朝起きると、眩しい光が顔を叩いた。腕時計を確認すると、六時を回っている。二度寝しようと思ったけど、光を目にしたせいで寝るに寝られず、奥の部屋に足を向けた。

 奥の部屋では、叔父さんが座ったまま眠っていた。机の上には大量の紙と古書が散らばり、まるで仕事場みたいな様相を呈している。

 その中の、一枚の紙に目が止まった。大きさは小さいメモ帳ほど。他の紙が印刷用紙ほどの大きさなのに対して、そのサイズは一際目立っている。叔父さんの様子を確認し、手に取る。細かい文字が、ハッキリとした筆致で書かれていた。

『突然、申し訳ない。』

 最初にあったのは謝罪だった。

『お主の身体を借り受けておる者じゃ。』

 次にあったのは名乗りだった。名乗りかは怪しいけど、素性を明かしている。

 この文字は、叔父さんのでも陽太のでもない。だとしたら、僕の中にいる狐が書いたのだろうか。

 もっと読もうと思ったけど、不可解なことに、紙にはそこまでしか書かれていなかった。


「なんだろ、これ」


「おはよう月ちゃん」


「うひゃい!」


 突然の声に肩が跳ねる。声のほうを見ると、叔父さんが眠そうにまぶたを擦っていた。


「ごめん、起こしちゃった?」


「起こしちゃったね」


 そう言って、叔父さんはカラカラと笑う。相変わらず、良くも悪くもてらいのない態度だ。


「ごめん」


「いいよ。許そう」


「……昨日のことも、ごめん」


「あれは俺が悪かったからねえ。謝る必要なんかないよ」


 意外な回答に、思わず叔父さんの顔をまじまじと見てしまう。


「その書きかけ見ただろ? 夜中にお狐さまと話す機会があってね。こっ酷くお説教されたのさ」


 そう言って、顔を項垂れる。猫背も相まって、燃え尽きた人みたいになっていた。


「なんて言われたの?」


「結婚してくださいって言ったら、『お主のようなクズとは、言葉を交わすことすらおぞましい』だとさ。あとは態度を改めろとかもっと考えてしゃべれ、とか」


 半泣きで叔父さんが言う。多分、お説教のショックではなく結婚を断られたショックだろう。


「というわけで、今日から改心陽光さんだ」


 悪びれた様子もなく、堂々と叔父さんは宣言する。多分これ、改心しないやつだ。

 話し終わったのか、叔父さんは煙管に火を入れた。紫煙がたなびき、キツイ臭いに思わずむせる。叔父さんはそれに頓着せず、机に置かれた古書を整理していた。


「話は変わるけど、これから無期限で連泊するから」


 何冊かバックパックの中にしまいながら、叔父さんが言う。


「え? 聞いてないよ、それ」


「そりゃそうだ。寝落ちする前に決めたんだから」


「どういうこと?」


 話が見えない。


「お狐さまを剥がす術式が難航しててなあ。二日じゃ収まりそうもない。流石に、女の子のまま家に帰すと、影鷹に殺されるからねえ」


 そこまで言ってから、叔父さんが固まった。数秒の沈黙が流れ、また口を開く。


「あれ? 怒らないの?」


「何を? 憑き物を剥がすための準備をしてくれてるんでしょ? ありがとう、しかないよ」


「いや、女の子って言ったことだよ。前は怒ってたじゃない?」


 確かに。前は怒っていた。でも、昨日の段階で考えは変わっている。


「身体が女の子なのは、間違いないしね」


 昨日の陽太の様子で痛感した。僕は、心がどれほど男であろうとしても、身体は女なのだと。そこからは決して逃れられないのだと。


「そういえば、陽太は?」


「ブチ切れながら帰ってきて、俺に一通りの罵倒をしてから寝たねえ」


 叔父さんが指差すほうを見ると、すごい寝相をした陽太が爆睡していた。見ようによっては、お寺の地図記号にも見える。


「寝てる僕を起こそうとしてなかった?」


「してたけど、触るのを躊躇ってたな。手を伸ばしては引っ込めるを繰り返してた」


「へえ……」


 それは優しさか、あるいは女の子に触ることへの抵抗感か。答え合わせはしたくない。


「あいつ、女に慣れてないからなあ。まあ無理からぬ話だけど」


 唐突な答え合わせに、思わず溜息をついた。


「叔父さんが憑き物と結ばれるには、すごい時間がかかりそうだね……」


「なんだとお」


 僕の指摘がよほど気に入らなかったのか、僕に向かって紫煙を吐き出してきた。手で扇ぎながら脇に避け、奥の部屋から逃げ出す。


「煙管を吹かさないでよ。僕らまだ未成年なんだよ?」


「そんなの煙管に言え」


 んな理不尽な。

 叔父さんが煙管を置いたところで奥の部屋に入り、障子を閉める。途端に濃度を増した紫煙の臭いに顔をしかめた。


「そんなに嫌なら開けときゃいいのに」


「あっちの部屋にまで臭いがいかないようにしたかったの。手遅れかもしれないけど。あと叔父さんは、外で吸うなり喫煙スペースで吸うなりしてね。憑き物にモテたいでしょ?」


「そう言われると弱いなぁ」


 叔父さんは軽薄に笑うと、煙管の中身を筒に落とし、布袋に入れて懐にしまった。


「ところで、朝食まであと三十分以上は暇なわけだけど、月ちゃんはどうする?」


「眠くもないから、適当にやってるよ」


 叔父さんの対面の椅子から荷物をどかし、そこに座る。

 とは言ったものの、ゲーム機もスマホも持っていない。


「なんか、僕に読めそうな幻妖の書籍ある?」


「お? どういう風の吹き回し?」


「自分の問題なのに、他人任せにしすぎるのは良くないと思って」


「気にすんな気にすんな。適材適所ってやつだよ」


 そう言いつつも、自分のバックパックの中に手を突っ込み、一冊の古めかしい本を取り出した。


「ほれ、これなら読めるだろ」


 手渡されたのは、『幻妖絵巻』と書かれた小さな分厚い本。著者を見ると、見覚えのある苗字が書かれていた。


「これって、ご先祖様の本?」


「そうだ。明治時代に書かれたイラストつきの幻妖図鑑。俺が知る限り、一番最初に魑魅魍魎を幻妖と呼んだ事例だな」


 中を見てみると、筆絵が大写しになっていて、その脇に説明文が添えられる形のようだ。意外と、文字も難しくない。


「ところで、なんで叔父さんがこれを持ってるの?」


「奥ノ院からかっぱらってきた」


 それって犯罪なんじゃなかろうか。いぶかしげな視線を向けると、叔父さんは飄々とした態度で笑った。


「別に、あれだけ膨大な書物の中から十数冊抜き出したところで、バレやしないって」


 そう言う叔父さんは悪びれない。ここでいくら言っても無駄だし、さっさと読んでしまおう。

 ページを捲り、憑き物に関する幻妖を片っ端から見ていく。狐憑きに関するページもあったけど、大した情報は載っていなかった。


「これはダメ。他にない?」


「月ちゃん、ミミズののたくったみたいな文字読める?」


「遠慮しときます」


 手渡された書物は、明らかに古い。手で押し返して、丁重にお断りしておいた。

 ちょうどそのとき、向こうで動く気配があった。障子を少し引くと、起き上がった陽太が、眠たそうに頭を傾けている。本当はここで声をかけるべきなんだろうけど、昨日のこともあって話しかけることができない。

 すると、叔父さんが僕を押しのけ、障子を勢いよく引いて柱に叩きつけた。木と木のぶつかる小気味いい音が部屋に響く。


「おはよう陽太。もうすぐ飯の時間だ。支度しとけー」


 陽太の寝ぼけ眼が、僕達を捉える。


「あー……。叔父さん、おはようございます」


「おう、おはよう」


 二人とも視界に入れたはずなのに、挨拶は叔父さんにだけ。


「その、陽太……。おはよう……」


 勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。陽太は既に寝ぼけておらず、冷たい視線を僕に浴びせてきた。

 そして、視線が叔父さんにズレる。


「叔父さん、今日の朝食ってなんだっけ?」


「あー。温泉卵があるのは覚えてる」


「よっしゃ、やりぃ!」


 嬉しそうに立ち上がった陽太は、そのまま玄関へと向かっていってしまった。ドアが閉まる重い音が、静かな部屋に響き渡る。


「これは、殴られるよりきついね……」


「何やったかは陽太から聞いたけど、こうなるのもむべなるかな。時間が解決してくれるのを待つしかないねえ」


 元凶は朗らかに笑う。まるで他人事だ。それに、たまらなく腹が立つ。


「叔父さんが陽太を騙くらかさなければ、こんなことにはならなかったのに」


「追い返せばよかっただろ?」


 叔父さんの即答に言い返せず、口ごもる。


「んじゃ、俺は飯食ってくるから。女将さん来たらよろしく伝えておいてくれ」


 そう言うと、叔父さんは部屋を出ていってしまった。返答しようとした口を閉ざし、天井に目を向ける。そこには、和の雰囲気ぶち壊しの換気扇が取り付けられていた。壁にあった換気扇のスイッチを入れ、奥の部屋から出る。障子を閉め切るのも忘れない。

 敷きっぱなしの布団に腰を下ろす。朝食が配膳されるのは、他の人より少し遅い。その間は少し暇だった。手を後ろに回し、顔を前に向けたまま身体を倒す。自然、二つの膨らみが視界の中に入ってきた。布団に身体を投げ出して、横に向く。空いた手で膨らみを覆うと、ゆっくりと指先に力を入れていった。柔らかな感触が、指先から伝わってくる。


「現実味がないなぁ」


 確かな感触はあるけど、どこかフワフワしていた。最近になって流行り出した仮想現実じゃなかろうか。そうだといいなぁ。


「……あっ」


 無心で胸を揉んでいると、下腹部にじんわりと広がる感覚を自覚して、我に返った。

 トイレに、行きたい。




 朝食を食べて帰ってきたのは、叔父さんだけだった。陽太はエントランスにいるらしく、そのまま外に出かけるらしい。

 徹底的に避けられている。その現実が、僕の心を深く沈ませた。叔父さんは帰ってきて早々に、作業に戻っている。紙に書いたり電話をしたりして忙しなく動いてるのを邪魔できず、叔父さんから借りた小説のページを捲った。十二本の変な刀を集める無刀の剣士と奇策士のお話だ。何故か、叔父さんは全巻持ち歩いていた。小説はいい。忘れたい現実から逃れ、違う世界に没頭できる。

 ページを捲り、昼食を食べ、またページを捲り、夕食を食べる。そのときになって、やっと陽太が帰ってきた。祭の終わったこの町に、娯楽は少ないはずだ。どこかで面白い娯楽でも見つけたのだろうか。そのことについて尋ねようと話しかけてみたものの、見事に無視され、結局その日は一言も交わすことなく眠りについた。

 そうなるのは一日だけだと思っていた。しかし実際は、三日経った今でも口を利いてもらっていない。酷い仕打ちをしたのだから当然とは思っていても、寂しい気持ちに嘘はつけない。叔父さんも解決策が上手く練れないのか、日増しに飄々とした顔が崩れていっている。部屋からほとんど出られない僕にとって、段々と悪くなる部屋の雰囲気は、気持ちのいいものではなかった。しかしおかげで、自分が本来向き合うべき問題には、目を逸らすことができた。

 そういう状態が五日目に入ったとき、遂に陽太が話しかけてくれた。時刻は朝の六時。いつものように日差しに顔を叩かれて目を覚ましたときだった。横の布団では、既に陽太が起き上がっていた。胡座をかき、無言で僕を見下ろしている。


「おはよう……。どうしたの、陽太」


「お前さ、おはよう以前に俺に言うことない?」


 陽太の視線は冷たい。唐突な問いかけに、僕は必死で答えを探した。


「えっと、えっと……」


 ろくろを回しながら、記憶をさらって言うべき言葉を探す。

 一つ、思い至るものがあった。


「ご、ごめんなさい」


 陽太の表情に変化はない。そのプレッシャーが怖かった。


「風呂場で叩いたり蹴ったりして、ごめんなさい……」


「うん。許す」


 予想に反して、明るい声が返ってきた。言う表情も明るく、嘘をついているようには見えない。

 陽太は布団に身体を投げ出すと、駄々っ子みたいに布団を叩いた。


「だいたいさー! いきなり風呂に連れ込んで何かと思えば、泣くわ叩くわ股間を蹴るわってどういうことだよビックリだよ」


「ほんとゴメン」


「いや、もう謝らなくていいからな。さっき謝ってもらってスッキリしたし」


 叔父さんそっくりのあっけらかんとした笑顔を浮かべたあと、ふと真面目な表情になった。


「代わりに、連れ込んだ理由を教えてもらっていいか。思い返したら、お前、すごい思い詰めた表情してたし」


 らしくない真剣な顔で言われてしまっては、答えるしかすべがない。大人しく頷くと、陽太はすぐにいつものような表情に戻った。そっちのほうが話しやすくて助かる。


「あのとき、僕は悪い想像をしてた。自分がもし戻らなかったらどうしようって。なってから、ずっと考えてることなんだけどね。でもそのときは、陽太たちといたおかげで考えなかったぶん、反動が酷くてね。誰でもいいから側にいてほしかったんだ」


「それでちょうど、俺がきたと」


「そういうこと」


 馬鹿みたいな表情でしきりに頷いていた陽太が、口を開く。


「質問なんだが、もし叔父さんや影鷹さんがきたら、お前は連れ込んだか?」


「あの二人連れ込むとか、死んでもやりたくないね」


「……んじゃあ、侍従さんは?」


「神米金さんも、ちょっと違うかな。信頼はしてるけど」


「そうか」


 僕の回答に、陽太はただただ頷いていた。口の端がわずかに吊り上がっていて、笑いそうになるのをこらえているみたいだ。なにがそんなに面白いんだろう。

 その表情について尋ねる前に、陽太が思い出したように布団を叩いた。起き上がり、また僕を見下ろすように胡座をかく。


「あー……。あのだな!」


 人差し指が、僕の額に突きつけられた。


「男とか女とかで、うだうだ悩んでるお前に教えてやる!」


 前のめりになったせいで、指先が額に刺さった。だけど、顔を真っ赤にした陽太にそれに気づく余裕はなさそうだ。何度か躊躇うように息を吸った陽太は、意を決したように口を開く。


「お前はお前だ! それ以外の何者でもない!」


 そのとき、奥の部屋で口笛を吹く音がした。反射的に振り向くと、そこには煙管を吹かす叔父さんの姿が。


「オジサン、頑張って空気読んで黙ってたから褒めてくれないかなー。あと、痴話喧嘩はよそでやって」


「痴話喧嘩じゃねぇよ!」


「痴話喧嘩じゃないよ!」


 二人して反論し、それに対してまた叔父さんが口笛を吹く。何度やっても同じ光景しか見えそうにないから、早々に反論は諦めた。陽太は何度か反論して口笛を吹かれていたが、ふと思い出したようにこちらに視線を向ける。


「月、夕飯食べ終わったら出かけないか?」


「出かけるの? でも、こんな姿で外に出るわけにもいかないし」


「いい加減、部屋に閉じこもって本読んで、夜中にビクビクしながら風呂に入るルーチン疲れただろ? 一回くらいいいんじゃねぇの?」


 そう言って、陽太が叔父さんに視線を向ける。無言で水を向けられた当人は、悩ましげに顎髭を撫でていた。


「別に問題ないと思うけど、なんか考えでも?」


「まぁね」


 そう言って意味深に笑う陽太に思うところがあったのか、叔父さんが煙管を片づけ始める。


「そういうならいいや。俺の同行は必要かい?」


「必要ないかな。それより、たまにはゆっくりしなよ。根を詰めて倒れられたら申し訳ないし」


「そうさせてもらうよ。じゃあ、今日は久しぶりに呑みますかねえ」


 伸びをする叔父さんに、陽太は苦笑いを浮かべる。状況がよくわからないまま首を傾げていると、ニヤニヤ笑いの陽太が肩を叩いてきた。


「夕飯の後を楽しみにしてろ? きっと驚くぜ」


 驚くと同時に、いつも通りに接することができたことに安堵した。そのあとは、夕食の後になるのを楽しみにしながらいつも通りに過ごした。陽太の提案で、宛てがわれた部屋に配膳してもらい、みんなでご飯を食べもした。

 そして、夕食後が訪れる。行きにもらった上着を巫女服の上に羽織り、フードを被る。そして、陽太に連れられるがまま町中を歩いていった。寂れた町中を進んでいくと、やがて前方に明るい光が見え始める。


「お前に引っ叩かれたあとに考えた。俺、何かしたっけって。でも実際、お前をエロい目で見ただけなんだよ。男として当然だと思わないか?」


「まぁ、ね」


「でも、それでお前を傷つけたのは事実だ。だから、なんかできないかなって、俺なりに考えたんだ。それで、女将さんと一緒に作戦を考えてた」


 明るい光が近くなり、そこでやっと全貌が見えてきた。


「それが、これだ」


 以前、花火が打ち上げられる前に見下ろした、寂れた商店街。それが今は、屋台の連なる祭りの場と化していた。


「わぁ……!」


 遠くから見下ろした屋台の列。行きたくても行けなかった場所が、目の前にある。


「よし。上着預かってやるから、楽しんでこい」


「え? でも、いっぱい人がいるよ?」


「気にすんな。ここにいるのは町の人だけ。憑き物には理解がある」


「そっか……」


 そう言うのなら、信じよう。上着を脱ぎ、耳と尻尾を衆目に晒す。商店街にいた人々は、少々驚いたあとにまた笑顔を浮かべた。奇異の視線は、どこにもない。

 屋台の列に行こうとちょっと歩いたところで、大事なことを忘れていることに気づいた。振り返ると、僕の上着を腕に掛けた陽太がいる。


「ありがと、陽太」


「き、気にすんな」


「あー。赤くなってるぅー」


「うるっさいわ! 美少女に礼を言われたらこうなるのも当たり前だろ!」


「ふーん。美少女ねー」


 陽太の顔がちょっと青ざめた。カッコよかったぶん、余計に格好悪くて面白い。


「まぁ、いいや。陽太も一緒に行こう?」


「いや、俺はここで待ってる」


「いいから! 陽太と回ったほうが絶対楽しい!」


 陽太の手を引き、綿菓子の屋台に直行する。


「綿菓子二つ!」


「あいよ!」


 屋台のオジサンの威勢のいい返事とともに目の前の機械が動き始めた。目の前で巻かれる色とりどりの綿を見ながら、心躍らせる。完成した特大の綿菓子を受け取ったところで、不意に一つの疑問が脳裏をかすめた。


「陽太。お金持ってる?」


「お前、それ忘れちゃマズイだろ……」


 そう言う陽太は、苦笑いを浮かべていた。綿菓子屋台のオジサンも、同じような表情をしている。


「女将さんと話した結果、全部叔父さんに請求してもらうことになってる。心配せずに食え」


「わざわざ解決の手伝いしてもらってるのに、それは酷くない?」


「それはそれ、これはこれだ。叔父さんが騙さなかったら、あんなことにはならなかったんだから」


「でも、叔父さんが騙したから、こんな姿でも外を出歩けたんだよね。そこは感謝しなきゃ」


「お前、前向きだな……」


「後ろ向きよりいいでしょ?」


「違いない」


 二人して笑う。そのまま、他の屋台も回っていった。チョコバナナを食べた。射的をした。クレープを食べた。焼き鳥を食べた。今まで体験したことないことをやって、楽しくないわけがない。それに、今回は隣に陽太がいる。それが、何より楽しい。

小さなお祭りが周り終わり、協力してくれた町の人たちにお礼を言った。この恩は返そうと思っても返しきれない。だけど、町の人たちは『まだお礼を受け取る訳にはいかない』と笑っていた。何が何だかわからなくて首を傾げていると、陽太が肩を叩いて湖の方を指差した。


「花火を上げるんだよ。見に行くか?」


「……うん!」


 予想外のプレゼントに、自然と声は弾んだ。例年のお祭りどおり湖の中央から上げるらしく、女将さんから穴場スポットを教えてもらった陽太に先導され、そこへ向かう。道の途中でいくつか通りにくいところもあったけど、陽太に手を引いてもらって無事に通ることができた。そして、湖の端の小さな砂浜に辿り着いた。目の前には広大な湖が広がり、花火を見るのに絶好のスポットだ。


「外に出られるし、屋台に行けたし、すごくいい場所で花火が見られるし。狐面を被って本当に良かった」


「ホントかぁ? なったときは、早く男に戻りたいとか色々とグチグチ言ってたじゃねぇか」


 確かに言ってた。そこに偽りはない。ただ、それとこれとは話が別だ。


「ホントだよ。こんな機会、二度とないと思うしね」


 親父は、苦渋の決断で街の外に出ることを許した。なら、戻ればもう、相当なことがない限り外には出られない。


「なら、何度でも連れてきてやるよ」


 思いもしなかった言葉に振り向くと、陽太が恥ずかしそうに頬を掻いていた。


「歯の浮くような台詞だね。……期待してる」


「おう。期待しとけ」


 お互いに笑っていると、背後で轟音と閃光が炸裂した。湖のほうに向き直ると、立て続けに二つの花火が打ち上げられたところだった。光が散らばり、音が拡散する。湖面がわずかに波立ち、歪んだ花弁が水面に刻まれていた。残っていた花火が少なかったのか、そのあとに二発ほど打ち上がってから、湖面はまた静かになる。


「帰るか。足も汚れたし、風呂に入らないとな」


「そうだね」


 花火の余韻に浸りながら、ふと水面を見る。そこに映っていたのは、金髪金瞳の狐っ娘。他ならぬ、僕だ。


「僕は僕。そうだよね?」


「そうだって言っただろ?」


 あっけらかんと、陽太が笑う。

 そう、僕は僕だ。女でも男でも、狐の妖怪との混ざりものでも、僕は僕なんだ。




 元きた道を戻り、改めて町の人たちにお礼を言ってから、また上着をきて旅館へと戻ってきた。入り口で待っていた女将さんに色々とお礼を言ったあと、着替えを取りに部屋へと向かう。一緒に入るかとからかいながら宛てがわれた部屋に入ると、深刻な表情を浮かべた叔父さんが客間で突っ立っていた。座椅子に座るよう促してから、彼が口火を切る。


「さて、楽しんで帰ってきたところで悪いが、そろそろカミングアウトさせてもらう」


 対面に座った叔父さんの顔は、先ほどと変わらない。いやむしろ、酷くなっていた。


「明日までに処置をしなければ、月は死ぬ。正確には、月の魂がお狐さまの魂に塗り潰されて、消滅する」


 叔父さんの言葉は、現実味なく脳みその隙間を抜けていった。僕が言葉の意味を理解する前に、言葉を継ぐ。


「カミングアウトしたのには理由がある。算段が整った。あとは明日の実行を待つだけだ」


「……今日じゃダメなの?」


「ダメだ。どのみち今日やってダメだったら、明日に再実行することはできない。明日のほうが成功率が高い」


 その言葉で、その処置が確実ではないことが否応なく理解できた。


「それと、これはある程度の算段がたった時点で言いたかったことなんだけど……」


 そう言って、大量の文字と図形が殴り書きされた紙束を投げて寄越した。中身を見てもまるでわからない。視線で、続きを促す。


「さて、ここで決断だ。月ちゃんが幸せになるか、お狐さまを幸せにするか、両方が幸せか不幸せになるか。どれかを選んでくれ。月ちゃんが幸せになるって言うなら、奥ノ院秘蔵の退魔術式でお狐さまの存在を抹消する。お狐さまを幸せにするって言うなら、俺は何もしない。最後の選択肢を選ぶなら、ちょっと手間がいるし……下手すりゃ死ぬ」


 『死ぬ』という重い言葉に、思わず背筋が冷たくなる。

 言われたことを噛み砕き、飲み込む。何度か深呼吸をして、顔を上げた。


「叔父さんは、お狐さまに死んでほしい?」


 僕の質問に、叔父さんは笑う。


「馬鹿なこと言うなよ」


「僕に死んでほしい?」


 陽太が驚愕の表情を浮かべた。叔父さんの笑みは崩れない。


「馬鹿なこと言うなって」


 その言葉で、決意はより深いものになった。


「うん、僕も同じ。だから、僕は最後を選ぶよ」


「心得た。魂の融合をする準備をしよう。遺言状は作っておくかい?」


「いらない。それより、遺言状を作らなくていい状況作りをお願いします」


「これは手厳しいねえ」


 茶化すように笑うと、叔父さんは立ち上がって奥の部屋へ向かっていってしまった。


「明日には準備する。今日は英気を養いな」


 最後にそう言って、障子が閉まった。すぐに、鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。


「取り敢えず、風呂に入るか」


「そうだね」


 時刻は、いつの間にか夜の十二時を回っている。女将さんが取り計らってくれた時間帯だ。着替えをまとめ、こっそりドアから廊下へと出る。そして二人して、温泉に向かっていった。

 ちなみに、僕はその日、赤いのれんをくぐった。




 翌朝、宛てがわれた部屋で朝食を食べた僕たちは、早速準備に取り掛かった。陽太と叔父さんの布団を押し入れにしまい、よくわからない文字が書かれた布の上に僕の布団を動かす。なんでも、儀式に必要なものらしい。次に、叔父さんが二本の包帯を投げて寄越した。先端には金属の留め具が数個ついており、表面にはよくわからない文字が書き連ねられている。


「この念仏みたいなの書いた包帯を巻けば、肉体の自壊と魂の剥離を防ぐことができる。ミイラをベースに考えた創作術式だ。効果は保証しよう」


「ありがと。これは全身に巻くの?」


「そうだ。だから女将さんに協力を仰いである。あとで巻いてもらえ」


「わかった」


 別に、巻くなら叔父さんでもいいのに。身体が女だから遠慮してるんだろうか。

 そんなことを考えていると、煙管を手に取った叔父さんがニヤニヤ笑いを浮かべながら陽太のほうを向いた。


「あと、包帯を巻いたら抱き合えないから、今のうちにやっておけよ?」


「うるさいわ!」


 急に水を向けられた陽太は、顔を真っ赤にして反応する。陽太は援護射撃を求めるようにこちらを向いたので、両手を広げることで返答とした。


「……マジ?」


「マジ」


 しばし無言の時間が流れ、さらに顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。


「無理無理無理無理」


「ヘタレ。童貞」


「お前が言うな!」


 僕の物言いに陽太が憤慨しているところで、部屋のドアが開いた。そこから顔を覗かせたのは女将さんだ。


「お邪魔だったかしら?」


「いや、お邪魔じゃないよ。んじゃ、月ちゃん。準備を始めよう」


 そう言って、僕と女将さんを奥の部屋に促す。障子が閉められたところで、女将さんが緋袴の紐を手に取った。


「え、ちょっとちょっと。なんで紐握るんですか」


「脱いで」


「えっ、全裸に巻くんですかそれ」


 そんなの聞いてない。


「全裸で巻かないと効果が保証できないそうよ」


「ちなみにそれ、前例あるんですか?」


「さぁ……?」


 一気に不安になった。案外、全裸じゃなくても効果が発揮できたりしないだろうか。

 そんなことを考えて、言われたとおりにしたほうがリスクが少ないという結論に達した。服をすべて脱いで一糸まとわぬ姿になり、そこに隙間なく包帯を巻いていく。その間に以前の狼憑きの話を聞いたが、どうも今よりやり方は荒っぽかったらしい。なんでも、狼憑きたちに理性がない上にそこら中を走り回ってたから、罠を仕掛けて祓ったのだとか。

 そんな話をしているうちに巻き終わり、客間へと戻る。陽太がいそいそと、部屋を出ていくのを視界の端に捉えた。今の姿を客観的に見れば、納得がいく話だ。しかも、文字の刻まれた布にくるまれたハンカチを噛むように言われたので、いよいよ特殊なプレイの様相を呈している。

 最後に、自分の布団に横たわり、耳と目を塞ぐ。

 これで、すべての準備が整った。


「いいかあ。自分の内側に意識を向けろ。心の中にある自分と向き合え。いいな? グッドラック」


 耳栓を抜いた叔父さんが早口に言って、耳栓を詰め直す。何も見えず、何も聞こえない。そもそも、自分の内側に意識を向けるってなんだ。意味がわからない。

 ふと、楽しかった祭のときを思い出す。僕は狐憑きだけど、同時にただの中学生だ。男で、女だ。何より、僕は僕だ。肯定してくれる人たちばかりが周りにいて、本当に幸いだった。否定する人たちに囲まれていたら、とっくに狂っていたことだろう。

 そうだ。何かお礼をしよう。言葉だけでは足りない。自業自得に付き合ってくれた人たちに形を持ったお礼がしたい。そう思ったと同時に、後ろから掴まれるような錯覚がした。仰向けに寝ているから、後ろに誰かいるはずがない。なのに、後ろから僕の頭を掴んだ手は、指先をゆっくりと頭蓋骨の中に埋めていった。

 悲鳴を上げそうになった瞬間、急速に引っ張られる感覚がして、抗いがたい何かが僕の意識を覆い尽くした。




 意識が、じんわりと広がっていく。目を開けても、そこは暗闇。何も音が聞こえない。死んだのかと思い始めたところで、口にものが噛まされていることに気づいた。それは確か、寝る前に叔父さんが噛ませたハンカチだ。腕を動かし、ハンカチを取り出す。途端に、その腕を掴む力があった。痛いほど握られ揺すられるが、生憎と目も耳も利かない。空いた手で、目を塞ぐアイマスクを取り外す。眩しい光が顔を叩いた。朝日だ。ボンヤリとした視界には、必死に叫ぶ陽太が映っていた。この状況で耳を覆う綿を外したら、さぞやうるさい声が聞こえるんだろう。

 それにしても、お狐さまは、どこに行ったんだろうか。事前に、僕とお狐さまの魂を融合させると言っていたし、もしかして僕の中にいたりするんだろうか。

 考えを巡らせながら、耳の綿に手をかける。それと同時に、身体から自分が剥がされるような感覚がした。まるで、自分の身体が自分のものではなくなるような、五感をごっそり外に持ち出されたような違和感。聞こえる声が、動く腕が、なぜか他人事のように感じる。


「なんじゃ、童子わらし。儂の顔に、なにかついておるのか?」


 声音は確かに僕のものだったが、その言葉は僕の意思で発されたものではなかった。この言葉の主がお狐さまであることは明白。なら、まさか、融合は失敗した?


「嘘だろ……?」


 眼前で、陽太が絶望に満ちた表情をしていた。しかし、そんなの見ていないとでも言うように、淀みなく言葉が続けられる。


「嘘なものか。器には悪いことをしたが、必要悪じゃろう」


 澄ました顔でのたまうのが、なぜかイメージできた。それと同時に、外にあった五感が中に詰め込まれる。自分の感覚で見た状況は、思った以上に深刻だった。陽太は現実が受け入れられずに俯いているし、叔父さんは六角柱に鈴をつけたような杖を構えている。明らかに臨戦態勢だ。


「ご、ごめん! お狐さまがふざけすぎた! 大丈夫だよ! 月だよ!」


 咄嗟に言い訳を展開する。陽太は相変わらず俯いたままだったけど、視線だけはこちらに向いた。叔父さんは警戒した表情のまま、体勢を崩さず口を開く。


「じゃあ、問題だ。陽太の部屋に隠しておいた狐っ娘同人誌の位置は?」


「タンスの下、ですよね?」


 そう言うと、叔父さんは露骨に警戒を解いた。杖を放り投げ、障子を開け放って奥の部屋の椅子にどっかりと座る。


「他に何があった?」


「本棚の左端にあったポニテ活発女子高生と小学生の絡みと、あとはベタにベッド下。ベッド下のは、確かミステリアスなお姉さんに組み敷かれる話だっけ」


「あー、そういう意味で聞いたんじゃないんだが、まぁいいか。陽太、正解か?」


「意思疎通の失敗に俺を巻き込むのはやめてくれねぇ!? 正解だよ!」


 正解らしい。顔を真っ赤にした陽太は死にたいとでも言うような表情をしていた。気持ちはわかる。


「まぁ、なんだ。そんな格好をしてるのもなんだし、着替えてくれ。陽太もそれでいいな?」


「もういいよ、なんでも……」


 自分の性癖が知られていたことがよほどのショックだったのか、膝をついた陽太は明らかに落ち込んでいた。

 立ち上がり、奥の部屋で着替えを済ませる。部屋から出て、もう一度自分の姿を確認する。金色の髪、金色の瞳、狐耳と尻尾。何も変わらず、狐っ娘がそこにはいた。


「結局、戻らなかったね」


「おう、そうだな……」


 返答する叔父さんの顔には、おびただしいほどの冷や汗が伝っていた。

「でも、变化へんげとかはできるんだろ?」


「まぁね。耳と尻尾も隠せるし、老若男女誰にでもなれるよ。もちろん、前までの僕にもね」


「おぉ、よかったじゃねぇか! じゃあ、これで解決だな!」


「でも、あくまでベースはこの身体なんだよねぇ……」


 僕の言葉に、二人とも黙ってしまった。雰囲気が重くなってしまう前に、言葉を継ぐ。


「でも、別に気にしちゃいないよ?」


「そうなのか? なんで」


「陽太が言ってたでしょ。僕は僕だって。男だろうと女だろうと、僕は僕だよ」


「そうか……」


 これで、ひとまずは一件落着。あとは親父を説得することだけど、これは今は考えないでおこう。

 そうだ。いいことを思いついた。


「陽太、こっちきて」


 客間の隅に座っていた陽太に手招きする。さっきできなかったハグを、不意打ちでやってやろう。心の中で意地悪く笑って、何に疑いもなくやってくる陽太を待ち構える。

 すると、また身体から五感が抜き出された。お狐さまが陽太の髪を掻き上げ、額に唇を押し当てる。呆然とする陽太から離れ、妖艶な笑みで『僕』が笑う。


「これからよろしく頼むぞ? 童子」


 僕が僕であるためには、まずはこの暴れ狐の手綱を握らなければいけないみたいだ。

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狐面の月 N.C @shijima666

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