**4話(4)**

――そこは〝首都圏外郭放水路〟と名付けられていた。


俗に〝東京都地下神殿〟などとも称される場所。


Web上や各種SNSにも画像として時折姿を見せるそれは、

深さ70m、直径30mの巨大な立坑たてあなである。

抗内に続く放水路には高さ18mの巨大な柱が立ち並ぶ。

その奥、立抗は第1から第5までの全5本。


首都圏における中川・綾瀬川流域は低地であり洪水や大雨での被害を受けやすい。

その治水の大きな柱として作られたそれは、単純明快な用途で用いられる。

すなわち水を逃がすための孔であり、5個の巨大な貯水筒である。


だが今、〝首都圏外郭放水路〟はその姿を変えていた。

立抗の横をすり抜けるように地上からは往復路トンネルが設けられ、各立抗を取り巻くように無数の避難シェルターが建設されつつある。


しかしそれすらも表向きの姿でしかなく。

国会議事堂をはじめとしていくつかの主要施設から、隠された地下通路で接続された表向きには存在しない第6から第11までの立抗すら、今や整備が整い始めていた。


……そう、整備である。

人々が知らぬ間に建造そのものはとうに終わっていたのだ。


第6から第10までの5つの立抗は貯水抗ではなく、巨大な濾過槽フィルターであった。

長い、永い、とてつもなく多くの時間をかけて。

5つの抗を抜けた大量の水は第11、最終立抗に流れ込む。


〝首都圏外郭放水路〟が成立した瞬間から。

否、正式にその存在が認められる以前から、建造が始まる前から。


――はそこにあった。




深さ150m、直径60m。

11番目の巨大抗は水底が見渡せそうな異常なほどの透明度の水に満たされている。


専用通路を通じてそこに辿り着いたのは政府専用車、MVP向けの電気自動車だ。

役職で言うなら総理大臣、国防長官、etc.etc...

それらのそうそうたる面子メンバーの中には、渥美聖 特務 中佐の姿もある。


一団かれらは車から降り、第11立抗のタモトに立ち、それを見つめた。


彼らもその存在は知りつつも、直接目にするのは初めてだというものが大半。

日本ひのもとの最秘にして最奥、最古の社。


その社はとても奇妙な姿をしていた。



底知らぬ深さの水底から三角に、三本の白い丸柱がそびえたっている。

柱はさらに相互に丸柱によって繋がれ、3つの面を持つ立体の鳥居となっていた。

隣り合う鳥居同士が柱を共有するそれは三柱鳥居みはしらとりいと呼ばれる。


――そこは〝烏船宮あふなぐう〟と呼ばれていた。



坑の袂から伸びた橋は精緻ではあるが細く、数人がどうにか歩ける程度しかなく。

左右の水面は恐ろしく深くまで、底が見えぬほどのその巨孔を見せつけて来る。


彼らは、声にならない悲鳴を上げるもの、膝を震わせるもの、興奮冷めやらぬ態度で周囲を落ち着きなく見渡すものと各々異なる態度を取りながら橋を渡り切った。


水面の中央まで伸びた橋の先端まで一団が歩を進める。

不意に風もなく水面がさざ波だち、水底からそれが浮き上がってくる。


四角い、白磁の石板だった。


円を描く抗、三角を描く柱、その中央に四角の石板。

水に浮くはずもないそれが水面に達するのを誰もが無言で見つめていた。


不意に、波紋が起こる。


確かにだれもいなかったそこに、石板の上に人影があった。

どこからともなく現れたそれは彼らに背を向けて立っている。


赤と白、巫女の装束に似ていたが、いずこのそれとも一致しない。

耳元で切り揃えられた髪を揺らし、女が、——その姿をしたが振り返る。


誰もが息をのんだ、それはどのような容貌をしているのか。


だがその好奇心は満たされない。

振り返った女の姿をしたそれのかおは白布に覆われていた。


素足が石畳を踏みしめ、石板が揺れて波紋が広がる。

自らの重さを思い出したのかのように白磁の石板が再び水底に落ちていく。


しかしそれでもその姿は水面にあり続ける。

人の世の理など知らぬとでも言いたげに、女は水面を踏みしめる。



『——ついに最初の一夜を、超えたのですね』



の声は風を揺らさず、その場に居た全員の脳を揺らした。

彼らの中には米独、日本人でないものもいたが等しく、その言葉は意思を伝える。




稲背脛命イナセハギノミコト



それが〝烏船宮あふなぐう〟の主の名。

数千年を数えてなおこの日の本の中枢に影響を与え続ける存在であった。


この世界における日本の暦名は西暦ではない。

皇紀、我々の知る日本では神武天皇即位を元年とするそれと名を同じくし、

だがその始まりは異なる。


現在の暦は皇紀2779年、西暦で言うならば2021年。

即ち稲背脛命イナセハギノミコトの降臨より2779年を数える。



『——大儀でした、人の子よ。

 鵺との戦いはあなたたちには重責であったことでしょう』




一同が震えながら平伏する。

眼前のそれは人ではなく、奇術詐称の類でもあり得ない。


何故なら四四丸機関が、日本が、同盟三国が。

その行動指針としてきた〝鳥船文書アーカイブ〟とは。

ほかならぬ眼前のそれの下す神託を記したものなのだから。


皇紀4159年までの未来を記したそれは門外不出。

多少の誤差は出ているとされるが、大筋においてその予言は未来を言い当てていた。


そして、その場にいる全員が知っていた。

常温核融合、そして物質転換炉、無接触給電システム。

何より〝天緋核あまひがね〟あるいは〝賢者の石ワイズマンズ・セル〟が。

それらがどこからもたらされたのかを。


――Eigisの中核を占める中枢器官は人の手に余る。

なぜならそれは眼前の超越者から与えられたものだからだ。


人の技と知をおよそ千年前倒ししたとされる鳥船文書の影響下にあってさえなお。

人はまだ神域の英知を分析し得ていないのだ。


人の手に余るそれを、眼前の存在が人の子に与えた理由はたった1つ。



『——鵺に、敗北する事は許されません。

 それは人の世の終りを意味するのだから。

 私が禁を破り人の世に手を貸す理由もそこにある。

 聖、』


「は」


稲背脛命の言葉に、渥美聖 特務 中佐はおもてを上げる。






『報告を』


「——では僭越ながら。

 鵺の出現は鳥船文書の記述から19年早く、準備は万全だったとは言い難く。

 とはいえ文書に従い我々はときの流れを歪めております。


 文書の記述から、多少のズレが生じる事は想定範囲ではありました。

 薄金Ferro finoこそ間に合いませんでしたが、産衣Birthday-clothes八龍Acht-Drachen膝丸Tausend月数Yearly-α日数Yearly-β、都合五騎の神鎧Eigisの投入が間に合ったのは行幸と言う外なく。


 月数Yearly-α纏手クローサーを失ったのは痛手でしたが……。

天緋核あまひがね〟の回収には幸い成功しております。

 時間はかかるでしょうななるべく早急に新たな纏手を――」


『それには及びません。

 おそらく最後の鵺が現れるまでには間に合わないでしょう。


 ——むしろこれまで以上にあの子達に手厚い助けを。

 最後の、を無事超えられるよう尽くしなさい。


 あの子たちに犠牲を強いるのはあなたたちの、そして私の至らなさなのです』 



男たちは、人間たちはその言葉に改めて平伏した。

それまで感情を含まなかったその声が、明確に怒りの色を帯びたからだ。


事ここに、鵺の出現に至ってすらEigisの軍事転用を暗に指示、あるいは画策していた一部の要人は震え上がっていた、内心を見透かされたと思ったのだろう。


だが、それ以上それは人の子に何か告げる事も責める事もなく。

水面にいくつかの小さな波紋を残して忽然と消える。



静寂を取り戻した〝烏船宮あふなぐう〟にあってさえ、渥美聖 特務 中佐は常の微笑を浮かべ、チョコレートバーを取り出し、呟いた。


「——さて、これからがいよいよ本番かな」





************************************




拘束衣ストレイトジャケットに縛られ、少女は床に転がっていた。

そしてその状態で不定期に、酷薄に、笑っているのだった。


少女の名はRobinロビンRobinsonロビンソン

Yearly-βイェーリー・ベータ纏者クローサーである。


不格好な芋虫のように床に転がされ、〝賢者の石ワイズマンズ・セル〟の接続経路を遮断された彼女は年齢通りのか弱い少女でしかない。


関節を動かせないよう、ゆるい関節技の要領で拘束するその衣に身を包まれて、苦痛に染まった環境に置かれてなお、少女は不定期に笑い続ける。


――それは思い出し笑いだった。


「やってやったやってやったやってやったやってやった……

 ざまあみろざまあみろざまあみろ、はは。はははははは!」


陰鬱に、酷薄に、冷たい床に頬を押し付けるしかない状態で。

たまらないとばかりにその瞬間を思い返しては彼女は笑っていた。


護国の天使などと称されることさえあった。

世界に六人、今や五人しかいないEigisの纏者。

その彼女がこうして拘束されている理由はたった一つ。


KevinケビンRobinsonロビンソンを死なせたからだ。


ロビン・ロビンソンはケビン・ロビンソンが嫌いだった。

相棒バディであったがゆえに建前上仲良く振舞ってはいたが。


同じ顔で、同じ声で、同じDNAを流す彼女の分身。

彼女ロビン彼女ケビンが嫌いだった、大嫌いだった。


ずっとずっとずっと嫌いだった。大嫌いだった。


選ばれた存在である自分と存在がいることに。

ずっと不満を彼女は抱えていた。

極東の黄色い猿イエローだとか西欧の雑種ダーティなどよりも。

遥に遥に気にくわなかった。



だから、あの時。

鵺と対峙し空電掌握されて最初に、あるいは最後に。

彼女は自分に正直になった。


最後に残されたわずかな電力で彼女は何をすべきか考えた。

躊躇などなかった。

負けて、死ぬことには耐えられた。

だが、


――だから彼女は躊躇なく



どうせ死ぬなら後先など考える必要もなく。

さすがに最悪を――、生還時を想定して〝賢者の石ワイズマンズ・セル〟の埋め込まれた胸だけは撃たなかったが。


むしろ数少ない適合者である自分は殺されまいという打算もあったにせよ。

あの千載一遇の機会チャンスを逃す事だけはできなかった。


そして幸運にも、そして、彼女は生きている。

まだ、生かされている。


殺されていない。

繊細な〝賢者の石ワイズマンズ・セル〟との適合を考えるなら薬物の類を投与される可能性も薄い。

せいぜいが折檻を、たとえば今のように苦痛にさらされる程度で終わりだ。


だから彼女は笑う、その瞬間を、今自分が置かれた状況を思い起こしながら。


KevinケビンRobinsonロビンソンを死なせたからだ。


上手い事あいつをブチ殺したからだ。


だから、これは、この苦痛さえ彼女にとっては勲章のようなもので。


だから、彼女は笑い続けるのだった。


「——はは、はははは! 最高じゃん! ざまあみろ! ざまあみろ!!」



彼女は馬鹿ではない。

この先、鵺との戦闘で戦力を減らす事が自分の死亡率を上げる事はわかっている。


それでもなお、彼女は笑う。


よりよい未来を、よりよい人生を選び取ったのだから。

それは勝利の笑いである。





************************************





「——実際のところ付き合ってんのかな」


「は?」



突然かけられた言葉に、黒岩クロイワ 三知子ミチコは頓狂な声をあげた。


パイプ支柱に支えられてお気に入りのハンモックがぶらぶらと揺れる。


落ちそうになって慌てて重心をずらし、安定を取り戻した。

手にした読みかけのミステリ小説のページに指を挟んで栞にして一息ついた。


「え、何? 付き合ってる?」


「だからー、ツカサと、」


「ああ、はいはい」


こちらに背を向けたまま喋る幼馴染、松木マツキ 是知コレトモは壁に向けられたプロジェクターの大画面で古いRPGをやっていた。


彼女の父が好きな作品で彼女自身やったことのある名作。

とは言え消化したのは随分前であらすじもろくに覚えてはいないのだが。

おもしろくはあったが彼女の好みではなかったのである。


――確か、タイムマシンで過去や未来に移動してカエルや魔王をお供に世界を救う。


そんな話だったように記憶していた。




「あの転校生と、吾続が?」


「そう。ツカサの転校テンコーにあわせてまた転校したっしょ」


「まあ、うん。タイミング良過ぎたよね」


「だよ。だからマジだったのかなって」


ため息をついてハンモックに体重を預けなおし、ミステリの頁を開きなおす。



「なに、うらやましいの?」


「なくはない」


「なくはないんだ」


「めっちゃ可愛かったじゃんあの人」


「ああいうの、好みなの?」


「いや別に」


「雑だしあまりにもひどい」



ぱらぱらと頁を進めながら呆れを隠す事もなくコメントを返す。

別に雑に読んでいるわけでもなく、これが彼女の常態だ。

同年代の、というか一般的な人間より読む速度が速い自覚はあった。



読書ミステリに集中したかったが振られた話題は確かに興味のあるものでもあった。

脳の思考タスクを占領される事に軽い不満を覚えつつも意識が向いてしまう。


状況、小道具、情報、仮組、推測、仮定。



「——未遂ってところじゃない?」


読んでいたミステリの犯人に軽く目星をつけながら推測を口にする。

口にしたのは犯人ではなくクラスメートイェーナセンパイの関係の方だ。


「未遂」


「あれ押されたら引くタイプでしょ。

 あの先輩めちゃくちゃ押してたし絶対引いてるでしょ」


「あー、わかる」


「肝心なところでヘタレてると思う」


「そうすると転校が同時期なのは?」


「それこそ偶然でしょ」


鼻を鳴らして分厚い洋書ハードカバーをサイドボードへ置き、次の一冊を手に取る。


――そもそも、黒岩クロイワ 三知子ミチコの中では2人の交際と軍属と転校が繋がらない。


イェーナ・プファンクーフェンが少尉である事を彼女が知っていれば。

彼女はまた違う推理をしたかもしれないが。







************************************





イェーナ・プファンクーフェンは街を歩いている。

その横を歩くのは吾続アツヅ ツカサ、手には荷物。


最先端の治療を受ける事が可能な纏手クローサーであっても、イェーナの

右腕の治療には時間がかかっていた。


三角巾で吊るされたその右腕に一瞬だけ視線を落とした後、彼女イェーナは視線を旋回まわしてすぐ横を歩く少年ツカサを見る。


「……なあ、おまえ暇なの?」


「え? イェーナセンパイと同じくらい忙しいですけど。

 あ、怪我がない分だけ忙しいかな…?」


「嫌味か? てかそんな忙しい後輩ちゃんは何してんだよ」


イェーナの言葉にツカサは手にした荷物に一瞬だけ視線を落とし、口を開く。


「荷物持ち?」


「なあ、マジ暇なのか?」


「俺が脚を怪我した時、イェーナセンパイ暇だった?」


「は?」


「色々世話焼いてくれたでしょ」


「あれは……」


そも、その件とこの件は別の話ではないのだろうか。

ツカサ少年の怪我はイェーナが負わせたものであり、今回のそれは違う。


彼女イェーナはそんなことを思ったが結局口にはしなかった。

いずれにせよ彼女の右手が治療中なのも、その治療が終わらなければ次の〝鵺弐号〟との戦いで誰もが不利益を被るのも事実でしかない。

そういった意味ではツカサが気を遣うのは筋が通っているとも言える。


他人事ではない、という意味でだ。

なんにしても買い物に荷物持ちとして付き合せるくらいで騒ぐことではない。


そう結論づけてイェーナはため息をつく。


「まあいいや、帰ろうぜ。だいたい欲しいもの買ったし」


「了解です」



駅前を2人、並んで歩く。


日用品だの嗜好品(おやつだの漫画だの)の買い出しはとうに終わって。

あとはもう帰るだけ、さっさと駅前からバスに乗るべきだったのだろうが。

そうする前になんとなく2人で歩いているだけだ。


今や彼女たちの宿舎にはFerro finoフェロ・フィーノ纏者クローサー黒岩クロイワ双葉フタバも加わり賑やかになっている。

相変わらず姿を見せないベルクリヒトはともかく、双葉はイェーナからするとウザったいほどに馴れ馴れしく、一言で言ってしまえば苦手なタイプだ。


それもあってさっさと帰りたくはなく、適当に時間をつぶしているのではあるが。

吾続アツヅ ツカサは何か勘違いしないだろうか。

たとえばそう、2人きりでいたいから帰るのを渋っている、とか。


――アホか。


自分の想像にツッコミを入れてイェーナ・プファンクーフェンは頭を振る。



振り返って後ろをついてきていたコウハイに声をかけようとして、彼が足を止めて何かを見ていることに気づいた。

数mを引き返してそのしょうねんの横に立ち、彼が見ている方を見る。


そして、そこでやっとその場に響いていた音楽が街頭スピーカーからのものでないことに気づく。


その辺で拾ってきたらしいダンボール箱を敷いて、座り込んでギターを抱え込んで座り込んだその人物は、愛想を振りまくでもなく、歌声を響かせるでもなく、ひたすらギターの弦をつま弾いていた。


油染みた汚れをまだらにつけたフライトジャケットを羽織り、その下に着込んだパーカーのフードを目深にかぶって俯いた顔は、伸び放題の前髪の陰になっている。

上半分を切捨てたペットボトルが傍らに置かれ、中には多少の小銭がたまっていた。


傷だらけの、だが小奇麗に手入れされた深紅のエレキギターを見てイェーナは我知らずつぶやく。


「へぇ。あれパンデュの限定モデルじゃん」


「ん、先輩、ギターとか好きなの」


「まあ、そこそこ。

 あれくっそマイナーなメーカーが店じまいする時に出した限定モデル。

 実はアタシも同じやつ持ってる」


「へぇ~」



言いながら、イェーナは演奏者の指先を見ていた。

決して上手くはない。技術的な意味で言うなら稚拙と言っても良かった。

だが、一心不乱に弦の上で踊る指先には情熱がある。

少なくとも彼女イェーナは嫌いではなかった。



「演奏とかも?」


「まあ趣味程度に?」


「聞きたいです」


「片手で弾けるわきゃねーダロ」


「治ってからイイです」


「気が向いたらな」



馬鹿話をしながら財布を取り出そうとして気付く。

小銭なんて持ち歩いていない。

ただでさえ電子貨幣万能の時代であるのに加えて、片手が使えない今は余計に。


おひねりの1つも投げ込もうにも物理的に無理だった。


そうこうしているうちに曲が終る。

コウハイがいつの間にかホットココアの缶を手に戻って来て演奏者に差し出した。

彼女は(おそらくは女性だと思われたがはっきりしなかった)、両手でココアを受け取り、暖を取るように手の中で転がす。


そういえばこいつ、また飲食物で気を引いてやがる。






************************************





自室に戻ったイェーナは片手で苦労しながらロッカーを漁り、随分と触っていなかったギターを引っ張り出した。


パイプベッドに腰かけて膝の上にギターを乗せる。

金属製の弦が錆びてしまっていて引けそうにもなかった。


苦笑しながらギターの赤いボディを撫でる。

いくつもの古い傷にどうでもいい思い出があった。


ざり、と砂を噛むように脳裏で擦れる違和感。

何かが気になっている。


――何が?


ギターの古傷に指が触れる。

あの演奏者のギターにも同じような傷があった気がする。


世界に数台しかないマイナーメーカーの限定モデル。

さらに同色で、同じ傷がある?

偶然にしては出来過ぎだろう、そんな偶然があるのか?


「――というか単に考え過ぎか、これ」


ため息をつき、笑う。

考えてみれば本当に同じギターだったか、同じ位置の傷だったかなんてわからない。




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