第4話
それからの日々はとても淡々としていた。
バイト先と、このアパートを行き来する毎日。おかげか、俺はシフトリーダーに昇進していた。
あの大学生三人とも、それ以上懇意になることはなかった。
多忙な日々を過ごしてるので、部屋はとっ散らかる。雑貨や文房具が床に転がり、マンパンまで溜まったゴミ袋が四畳半の貴重なスペースを占領していた。
先日買った布団は、それ以来出しっぱで、今では芳しい臭いがするほど、熟成が進んでいる。
だが、毎日のバイトで心身を疲れさせた俺に、掃除をしようなんて気は毛頭起こらない。そもそも、部屋を汚し放題に出来るのは一人暮らしの特権だ。気にする必要はない。
しかし、部屋はボロ小屋のゴミ屋敷、陰鬱な空気が溜まっている。
その日は、バイトが休みで一日中部屋でダラダラしていた。
朝から雨が降り、外に行く気が起こらず、幸いにも食糧の備蓄があった故、それに甘んじて家の中で惰眠の限りを貪った。
そして、夜。
雨脚は夕方以降強まりを見せる、雨漏り覚悟でいくつか受け皿を用意したが、予想外に雨漏りはせず驚いた。
部屋は、いつもの墓場の如く静けさをかき消すよう、雨粒が板屋根を打つ音のみが響いていた。
雨はやみそうにない。
辺りは暗く、節電目的のため電気をつけておらず、部屋の中も暗かった。俺は煎餅布団の上で仰向けに横たわり、外灯により微かに照らされる天井のシミをぼんやり眺めていた。
湿っぽい臭いが部屋に充満する。
風も強くなる。ヒュウヒュウと空気を切る音が聞こえ、窓がガタガタ音を鳴らす、どこからかの隙間風で部屋は凍てついた。
俺は布団に包まり、体温を保とうと善処していると、心臓をえぐられるような、足が竦むような胸騒ぎを感じ取った。
黒い雨雲に乗じて、何か良からぬ存在が訪れたのか、やな気配を知覚する。自分ではない何者かの意思が俺の四畳半に淀んだ空気をもたらした。
こんなにも寒いはずなのに、手汗に塗れ、頭がジーンと冴える。途端に寂しさ、孤独さを感じた。息は荒くなる。
雨音の隙間から、フッと人為的な音が聞こえてきた。何かを引っ掻くようなカリカリと言う音、奇妙な音、不気味な音。その音の残響は恐怖となり俺を掌握する。
ここはまずい、逃げろ! 本能的な何かが俺に訴えかけた。しかし、そんな渦中、俺は無力であり、どうすることも出来ず布団を被って般若心経を唱え続ける。
ギギギと玄関が開く音が聞こえてきた。
こんな時間に訪問者などおかしい、鍵も一応閉めてあったはず、勝手に開くはずなどない。ありえない、少なくとも我が人知の沙汰ではない。
幽霊、オカルト、お化け、妖怪、呪縛。そんな言葉が、頭の中で列挙する。
途端にドアがバタンと閉まる音が聞こえ、ギシギシと床板を軋ませながら、こちらに来る足音が聞こえてきた。その足取りは非常に緩慢で恐怖が倍増する。
これはまごうことなき心霊現象である。邪悪な何かが俺に害をもたらそうと、接近してくる。
ギシィ……ギシィ……ギシィ……音は段々と大きく耳朶を打つ。そして、音は止まった。
掛け布団一枚を隔て、俺と怨念の篭った何かが対峙する。動悸が激しく、心房が今にも破裂しそうだ。頭の中には冷静を保とうとドーパミンが過剰に放出され、意識が遠のく。
俺は布団の中で恐怖に震え、息を殺していた。
しばらくそうしていると、急にバカらしく思えてくる。
俺は何にビビっているのか? 確かに、俺が今寝ているこの家屋は、幽霊の一つや二つ現出しても過不足ないが、それはあくまで見た目の話である。
ただ、見た目が廃墟に近いからってそれだけの理由で幽霊が出てくるのは、甚だ理解し難い話だ。
そもそも、幽霊なんてのは机上の空論である。人間が理解出来ないものを無理やり理解するために作ったまやかし。
俺はオカルト否定派の現実主義者であり、金が全ての資本主義の学歴社会に生まれた、悲しい浪人フリーターである。
お化けなんてないさ、お化けなんて嘘さ。
そう言って、決死の覚悟で掛け布団を投げ払い、勢いよく電気を付けた。
やはり、何も居ない……
ホッと一息つくと、首元に衝撃が走った。
喉がとても苦しい。気道が塞がれているのがわかる。喉元から無機質な何かが呼吸を阻害している。
息苦しい、新鮮な空気が足りないと、肺胞が喚き散らかす。これほど、酸素を渇望したことも無いだろう。
首元に手を伸ばし、もがき、のたうちまわる。しかし、俺を絞殺せしと企む不埒な輩は、無慈悲にも力を強めていく。
刻々と、精神と肉体が引き剥がされていく感覚が、何処からともなく舞い込む。
俺は……俺はこんなところで死ぬのか、こんな小汚い四畳半で、訳も分からず理不尽な死に方をするのか。そんなのは、あんまりだ。
首締めを死因にするのは、案外時間がかかるらしい、俺はその間、この不条理極まりない何かから脱するため、死に物狂いで頭を回した。しかし、空気が送られてこないからか、空転しているようにも感じる。
丁度、畳の上にハサミが転がっているのが、尻目で確認できた。俺はそこに手を伸ばす。
ゴーストタイプに物理攻撃が効くか否かはさておき、俺は一縷の希望に全身全霊をかけた。
手を伸ばし、なんとかハサミを拾い上げることに成功した。俺は後ろに向け、ハサミを振り回す。
人生のピリオドがそこまで差し迫る。
頼む……頼むから……
途端、何かが千切れる音が聞こえ、俺は勢いのまま、前のめりに倒れ込んだ。どうやら、幽霊にハサミは有効打だったらしい。
俺は咳き込みつつ、新鮮な空気を肺に取り込むと、恐怖に任せ、四畳半を飛び出し、潰走した。
心臓は激しく鼓動し、全身に欠落していた
酸素を循環させる、心地がいい。しかし、俺の首を絞めた存在は、まだ、俺の命を絡めとろうと諦めていないかも知れん。
とりあえず、安全なところに逃げ込もう。
そして、胸を焦がしながら、夜道を全力疾走し、近くのコンビニに転がり込んだ。店員が胡乱な目でこちらを見ているのが確認できた。
俺はその記憶を最後に、視界はブラックアウト、気を失ってしまった。
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