そのあと、叔父さんは呼び止める間もなくさっさと去ってしまった。姿が姿だけに外に出られず、陽太経由で説得を試みたものの、今のところ成功していない。それどころか、聞く耳を持ってもらっているかさえわからない状況だ。

 そんな状況でも、別に僕の時間が止まるなんてことはなかった。女の子の身体になるなんていう異常事態にもかかわらず、お腹は空くし眠くもなる。トイレにいきたくなったときはどうしていいかわからず、顔面蒼白で我慢していたのは記憶に新しい。もう忘れ去りたい記憶だ。

 そんなこんなで、ちょっとずつ『自分が女になった』という現実を受け入れざるを得ないところまできて、その日はやってきた。




 天高く昇った太陽に目を細める。天気は快晴。外は夏らしい暑さに包まれていた。

 今の僕の服装は、灰色の無地Tシャツにジーンズというシンプルな格好。この格好を見た叔父さんがブーイングをしていたから、逆説的に間違っていない格好なんだろう。


「申し訳ありません。私は仕事を仰せつかっておりますので、同行することは叶いませんでした」


「いやあ、残念だね。俺としては是非とも来てほしかったんだけど。仕事なら仕方ない」


 心底残念そうに溜息をつく侍従さんと軽薄な笑みを浮かべる叔父さんとの間で、大荷物の受け渡しが行なわれている。


神米金かめがねさん、それなに?」


「月様の着替えです」


 そういって見せてきたのは、ごくごくシンプルな服だった。不必要な露出もなく、中性的。この上なく配慮されている。


「ありがと」


「それは、この服を選んだ他の方々に仰ってください」


 侍従さんは優しく微笑む。その『他の方々』に思いを馳せて、思わず遠い目になった。寸法を図ろうとする彼女たちの、飢えた獣のような眼差しは忘れられない。


「陽光さん、どうかお願いしますね」


「おう、任せてとけ」


 自信満々に胸を叩いてはいるけど、このオッサン引き受けた直後に依頼を破棄してたはずでは……?


「よし、行くぞお前ら! 楽しい楽しい旅行に出発だ!」


「いや、だから僕を男に戻すの手伝ってよ!」


「断る! 狐っ娘って最高だよネ!」


 清々しい笑顔で前言撤回して、叔父さんは運転席に乗り込んだ。頼みの綱の陽太を見ても、首を振って助手席に入ってしまう。

 しまいには、侍従さんが肩を叩いて哀れんだ目を向けてきた。

 どうやら味方はいないらしい。

 仕方なく後部座席に乗り込み、誰もいない席に尻尾を投げ出す。不機嫌を表すように、ちょっとは動かせるようになった毛並みをバサバサと椅子に叩きつけた。


「さあ、不機嫌なお狐さまが吠えないうちに出発と参りますか」


「だから、戻る手段をあっちで考えてくれるだけでいいの!」


「やだぷー」


 忌々しいくらいのふざけた笑顔に、運転席の背もたれを思いきり殴りたくなってしまう。でも車が動き出した今、運転手にちょっかいを出すのは危ないし。歯がゆい。


「今は諦めるしかないな……。それと、これを着ろってさ」


 そう言って陽太が投げてきたのは、底の深いフードのついた半袖パーカーだった。しかも、その布地は膝まで伸びており、白い裏地には不気味な赤文字が書き連ねられている。こんなの見たことない。


「なにこれ?」


「狐耳とか色々と目立つだろ。現地着いたときはそれで誤魔化せって、叔父さんが」


 また何か妙な考えでもしてるんだろうか。そう思って叔父さんを見る。フロントミラーに映る表情に、ふざけの色はない。


「まだ変化へんげの術は使えないんだろう? 準備をするに越したこたないさ。ついたら起こしてやるから、今は大人しく寝てな」


 そう言って笑う。安心できるくらいの優しげな笑顔だったけど、そもそもこの人が素直に協力してくれれば問題ないのに。

 ともかく、厚意は受け取っておこう。車が信号に引っかかったのを見計らい、パーカーに袖を通す。今更になって窓のことを思い出したが、吸盤つきの窓ガラスカバーがひっついていて、しっかりと外からの目を遮っていた。こういうところは抜け目ない。


「寝ていいんだよね? なんか変なことしない?」


「しないように叔父さんを見張ってるから、大丈夫だよ」


 陽太の牽制に、叔父さんは両手を上げて降参の意を示した。やがて車が動き出し、社内に沈黙が降りる。車の内壁に身体を預け、目をつむる。今までずっと緊張してきたからか、すぐに意識は眠りへと落ちていった。




 車が止まった場所は、小高い山の上の大きな旅館の前だった。眼下には巨大な湖が広がり、確かに見晴らしがいい。町の随所にはスピーカーを掲げた鉄柱が見えており、湖を挟んだ向こう側には段々の茶畑が広がっている。住んでいる土地からほとんど出たことがない僕にとってはすべてが新鮮で、いつまでも見ていたいと、そう思った。

 だけど、長居をしているわけにも行かない。フードを深く被り直し、長い裾から尻尾が覗いていないか確認し、足早に宛てがわれた部屋へと向かう。二人はすでに荷降ろしで先に行っており、部屋についた頃には、既に荷物を置いてどこかに出かけていた。

 部屋には、畳敷きの大きな客間があった。大木から切り出したような机の側面には、シンプルな座椅子が備え付けられている。その奥にある障子を開けると、板張りの上に椅子が二脚と低めの机が一卓置かれていた。ここでお茶でも飲んだら楽しそうだ。


「あー! 疲れたー!」


 畳敷きに寝転び、大きく伸びをする。耳も尻尾も、ここでは気にしなくていい。でも、旅館には他の人もいるから、迂闊に部屋からは出られない。


「まぁ、いっか。見晴らしはいいし、ここに閉じこもってよ」


 起き上がって奥の部屋へ足を向けると、窓から巨大な湖面を望むことができた。

 だけど、温泉にはいけないし、ご飯も他の人がいる大広間では食べられない。眼下に見える祭りの準備も、現状を考えれば縁遠いものだ。

 そう考えると、楽しめる要素はあまりなかった。


「早く、叔父さんを協力まで持っていかないと……」


 決意を新たにしたところで、遠慮なくドアが開け放たれた。咄嗟に、被っていたフードを目深に被る。入ってきたのは、陽太と叔父さんだった。


「どこ行ってたの?」


「ん? 軽く旅館の中を散策にな」


 そう言って、叔父さんは客間の座椅子に腰を下ろす。机の木目をなぞりながら、その上に置いてある胡桃ゆべしをしげしげと眺めていた。


「なんで旅館って、必ずお菓子があるんだろうなぁ」


 知るか。


「そんなことより、そろそろ男に戻る手伝いをしてください」


 叔父さんの横に座り、上目遣いで訴えかける。しかし叔父さんはどこ吹く風でゆべしの包装を破り、中身を口の中に放り込んでいた。美味しいのか、顔を綻ばせている。いや、そんなことはどうでもいい。


「ゆべし食べるか?」


 もう一つの包装を破る叔父さんは、あくまで呑気だ。文句を言おうと口を開いたところで、目の前にゆべしが突きつけられた。食べないわけにもいかなかったので、抵抗の意味も込めて端っこをちょっとかじる。


「美味しい……」


 気づけば、もう一口もう二口とかじっていた。ゆべしを持ったままの叔父さんは、今にも天に昇りそうな至福の表情を浮かべている。


「んー、狐っ娘に餌付けするのが夢だったんだ。今なら死んでも悔いはない」


「せめて、僕の身体を元に戻してからにしてほしいな」


 こっちの気持ちなどまるで無視した戯言に、思わず声も冷たくなる。


「それより、屋台のとこ見に行こうぜ! もうやってるところもあるってさ!」


 ハイテンションで机を叩く陽太に、冷めた目線を向けた。僕の視線に気づいた彼は、申し訳なさそうに目を逸らす。


「別にいいよ。行ってくれば」


 知らず知らずのうちに、口調が刺々しくなっていた。行けないから陽太に当たるなんて、我ながら何やってるんだか。

 逃げるように立ち上がり、窓から外を見下ろす。

 出店は湖に近い一本道でやるらしい。視線を移せば、寂れた商店街が視界に映った。この町には、湖上花火と温泉業くらいしかない。叔父さん曰く、一部では温泉の穴場スポットとして知られているらしいが、人が来るのはまばらで、外からまとまって人が来る機会は湖上花火をする日くらいだとか。

 思わず、自分がいた街と比べてしまう。自分がいた街には資料館みたいな実家があるだけで、他には何もない。だけど、ここよりかは活気があった。なんで温泉もあるのに、こんなに寂れてしまうのだろう。

 そんな益体もない思考をしていたところで、ドアがノックされた。思わず肩が跳ねる。


「月ちゃん、こっちこい」


 ゆべしを口に放り込んだ叔父さんが、隣の座椅子を叩く。すぐ座ると、部屋の隅に置かれていた座布団を一枚、膝の上に載せてきた。

「これで尻尾を隠せ」

 叔父さんの真剣な目つきに、大人しく従う。

 でも、叔父さんが協力してくれれば、こんな苦労はしなくて済んだのに。

 心の中で八つ当たりところで、ドアの開く音がした。


「失礼いたします」


 そう言って現れたのは、この旅館の女将さんだった。綺麗な黒髪を結い上げ、落ち着いた色合いの和服をまとった姿は、いかにも大人のお姉さんといった色気を醸し出していた。近くで見た陽太が、思わず溜息をつくのも頷ける。


「久しぶりだねぇ」


「えぇ。お久しぶりです陽光さん。何年ぶりかしら」


「三年ぶりとかそこら辺じゃない?」


 入ってくるなり、二人は親しげに話し始めた。いくらか世間話をしたあと、叔父さんが真剣な表情を作る。


「それで、女将さんはどういうご用向きで?」


「花火の日は、私がちょっとした案内を言うようにしているの」


「ほーん。そうかいそうかい」


 硬い面持ちを崩した叔父さんが、人懐っこい微笑みを浮かべる。


「そういえば、紹介してなかったな。女将さんの近くにいるのが俺の甥の陽太。俺の隣にいるのが、甥の友人の鬼無里きなさ月だ」


「こんにちは」


「よ、よろしくお願いします」


 突然に水を向けられ、慌てて挨拶する。僕より数倍慌てていた陽太は、素っ頓狂なことを言っていた。何をよろしくしてほしいんだろうか。


「あ、そうだ。それともう一つ」


 わざとらしく両手を打ち合わせた叔父さんが、僕のフードのてっぺんを掴む。


「え」


「ほいっ」


 まるで世間話でもするような気軽さで、僕のフードを後ろに引っ張った。女将さんの目が見開かれるのを、他人事のように感じる。


「え、あれ……?」


 頭の上に手を載せる。そこにあったはずのフードがなくなり、耳に生えた柔らかな毛が手をくすぐった。

 あれ……。なんでフードが無いんだろ。ボンヤリとした意識で対面の陽太を見ると、今まで見たことがないほど顔を青ざめさせていた。


「……あっ」


 遅れて、思考が事態を把握する。背筋が凍りつき、顔から血の気が引いていくのがわかった。慌ててフードを被ろうとするが、指が震えて上手く掴めない。何度も失敗してやっと被り直したところで、それが手遅れであることに気づいた。

 恐る恐る、女将さんの顔を確認する。まるで僕の耳など見ていなかったかのように、優しい微笑みを浮かべている。でも、対面で未だ青ざめている陽太を見る限り、さっきのは現実だ。


「あの、怖くないんですか?」


 女将さんは微笑みを崩さず、首を横に振った。


「ぜんぜん? ここにも憑き物事件があったもの」


「そうなんですか……?」


「そうよ? 一家まるごと狼憑きになっちゃって、町中が大騒ぎ。そこで現れたのが……」


「俺だ」


 真隣で、今回の元凶が自信満々に笑った。


「だから、ここは憑き物に対する耐性もあるし、俺に対する信頼もある。だから、そのまま外に出ても邪険にはしないと思うなあ。それと女将さん、色々と取り計らってもらって申し訳ないね」


「いいのよ? 他ならぬ陽光さんの頼みですもの」


「ありがたい。恩に着るよ」


 手を擦り合わせて拝む叔父さんに、恥ずかしそうに女将さんが笑顔を返す。さっきフードを剥ぎ取られてなければ、仲良さそうだなんて言えただろう。


「それで? 叔父さん、謝罪は?」


「あー、それな……。まさかそこまで怯えるとは思わなくてな?」


「叔父さんは人の心がないの?」


「さっさと謝っとけよ叔父さん」


 二人の非難に、叔父さんは視線を泳がせ、助けを求めるように女将さんを見た。女将さんは、すごく綺麗な笑顔を浮かべる。何故か怖い。

 味方がいないとわかったのか、叔父さんは仕方なさそうに頷いた。


「申し訳なかった。女将さんに説明する手段が思いつかなくて、つい」


「事前に説明してくれてたら、もっと穏便に済んだと思うんだけど?」


 フードの縁を前に引っ張りながら睨む。気まずそうに目を逸らされた。


「まぁ、そういうわけで女将さんとか町の人は味方だ。安心しとけ」


 話題逸らしなのは明らかだったけど、お世話になる人に水を向けられては無視するわけにもいかない。


「ありがとうございます。よろしく、お願いします」


「よろしくね」


 緊張した空気が緩むと、陽太が逃げるように部屋を出ていってしまった。すぐに、扉を開閉する音が響く。たぶん、トイレに行ったんだろう。

 女将さんは、陽太が出ていったほうへ顔を向けたあと、静々とこちらに歩み寄ってきた。


「月ちゃんだけ貸切で温泉に入れるようにしておくから、日を跨いだら行ってね」


「あ、ありがとうございます!」


 その計らいはありがたい。花火と同じくらい楽しみにしてたから、素直に嬉しかった。

 女将さんは、温泉以外にいくつか注意事項を告げてから、陽太と入れ違いで退室した。陽太は、座ったあともしきりに窓の外を眺めていた。大方、外に出たくてたまらないのだろう。

 部屋にある最後のゆべしを頬張っていると、叔父さんが不意に席を立った。


「どうしたの?」


「お茶。れ忘れてたわ」


 そう言って、叔父さんは奥の部屋に急須を持って行った。しばらくしてポットごと持って戻ってきた叔父さんが、全員分のお茶を淹れてくれる。

 自分用のお茶を置いて腰を下ろした叔父さんが、ふと思いついたように口を開く。


「そういえば、君は本当に月ちゃん?」


「何言ってんの? そうに決まってるよ」


「ほおん……。じゃあ月ちゃんに取り憑いた幻妖げんようは、よっほど低レベルだったのねえ……」


「え? 幻妖ってなに?」


「んー? 要するにお化け。怪異とか異類異形とも呼ばれてる」


 なるほど。ちょっと賢くなった。


「ちなみにこれ、一部でしか使われてないから、普通に妖怪でいいよ」


 ムダ知識だったらしい。

 気を取り直して、またくつろぎ始めた叔父さんを説得しにかかる。


「それで、いつになったら協力してくれるの?」


「ええ……。面倒なんだがなあ」


 心底面倒そうに、叔父さんが頭を掻く。


「まあ、いいや。流石に引きずりすぎるのも可哀想だし」


「じゃあ、やってくれるの!?」


「流石に、帰って女の子のまんまだったら、影鷹が怖いからなあ」


「女の子って言わないで」


 僕は男だから。断じて女じゃないから。


「へいへい。いい加減に現実を認めたらどうかね」


 呆れた声に、無言で首を横に振る。外見は変わったけど、僕は男だ。そこは絶対に譲れない。


「……ただし、条件がある」


「え、なに?」


 叔父さんの鬼気迫る表情に、思わず後ずさる。彼は荷物の中から小さいアタッシュケースを持ってくると、僕の目の前で開いた。中にあったのは……。


「巫女服?」


「そう。巫女服だ」


 爛々と輝く瞳。この瞳はどこかで見たことがある。……そうだ。僕の採寸をしたお姉さんたちだ。

 背中に張り付いた緊張感が、嫌な寒気に取って代わる。


「それをやったら……?」


「戻す手筈を整える。今度こそ約束だ」


 言う表情は真剣だ。嘘を言っているようには見えない。

 女のままか巫女服を着るか。よくわからない天秤の前で苦しむ自分は、客観的に見るとかなり馬鹿らしい。

 結局、天秤は巫女服に傾けざるを得なかった。


「わかった」


「よっしゃあ!! そうと決まれば対策を練ろう!!」


 叔父さんは今までで最高のテンションで叫んで、バックパックや肩掛けカバンを机の横まで持ってきた。肩掛けカバンの中からロウソクやら何やら色々と取り出しながら、取り出した印刷用紙に鉛筆で書き殴り、ブツブツと何かつぶやき始める。

 そこで、叔父さんは作業の手を止めず、ふと思い出したように口を開いた。


「言っとくけど、引き剥がせるまで巫女服だからね」


「えぇ!? 後出しはなし!」


 そう言うと、鉛筆を走らせる手がピタッと止まった。


「そうかあ、残念だなあ。―――なら前言撤回で」


「わかったわかった! 戻るまでね! わかった!」


 ここで解決への最短経路が途絶えてしまうのはマズい。夏休みにずっと外を出歩けないなんて御免だ。

 しばらく、鉛筆が紙の上を走る音だけが響く。暇を持て余した陽太は、座椅子に寝転がってスマホをいじくっていた。


「叔父さん、早く外行かない?」


 さっき冷たく言い放ったせいか、今度は名指しで催促していた。ハブる気満々ですかこの野郎。

 対する叔父さんは、聞こえていないのか作業に没頭している。横から覗いてみると、書き殴った文字の間に小さな魔法円が見えた。どんな意味があるんだろう。

 そう思っていると、ようやく叔父さんの筆が止まった。


「引き剥がす準備をするのに二日はかかるから、ちょっと我慢していてくれ」


「うん、わかった。ありがとう」


 僕の自業自得に付き合ってくれるのは、本当にありがたい。付け込まれた気がしなくもないけど。


「んで、外に行くだって? せっかく窓からでも綺麗に見える部屋を取ったんだから、充分じゃないか?」


「充分じゃなーいー!」


 机をバンバン叩きながら、陽太が抗議する。叔父さんは視線を僕に向けた。


「別にいいんじゃないの? 出かけてくれば」


「月もそう言ってるじゃん!? それに、近くで見たほうが綺麗だって言うだろ!?」


 僕の同意を得た陽太が起き上がり、身を乗り出して言い募る。その勢いに身体を仰け反らせながら、視線だけがこちらに向いた。


「月ちゃん、お留守番頼んでいいかい?」


「別にいいけど。代わりに、写真撮ってきて」


「オーケー。ってことで陽太、スマホで撮ってきてあげてね」


「了解!」


 二人の楽しげな様子を見ながら、釈然としない思いが胸に引っかかるのを感じた。言うなれば、疎外感。なんだかんだ楽しそうな二人に、僕は交じることができない。それもこれも、軽率に狐面なんて被ったからだ。

 下がり続けるテンションを止める気にもなれず、冷めきったお茶を啜る。細く息を吐いていると、右の肩が叩かれた。そちらに視線を向けると、隠しきれていない笑みを浮かべた叔父さんが、巫女服の入ったアタッシュケースを見せつけている。


「さぁ、巫女服タイムと行こうじゃないか月ちゃんよ!」


「忘れててほしかったなぁ……」


 できれば永遠に。

 ひたすらテンションが低い僕とは対象的に、叔父さんのテンションはうなぎ登りだ。


「そうはいかないイカの何とやら。そうは問屋が卸さない! さぁさぁさぁ!」


「テンション高いなぁ」


 諦め半分で巫女服を受け取り、袖を通す。昔ふざけてお姉さんたちに着せられたから、やり方は知っている。怖ろしいまでに正統派な緋袴に足を通すと、全てが気持ち悪いくらいにピッタリだった。なんか寒気がしてくる。

 ふと周りが静かなことに気づき、意識を外に向ける。目の前で、陽太が両手で顔を覆いながら、指の間からこっちを見ていた。その横では、すごく感心した表情で、叔父さんがしきりに頷いている。すごい満足げに見える。なんで。


「いやぁ、まさか女の子の下着姿が拝めるとはなぁ」


「……!!」


 侍従さんに義務付けられたの忘れてた……!


「忘れて! 全力で忘れて! 全! 力! で!」


「コスプレ風俗みたいな感じだったなあ」


「黙れ」


 我ながら酷い声が出た。


「陽太も見てないよね!」


「見てない見てない!」


「色は!」


「し、白!」


「忘れろぉ!」


「しまったぁ!」


 思い出したのか、陽太は耳まで真っ赤にして離れていく。真っ赤にしたいのは、こっちなんだけど!!!




 夕暮れ時になって、二人は花火を見に出かけていった。なんでも、打ち上げは十一時近くまでやっているらしい。それから、外の散策でもして帰ってくるそうだ。

 外に出られない僕は、女将さんが持ってきてくれた夕食を食べて、窓から打ち上げ花火をぼんやりと見ていた。部屋の電気を消しているせいか、花火が一際眩しく映る。高所から見る花火の線対称は、見惚れるほどに美しかった。ただ、一緒に見る人がいない現状は、僕の胸に冷たい隙間風を吹かせる。

 十一時を回ったところで叔父さんは先に帰ってきて、風呂に行くといってまた出かけていった。陽太は、旅館のエントランスで花火の作成過程のビデオを見ているらしい。僕も見たかったけど、あとで持ってきてやるとしか言われなかった。脳裏にこびりついた疎外感は、十二時を回っても剥がれる気配がなかった。

 女将さんに言われた時間になったので、着替えを小脇に抱えて無人の廊下を歩く。打ち上げ時間からして人がいるのではないかと警戒していたが、これも女将さんの計らいだろうか。だとしたらありがたい。

 入り口まで来て、いきなり無理難題に直面した。目の前にあるのは、青と赤ののれん。家では男女で浴槽が別れているなんてないから気づかなかったけど、僕はどっちののれんを潜ればいいんだ。

 悩んだ末、自分の心に従って青いほうに足を向けた。今は人払いされてるらしいし、大丈夫なはずだ。唯一の不安は、風呂に出かけるまでに帰ってこなかった陽太だけど、流石の叔父さんもそこまでふざけないだろう。

 引き戸を開け、籐編みの籠に衣服が入っていないか確認する。全ての籠を念入りにチェックして、やっと紐に指をかけた。緋袴と帯を床に落とし、白衣と襦袢を脱いでいく。客観的にイメージすると精神衛生上大変よろしくないので、天井を見てやり過ごした。木目が綺麗だ。詳しくないけど。

 全部の服が脱ぎ終わり、身体にタオルを巻き終えたところで、視線を前に戻す。ここで一般客が入ってきたら、悲劇以外の何物でもない。

 更衣室と浴室を区切るガラス戸を少し開け、中を確認する。人は見当たらない。それでも、そっと中に入った。鏡が見たくないから、お約束を無視して露天風呂へ向かった。露天風呂にも人はいなかった。見上げれば星空が天蓋のように覆い被さり、最高の風景を演出している。花火がないのが残念だ。流石に夏場でも裸で外にいるのは寒いので、タオルを巻いたまま露天風呂に身体を滑り込ませる。


「ほぅ……」


 無意識に恍惚の息が漏れた。やはり、温泉はいい。お風呂もいいけど、温泉独特の匂いに包まれながら入るのは、もっといい。熱いのもまた心地いい。何が言いたいかというと温泉最高。できれば男のときに入りたかった。

 そこで自分の現状を思い出し、浮かれた気持ちが一気に沈んだ。

 僕は今、女の子の身体なのだ。

 身体を拘束するタオルを外し、背中を預けていた風呂のへりにしなだれかかる。身体の前についた二つの膨らみが押し潰され、冷たい温度を伝えてきた。それさえも自分の現状を突きつけてくるものでしかなかったけど、身体が見えるよりマシだ。


「これから、どうしよう……」


 考えるのは、もしもの未来。専門家である叔父さんでも解決できず、過去に妖怪退治をしていた奥ノ院さえもお手上げだった場合の未来だ。

 考えても仕方ないこと。それでも、どうしても考えてしまう。陽太や叔父さんといたときは、彼らとの会話の応酬で気を紛らわせることができた。でも今は違う。たった一人になるとき、僕はいつもこれからのことを考えていた。暗い未来の可能性を。

 首を振り、頭に浮かんだ最悪の未来を振り払う。それでも雲のように、不安は心を巣食っていた。

 せっかく気持ちよく入ろうとしたのに、悩み事で台無しになってしまった。もう充分に温まったし、出る頃合いだろう。タオルを巻き直して縁に足を載せると、ガラス戸が開く音がした。ガラス戸の方向に目を向けると、全裸の陽太が呆然と突っ立っている。


「籠を確認しなかったの?」


「す、すまん! えっと、その……」


「いいよ。いいからこっち来て」


 逃げようとする陽太を呼び止める。一人でいるといい気分じゃなかったから、ちょうどいい。タオルを巻き直し、ガラス戸に一直線に向かう。そして、逃げようと後ずさる彼の腕を引っ掴んだ。


「今日の外の話をしてよ」


「え、でも」


「いいから」


 躊躇ためらう陽太を、強引に中に連れてくる。適当な理由だったけど、混乱している彼には通じたみたいだ。手を引かれておずおずと入ってきた陽太を湯船に押しやる。温泉に浸かって恍惚の息を吐いた彼は、こちらを向いて慌てて姿勢を正した。居心地の悪さを感じながら、それでも誘った身として去るわけにも行かず、彼が横に見える縁に腰掛ける。


「叔父さんから、話は聞かなかった?」


「どういうことだ?」


「お風呂について。陽太はいなかったけど、女将さんが十二時以降は僕が入るよう取り計らってくれるって言ってたんだけど」


「叔父さんは、何も言ってなかったな」


 なるほど。叔父さんへの評価は正しくなかったということだ。風呂を出たら、文句の一つでも言ってやろう。


「それで、外の話、したほうがいいか?」


「うん。お願い」


 本当はどうでもよかったけど、頼んだ手前、断る訳にもいかない。陽太は身振り手振りで外の風景や出来事を話していたけど、それは耳に入らなかった。それよりも、彼がよそよそしく話すのが、すごく気になった。


「ねぇ、なんで、そんなによそよそしいの?」


 陽太の話が途切れたところで、すかさず問いを投げる。彼は気まずそうに息を詰まらせ、視線を逸らした。


「いや、その、状況わかるだろ?」


「どういう意味?」


 そんなのわかりきってる。僕と陽太が一緒に風呂に入っている。それだけだ。


「男と女が、一緒に風呂に入ってるっておかしいだろ?」


「何言ってんの。僕は男だよ?」


 そう言うと、彼の顔が苦々しげに歪んだ。


「お前、現実見てるんだよな?」


「見てるよ」


「お前は女だよ」


 話の文脈を無視するような断言。しかし、言外の意味は理解できた。だからこそ納得できない。


「僕は男だよ!」


「うるせぇ! そんなボンキュッボンの男がいてたまるか!」


 感情のままに立ち上がり、言葉を叩きつける。応ずるように立ち上がった陽太が僕を睨んだ。身長差の関係で、僕が見下ろす形になる。本来なら、陽太の視線は僕の顔に向くのが自然だ。だけど、陽太の視線は僕の身体、より正確には胸へと吸い込まれていた。その頬は赤く、お風呂に入ったときとは別種の赤さを帯びている。その現実に打ちのめされ、頬を涙が伝った。胸元に落ちた涙に気づいた陽太が、目に見えて狼狽する。いつもは、反省の色も見せずに茶化すのに。


「なんだよ……。悪かったよ。謝るから……」


「そんなの陽太じゃない!」


 反射的に手が出た。乾いた音が浴場に響き、突然の出来事に陽太が尻餅をつく。叩いた手の平がじんわりと痛い。その痛みが、この状況を現実だと教えてくれた。


「おい! 月!」


 制止の声を無視して更衣室に戻り、乱暴に身体を拭う。雑に服をまとい、緋袴まで穿いたところで、見計らったように戸がスライドした。


「無視するなって! お前、いきなり泣くとか叩くとかどうしたんだよ!」


「うるさい!」


 肩を掴んだ手を振り払い、振り返りざまに足を振り上げる。柔らかいものを潰す感触が足から伝わり、人のものとは思えない悲鳴が耳をつんざいた。陽太が両脚の付け根を押さえたまま蹲り、苦しそうに藤編みの床を引っ掻く。


「ご、ごめん……」


「ごめんで許されると思ってんのかテメエ……!」


 地を這うような声とともに、床を引っ掻いていた指が僕の足に伸びる。それが怖くて、反射的に身体を翻した。下駄箱のスリッパを取る暇もなく、裸足で更衣室を脱出する。


「待てテメエ! 逃げんじゃねぇ!」


 閉じる寸前、陽太のものとは思えないような声に、背筋が凍る。衝動に任せてやってしまった罪悪感を覚えながら、ひたすらに自室を目指した。同じ部屋に泊まっている以上、逃げ場がないのはわかっている。あれだけのことをしたのだから、殴られるくらいのことは覚悟している。だけどそれ以上に、彼に言いたかった。

 『僕を女として見ているのか』と。

 親友だと思っていた。だからこそ、一緒に風呂に入ろうがいつものように話してくれると思っていた。

 いや、違う。信じたかったのだ。あまりに自分が変わりすぎて、せめて陽太だけは変わらずに接していてくれたら救われた。

 だけど、それは、儚い希望だったのだ。陽太は僕を女として見ていて、たぶんあの時、欲情していた。


「うぅ……あぁ……!」


 意味もなく言葉が漏れ、行き場を失った感情が手に乗り移って髪を掻き乱した。

 気づけば、宛てがわれた部屋の前まで来ていた。誰かに会ってしまった可能性もあるけど、今はどうでもいいことだ。乱暴にドアを開け放つと、奥の部屋で煙管を吹かしていた叔父さんの肩が跳ねるのが見えた。


「この人でなし!!」


「深夜なんだから静かにしないとダメだろ……?」


 叔父さんの冷静なツッコミにさえ、神経が逆撫でされる。


「叔父さんは人の心がないの!? 僕の状況が理解できないの? 人を苦しめるようにそそのかして、自分は呑気に煙管をスパスパしてるってどういう脳みそ―――」


「うるさいねえ……」


 感情任せの言葉の弾丸は、静かな、しかしハッキリとした声に遮られる。


「自業自得に付き合ってるこっちの身にもなってくれないかい?」


 視界に映る叔父さんは、心底呆れ顔だった。


「流石に狐っ娘でも、言って良いことと悪いことがある。さっさと寝て頭を冷やしな。解決策なら考えておくから」


 それっきり、叔父さんは煙管を吹かす作業に戻ってしまった。せめてもの反抗として、奥の部屋とを仕切る障子を閉め切る。臭くなるから外でやってほしい。

 既に敷かれていた布団に寝転び、目をつぶる。陽太が帰ってくる前に寝てしまおう。奥の部屋から漏れる明かりから逃れるために、分厚い布団で顔を隠す。

 暗闇の中で考える。なんでこんなことになってしまったのか、と。しかし理由は明白だ。叔父さんの言葉は間違っていない。

 明日謝ろう。

 そう考えたところで、記憶が途切れた。

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