り支度を始め、夏葵もデスクの上を片付けて会社を出た。その足先が向かう方向には、一軒のこじんまりとしたカフェ。お店のドアを開けると

「いらっしゃいませー」

と店員さんが迎えてくれる。テーブル席に座ると、

「いつものでよろしいですか?」

と注文を取りに来てくれた。

 ここは夏葵の行きつけのカフェ。仕事帰りによく寄って、こうしてカプチーノを飲むのが夏葵の日課だった。しばらくお店の独特な雰囲気に浸り、そろそろ帰ろうとしたその時、お店のドアが開いたことを知らせる鈴がチリンチリン、と音を立てた。

「いらっしゃいませー、お一人様ですか?」

「はい」

「お好きな席へどうぞー」

と店員さんに案内されたその人が夏葵の横を通り過ぎた時だった。

 どこかで見たことのあるようなシルエット……。

 夏葵は勢いよく立ち上がり、その人がいるテーブルに足早に向かう。

「あ、あのっ!私のこと、覚えてますか……?公園で、傘をお借りしたんですけど……」

その人はしばらく考える素振りをして

「ああ、あの時の」

と夏葵を見上げた。

「その節はありがとうございましたっ、あのっ、まだ傘お返し出来てなくて……もしよろしければ、ご都合の良い時間を教えていただけませんか?」

「……じゃあ、明日のこの時間、ここで」

「あ、は、はいっ!わかりました、明日のこの時間、ここで。で、では、お先に失礼しますね」

そう言って夏葵はカフェをあとにする。

「ふっ、おもしれぇやつ」

去っていく夏葵の背中を見ながら呟かれたその言葉は、白く濁ったカプチーノに混ざって消えた。


 定時になって帰る支度をする。黒い傘を手に持ち軽い足取りでオフィスを出ると、ザーッという音が耳に流れてきた。まさか……。会社のロビーを抜けて外に出ると、予想は見事に的中。生憎自分の傘は持っておらず、返す傘を使うわけにもいかない。夏葵は意を決して雨の中を走った。

 カフェに着くと店員さんがタオルを貸してくれて、濡れた鞄や髪を拭きながらもうすぐ現れるであろう彼を待った。しばらくするとお店の扉が開いたのが見え、そこから現れたのは彼。夏葵を見つけるとこちらに向かってきた。

「昨日はどうも。ここ、座っても?」

「は、はい!どうぞ!」

緊張して思わず声が裏返ってしまった。しかし特に気にする様子のない彼に、夏葵は安堵した。そしてさっそく本題に入ろうと夏葵が口を開こうとした時、彼がそれを遮った。

「今日、傘返さなくていいから」

「え?いやでもっ」

「今日はそれ使え。また濡れちまうだろ」

どうやら夏葵が使ったタオルが見えたらしい。

「で、では、明日、必ず返しますね」

そう言って夏葵は席を立ち、自分には少し大きめの傘で、雨音が響く帰り道を歩いた。

「明日も雨、降らねぇかな」

窓から見える夏葵を見つめながら、彼がぼそっと呟いた。


 今日は朝から晴れていて、雲一つない青空が広がっている。傘を持ってカフェに向かえば、窓越しにこちらを見る彼と目があった。

 頬杖をつきながらふっと目を細める。それと同時に彼の白い肌に映える赤い唇がすっと少しだけ横に広がった。すごくやさしい顔。でもどこか、悲しそうで。


「こんにちは」

少し頭を下げ彼の前に座る。一度夏葵の方を見て

「ああ」

とだけ返事をすると、また外に視線を戻した。なかなか会話が始まらない。気まずい夏葵は空気を変えようと口を開いた。

「どうかしたんですか?」

「……今日も雨だったらよかったのに、って思ってた」

「雨、お好きなんですか?」

「……お前が好きにさせた。雨じゃなかったら、お前と会う口実がなくなるだろ」

「……ふふっ、そんなこと気にしてたんですか?私ならいつでも話し相手になりますよ」

夏葵の予想外の返事に驚いた彼は、またふっと、目を細めて笑った。

「じゃあまた会いに来てもいいか?」

「はい!私もお話したいです!」


 それからというもの、二人がカフェで会うのは日常の一部になっていた。いつの間にか夏葵は彼に会いに行くために、カフェに足を運ぶようになっていた。そんなある日、仁が夏葵の変化に気付いた。

「夏葵、最近いいことでもあった?いつもより可愛い」

その言葉に夏葵は顔を真っ赤にさせた。こういうのに弱いこと、彼は知っててやっているのだろうか。

「実は、傘を貸してくれた人と仲良くなって。少し前のことだけど、もしかしたら……それかなぁ……」

少しずつ語尾が小さくなり、目線も自然と下に下がって伏し目がちになる。どうしてなのかわからないが、彼には少し言いづらかった。特に悪いことをしているわけではないし、隠そうとしているわけでもない。なのに“罪悪感”というものが、夏葵の心を支配していた。

「そっか、よかったね、いい人で。ちょっと妬いちゃうなぁ」

そう言うと夏葵の目を見つめ、ふっと笑った。その笑みが何を表しているのか、口ではそんなことを言うけど本当はどう思っているのか、夏葵にはわからなかった。“おやすみのキス”をして目を閉じる。その日、彼は無理やりそういうことはしなかった。夏葵は思った。これが年上の余裕なんだと。


 それからしばらくの月日が流れ、夏葵と仁が付き合い始めてから五年が経とうとしていた。夏葵も仕事に大分慣れてきて手際が良くなったし、人から仕事を頼まれることが多くなった。それは彼女にとってとてもうれしいことで、モチベーションを上げるのにも繋がっていた。残業になることが増えたけど、仁は変わらずそんな夏葵を愛してくれる。残業で帰りが遅くなっても夏葵が帰ってくるまで待っていてくれるし、“お帰り”“お疲れ様”と言って夏葵を抱きしめてくれる。こんな彼氏はほかにはいないと、私にはもったいないくらいだと夏葵は思うけれど、そんな彼氏が大好きだから、決して離れようだなんて思わない。


「仁くん、私、明日お仕事お休みなの」

夏葵を抱きしめる彼の耳元で言う。すると仁はゆっくりと腕を離し、うれしそうに笑った。

「ほんと⁉じゃあ明日はゆっくりできるね!ご飯できてるよ、早く食べよう!」

こんなにうれしそうな彼は久しぶりだった。夏葵はすぐに理解した。彼に無理をさせてしまっていると。彼との時間が減っていく中、彼は自分との時間を大切にしてくれているのだと。私は自分が思うよりもよほど馬鹿であったと。

 この日、夏葵は仁と体を重ねた。疲れてるでしょと言って自分の感情をごまかすことが、彼の癖になってしまわないように。


 カーテンの隙間から差し込む朝の眩しい光で目を覚ました仁。彼の横で心地よさそうに寝息を立てる夏葵の前髪をそっとかき分け、触れるだけのキスをする。いつもはここで起きて朝ご飯を作るのだが、今日は特別。すると夏葵の目がうっすらと開いた。まだ寝ぼけているのだろうか、ゆっくりと瞬きを何回か繰り返す。いつもはない温もりに気付いたのかそちらに目を向けると

「おはよう仁くん」

そう言ってすっと微笑む。

「うん、おはよう夏葵」

しばらく布団に二人で包まっていると

「ちょっと待っててね」

そう言って上半身裸のまま、仁は寝室を出ていく。服の上からは見えない程よくついた筋肉に静かに驚いていると

「あんまり見ないで」

と恥ずかしそうに笑っていた。

 寝室に戻った彼の腕にはきれいにたたまれた夏葵の服がかけられている。

「着替えの服、これでいいかな」

そう言ってまだ何も身に着けていない夏葵の前に、丁寧に服を置いて部屋を出る。彼らしいな、と思った。


 服を着て寝室のドアを開ければ、久しぶりのコーヒーが夏葵の鼻をかすめた。

「今日はコーヒーなんだね」

「うん。今日はゆっくりしようと思って」

「ありがとう」

そう言って夏葵は彼の淹れたコーヒーを受け取った。二人で並んでソファに腰かけテレビをつける。二人で肩を寄せ合って、まだ飲むには熱いコーヒーを一口、口に含んだ。

「おいしいね」

「当たり前だよ、僕が淹れたんだから」

こんな風に冗談を言える時間は本当に久しぶりだった。この日だけは本当に、過ぎてゆく時間がゆっくりに感じた。時が止まったんじゃないかっていうくらいに。こんな風に、何もしていなくても一緒にいられるだけで幸せを感じられるのは、心が通じ合っているから、とか、愛し合っているから、なんて言葉ではきっと表せない。だってまさに今、そう感じているのだから。答えなんてなくていい。お互いを感じられるだけ、ただそれだけで、いい。


 その日から、夏葵は少し変わった。今までの彼女は、頼まれた仕事は残業をしてまでこなしていたのに、定時までに終わらないと判断した仕事は断るようになった。それは全て、彼氏である仁との時間を大切にしようという彼女なりの努力であったが、それは夏葵が思っていたよりも仁を喜ばせなかった。でもある程度頭のどこかで、そうなることは予想していた。

 やさしい彼の性格を、誰よりもわかっていたから。“僕のせいで夏葵の時間が減るのは嫌だ。無理して作らないで”当然その意味も理解できた。彼は自然にできた時間でいいと、たとえその時間が一分しかなくても、一秒しかなくても、夏葵が無理をしていないならそれでいいと、そう言ってくれたに違いない。本当に彼は、やさし過ぎる。


 今日は待ちに待った記念日。夏葵と仁が付き合って五年目になる今日。仁は一人、夏葵が働く会社に急ぎ足で向かっていた。定時までに着くよう余裕をもって家を出たのはいいが、困っている人を見過ごせないのが彼の性格。道に迷っていたお年寄りを案内していたせいで定時には間に合いそうになかった。会社に着いて時計を確認すれば定時から二十分が経過していて、仁は呼吸を整えながら夏葵の行きつけのカフェに向かった。仁は夏葵とケーキを買いに行くというサプライズを計画していたため、あえて夏葵には何も言わなかった。

 しかし、カフェが見えてきて店内に入ろうとドアに手を伸ばした仁は、ドアに触れる直前で、その手を止めた。。窓から視界に飛び込んできたその光景に、彼の心は耐えられなかった。一瞬時が止まったような、そんな感じ。心をナイフで刺されたような、そんな感覚。知りたくなかった、彼女の笑顔。知りたくなかった、彼女の瞳。知りたくなかった、彼女の心。仁は何かを避けるかのようにゆっくりと目を伏せ、何かを諦めるかのようにドアに背を向け、妙に落ち着いた足取りで歩いて行った。もう元には戻せない。彼の中で崩れた心は、すっと砂になって消えた。


「ただいま仁くん」

そう言って玄関に足を踏み入れた夏葵が異変に気付くのは、そう難しくはなかった。いつも最初に目に飛び込んでくる彼の姿を、その日初めて見ることができなかったから。今日は記念日。仁と一緒に過ごしたいといつもより少し早めに帰ってきたのに。

「仁くん、どうかした?」

リビングに行けば、彼がいることはすぐに確認できた。いつもと様子は変わらないし、顔色も悪いわけではない。ただ気になるのは、少し寂しそうな顔で

「おかえり、ごめん気付かなかったよ」

そう言われたこと。ケーキを作っていた彼は手際よく生クリームをスポンジに塗る。そんなに集中していたのかな。

「仁くん私、イチゴ乗せたい!」

夏葵は少し大きめの声を出した。当たり前だったことが突然当たり前じゃなくなる。不安でいっぱいの自分を、上手く隠せているだろうか。今日は初めての手作りケーキ。本当はもっとおいしいはず。おいしいはずなのに、今日のケーキは甘くなかった。


 その日から仁の様子は変わらない。どこか寂しそうで、辛そうだった。でもそれでも、夏葵が帰るたびに抱きしめてくれた。まるで壊れ物を扱うかのように、やさしく、そっと、抱きしめてくれた。彼が何を抱えているのかわからないけれど、夏葵はあえて聞かなかった。彼に干渉して彼をさらに苦しめてしまうことが怖かった。でもそれが逆に彼を苦しめてしまっていたことに気付くのは、まだもう少し、先の話。

 ソファに腰かけていた仁は、ゆっくりとその口を開いた。視線はそのまままっすぐと、ついていないテレビに向けられたまま。その口から紡がれたその言葉に、夏葵は呼吸を奪われた。一瞬時が止まったような、そんな感じ。鈍器で頭を殴られたような、そんな感覚。たった四文字のその言葉は、凶器と何一つ変わらなかった。

「別れよう」

たったこれだけ。これだけなのに。少しずつ視界がぼやけてきて。どうしようもない、行き場のない感情に心を支配された。夏葵は思い切り扉を開けて家を飛び出した。涙が溢れて止まらなかった。今自分が悲しいのか、それとも悔しいのか、よくわからなくて。でもすごく、ものすごく、心が痛かった。ギュッと締め付けられたような、ギュッと握られたような。とても苦しくて、息がうまくできなくて。気付けば夏葵はあの公園にいた。ベンチに腰かけて、溢れて溢れてどうしようもない涙をただ手の甲で拭った。それしかできなかった。きっと今日は彼は追いかけてきてはくれない。その思いが余計に夏葵を苦しめた。そんな時。

「おい、どうした」

頭の上で声がした。誰かなんてすぐにわかった。だから余計、つらくなった。仁は来ない、そう突きつけられたようで。夏葵はただ、泣いていた。目の前にいる彼と会話できるほど今の夏葵には余裕なんてものはなくて。

 すると彼は静かに、夏葵の隣に腰かけ、それ以上何も言わなかった。自分が着ていたジャケットを夏葵の肩にかけ、ただずっと、横にいた。


 そのうち涙も止まり、少し心が楽になった。ふと見上げれば、夜空に光るきれいな星が目に映る。どうやら時間が苦しさをさらっていったようで。彼はまだ、夏葵の隣で静かに座っていた。嫌な顔一つせず、夏葵と同じように夜空を見上げている。そんな彼がふと、口を開いた。

「なあ、うち、来るか?」

正直、居場所なんてなかった。今はただ、彼のやさしさに甘えるしかなかった。だから。

「うん」

そう、言うしかなかった。



 彼は少しだけ、抱きしめる腕に力を込めた。窓に映る私たちの姿を、特に意味もないのに眺めた。そんな時間が、私は好きだ。あの日以来、仁くんには一度も会えていない。あの場にいるのが怖くて逃げだした。わけを聞こうともせず、ただ、逃げただけ。彼が何を抱えていたのか、彼が何に苦しんでいたのか、私は知らなければならなかったのに。

 逃げた先で零と出会った。そして彼のやさしさに身を委ねた。ただ現実から逃げるために。

 でもあの日零と出会って、いろいろなことを知った。彼は歌手を目指しているらしい。彼はギターが上手で、私のために弾いてくれることもある。自分で曲を作って、それを私の前で披露してくれるの。いつも私が彼の曲を聴いた最初の人になれる。彼の声はすごく落ち着く。決して上手いわけじゃない。けど、そんな彼の声が、私は好き。少しかすれていて、空気の音が混じるの。でもすごく、心に響く。そんな声。そして私はもう一つ知った。自分のことを。


 私は、彼が好き。


 私よりも肌の色が白くて、私よりも背が高くて、落ち着いた雰囲気の、彼が好き。少し上からの口調で、いつも少し気怠げで、いつも銀色のピアスをしている、彼が好き。私をやさしく抱きしめてくれる、彼が好き。好きが溢れて止まらない。もうこんなに彼を好きになっていたなんて。自分でも驚く。


「シャワー浴びてくる」

回していた腕を解き、彼は部屋を出ていった。温もりが離れて少し肌寒いけど、私はそのまま動かなかった。

 これは雨の音なのか、それともシャワーの音なのか。部屋に響くこの音が、私の心をつかんで離さなかった。


 いつもはある温もりがないことに、私は一瞬で目を覚ました。裸足のままベッドを降りて部屋を探し回る。外に出てみても、彼はいなかった。焦っているのか、心臓の音が響いている。落ち着こうと深呼吸をして部屋に戻れば、やはり彼の姿などどこにもなかった。ドアに背中を預けて俯く。ふと目の端に映った。


 傘が一つ、なくなっていた。


 私が彼と一緒に選んだ傘。私の、傘。彼が私に残したメッセージのような気がして、私は静かに、その時を待った。

 いつの間にか外は暗くなっていて、涼しい風が心地いい。冷めた夕飯にラップをして、小さなソファに寝転ぶ。彼のいないあのベッドは、私には大きすぎるから。


 目が覚めて、顔を洗って、朝ご飯を作る。彼が傍にいないことに、数日たった今でも慣れない。でも、彼の匂いが消えることは決してなかった。そんな日々を繰り返して、もう一つ気付いたこと。ギターが埃をかぶっていなかった。部屋の片隅に置かれたそれを、彼はもうずっと弾いてはいないはずなのに、それは茶色のままだった。

 もう彼の声も長く聴いていない。私ってこんなにも彼のことが大好きになってたんだ。こんな生活、耐えられるわけないじゃない。気付かなかった。こんなにも心が押しつぶされていたなんて。彼のことを考えるたび、胸がぎゅうっと苦しくなって。彼の匂いが残ったこの部屋で、毎日彼のことを考えて、今日は会えるかなって思っていたのに、いつの間にか、いつ会えるんだろう、に変わってた。もう、限界だった。視界が一気にぼやけて。涙が溢れて止まらなかった。拭っても拭ってもまた溢れてきて。声を抑えていたのに、それは口からこぼれていく。誰もいない部屋で、ただ一人で。つらくて、つらくて、つらくて。どうしようもなかった。寂しくて、会いたくて。きっと今日も会えないから。だからせめて今日くらいは、寂しさを紛らわさせて。


 こんな夜に外に出るのは本当に久しぶりだった。星が瞬く夜空の下を、ただ一人、歩いた。あの日に似た、夜空の下を。少しひんやりした風が、寂しさをかっさらってくれたみたい。もう少ししたらきっと会える、夜空を見上げながらそう呟いたその時だった。

「夏葵……?」

後ろで声がした。零の声じゃない。けど、私がよく知る彼の声。

「仁くん……?」

夜の風が、懐かしい香りを運んでくれた。久しぶりに触れる、仁くんの香り。仁くんは私を連れて、近くの公園に歩いて行き、二人でベンチに腰かけた。彼に会って、私の中でもう零の存在がかけがえのないものになっていたんだと、そう、確信した。

「ごめん、夏葵……」

あの時と同じような目で、彼はそう言った。彼は私に全てを話した。どうしてあの時、あのタイミングで、私に別れを告げたのかを。

 記念日の日。仁くんはサプライズを計画してたみたい。私にケーキを買いに行こうって誘おうとしてたって。でもあの日、私が零といるのを見て、私が彼のことを好きだって気付いた。一目でわかったって。私よりも先にわかっちゃうなんておかしな話だね。だからこそすごく苦しかったって。予想もなくすぐに確信になってしまったから。自分の中で何が正しいのかわからなくなったって。このまま私のことをまっすぐ愛せるのか、私が仁くんのことをまっすぐ愛してくれるのか、自信がなくなって。ずっと一人で悩んで、苦しんで、出した答えだったって。あの人と幸せになってもらうのが、一番いいんじゃないかって。私が幸せでいることが、一番、大事だから。そう、言ってくれた。

 私って本当に馬鹿だ……。仁くんをこんなにも苦しめていたなんて知りもせず、ただ自分のことだけ考えてた。ただ、逃げていただけ。仁くんだけにつらい思いをさせて、自分だけ楽になろうだなんて。そんな甘い考えが許されるはずがないのに。私って本当に馬鹿だ。自分のせいで仁くんがどんな思いを背負って生きていたのかも知らずに。

「ごめんね……仁くん……」

気付けば視界が歪んでいた。次第にそれは私の頬を濡らしていく。泣いていい立場じゃないのに、抑えられなかった。仁くんがつらいと、私もつらい。本当に心が痛かった。苦しかった。そんな私を仁くんはそばで見守ってくれる。もうあの頃のようには抱きしめてくれなかった。けどきっとそれは、仁くんなりの決意があったんだと思う。プライドがあったのかもしれない。彼は本当に、やさし過ぎた。

「遅くなっちゃったね、家まで送るよ。立てる?」

こんな私にまだやさしてくれる仁くん。もう大丈夫だよ。私もう、一人で歩いて行けるよ。仁くんがいたから今の私がいるの。ありがとう。大好きだったよ。仁くん。

 私が一人で帰ろうと、口を開いた時だった。

「夏葵……⁉」

大好きな彼の声が、耳に飛び込んできた。少しかすれた、でも落ち着く、そんな彼の声。勢いよく立って声の方向に振り向けば、瞬く間に愛しい香りに包まれた。

「どこ行ってたんだよ、ばか……」

そう言ってギュッと抱きしめてくれた。こんな私を、抱きしめてくれた。

「……僕はお邪魔みたいだね。じゃあ」

仁くんはそう言ってすたすたと歩いて行ってしまった。少し悲しそうな表情で笑った彼は、この時、私の名前を、呼ばなかった。

「俺のいない間に他の男と会ってたのかよ」

ムスッとした表情でそう言ってくる彼に、私は安心した。すごく安心した。私はふふっと笑って言い返す。

「零がそうさせたんじゃない」

「……ごめん。本当にごめん、一人にして。たくさん心配かけた。俺が怒れるようなことじゃないよな……」

「……でもそうやって妬いてくれるの、すごくうれしいよ」

「当然だろ、お前のこと好きなんだから」

初めて言われた。すごくうれしかった。本当にうれしかった。胸がキュウッと苦しくなる。でもこの感じ、嫌じゃない。

「俺の勝手な都合でお前のこと苦しめてごめん」

そう言ってポケットから白い箱を取り出した。え、なに、それ……。

「夏葵と一生一緒にいたい」

彼の恥ずかしそうな顔、こんなに緊張している顔、初めて見たかもしれない。でもそう簡単にはいかないからね。

「嫌だ」

私ははっきりそう言った。見て、彼の間抜けな顔。こんな表情するんだ。零といると、やっぱり楽しい。本当に予想外の答えだったんだね。でも、嫌だ。このままはいや。

「私のわがままも聞いてくれないなんて。好きにさせた責任取ってよ」

すると驚いて固まったままの零が突然吹きだし、彼らしい笑顔を私の瞳いっぱいに映した。片足を立てて私を見上げる。

「仰せのままに、俺の愛しいお姫様」

その日、彼は私を抱きしめてくれた。今まで触れられなかった分を埋めるように、そっとやさしく、でもどこかぎゅっと、離さないとでも言うように。そして彼とキスをした。甘いキスを、何度も何度も繰り返した。

 彼は決して、私を離さなかった。


 ベッドの上で目が覚める。久しぶりの彼の温もりが、すごくすごく愛おしかった。でも彼は、私のもう一つのワガママに気づいていないみたい。まあでも、内緒にしてあげようかな。もう十分だから。こんなにも私を愛してくれる。それだけで、十分だから。

 でもやっぱりね。彼は気づいてる。私の最後のワガママに。彼はギターを手にとった。すっと息を吸い込んで、彼の作り出したメロディが、彼の特長的な声が、静かに空気に混ざり合う。



 始まりはそう雨の日で

 雨に濡れた君に出会った

 悲しそうな顔が 悲しそうな声が

 頭から離れなくて

 あの日が雨じゃなかったら

 僕たちはそこで終わっていたかもね

 これを偶然というのか運命というのか

 僕には分からないけど

 あの傘が僕たちを繋いでくれた

 それだけでいい

 君に出会えたこの奇跡をそっと胸に抱いて

 遠い未来を心に描く


 君が僕の前に現れたあのとき

 歯車が噛み合って動き始めた

 君のその顔がその声が

 僕の心を強く揺さぶる

 あのカフェに似た音がした

 毎日君に会いたくて

 毎日君のことを考えた

 君の好きなもの好きなこと

 全部知りたくて

 だから僕も常連になった

 あのカフェと君のね

 カプチーノをゆっくり飲んで

 ただくだらない話をして終わり

 そんな時間がとても愛しい


 君に手を差し伸べて 君と肩を並べて

 君と傘をさして 君と手を繋いで

 君と目を合わせて 君と笑い合って

 同じ時を過ごして 同じことで笑った

 こんな日々が続くようにと

 この歌に想いをのせて

 君という花が枯れないように

 僕がそっと抱きしめてあげよう

 空から降る冷たい雨を

 僕の笑顔で温めれば

 きっときれいな花が咲くから

 その手はずっと握ったままで

 決して離さないと誓うよ

 だからずっとそばにいて

 大丈夫 


 「俺が守るから」



  彼の手が止まった。ギターの弦を見つめていた瞳が、まっすぐと私へ向けられていた。やっぱり彼はすごい。私の欲しい言葉を全て言ってしまうのだから。もうこれ以上、求めるものなんてない。あなたがいてくれるだけで、それだけで、十分だから。零がベッドの端に座る私に近づくと、膝をついてポケットからあの時と同じ白い箱を取り出す。

「もし嫌だったら、言って……」

そう言って私の指に手を伸ばし、そっとやさしく引き寄せた。零の手が少し震えてる。嫌なわけないじゃない。あなたがいなくなった理由も、全部私のためだったんでしょ。頑張って夜まで働いて、ほとんど休みなしで働きっぱなし。でも今度からは少しくらい私に頼ってよ。一生一緒にいるって、約束だからね。

「ちょっと散歩にでも行くか」

「うん」

靴を履いてドアを開けた。

「あれ、雨降ってる」

「ちょうど今降ってきたって感じだね」

「傘、持ってくか」

「うん、一本だけね」

私は黒い傘を手に取る。パッと勢いよく開いて、二人で肩を並べて歩いた。こんなに雨が好きなのって私たちくらいだよね。零がいてくれたから雨が好きになったんだよ。零といると、どんなに冷たい雨もとても温かく感じるの。ありがとう。大好きだよ。私がどのくらいあなたを好きなのか、きっとわからないよね。でもね、それでいいの。あなたが私を好きなくらい、私もあなたを想ってるから。

END

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