第12話


 辞めたい。でも、ただでさえ人が足りてないのに、私が辞めたら店長も他のみんなも、もっと大変になる。

 今はまだ辞められない。せめて人が増えるまでは。

 それに、深夜は時給がいいんだ。こんなことくらい、たいしたことではない。私が少し我慢するだけですむ話だ。


 早朝の国道を自転車で走りながら思う。車でもトラックでも、私をひいてくれないだろうか。そうすれば、楽なのに。楽になれるのに。

 海の見える橋の上にさしかかった。

 自転車をとめた。

 海の上に、真っ赤な朝焼けが広がっていた。


 気がついたら、泣いていた。


 世の中には私よりも大変な人はたくさんいる。もっと苦しんでいる人がいる。

 ちょっと嫌なことがあったぐらいで何を泣いているんだ。

 何も、ぜんぜん、たいしたことなんてない。

 自分が嫌な目にあったから、それがなんだっていうんだ。どうでもいいことだ。どうでもいい。何も気にするな。どうでもいいんだ。私なんてどうでもいい。何も気にするな。どうでもいい。何も気にする必要はない。私なんて、どうでもいいんだ。


 いつものコンビニに寄る。

 また熱がぶり返してきたようだ。視界がぼやける。ふらふらする。

 食欲はない。でも何か食べないと。

 飲むゼリーとスポーツドリンクを買った。


 部屋に戻ると、力が抜けた。

 廊下で、寝転がった。

 仰向けになる。

 また、涙があふれてきた。

 もう、このまま、ずっと寝ていたい。


 夢を見た。

 あの四人組がいた。

 男二人が私に土下座しろと迫っていた。

 私は正座した。

 私は、床の一点を見つめたまま、笑っていた。

 何がおかしいのか、自分でもわからない。

 笑っている場合ではないのに笑っている自分が不思議で、そのことがだんだんおかしくなってくる。

 顔を上げて男たちを見ると、男たちには、首がなかった。

 首が後ろに折れ曲がっていて、後頭部が背中にくっついていた。

 座った姿勢のまま、ぴくりとも動かない。

 私は、笑っていた。

 私は立ち上がった。テーブルの上に突っ伏して寝ていた女性二人の顔が、真上を向いていた。女性の首も、後ろに折れ曲がっていた。

 視線を感じた。顔を上げてお店のガラス窓を見た。老人がのぞき込んでいた。

 私の首を絞めた、あの老人だった。


 目が覚めた。午後一時。

 全身が熱い。

 上体を起こしたら、頭の内側で、重い痛みが爆発した。

 視界が白く点滅した。

 これは、ヤバい。今日の夕方のシフトは無理だ。

 店長にメールして今日は休ませてもらいたいと伝えた。すぐに、休んでもいい、とメールが返ってきた。

 明日以降も二、三日は無理かもしれない。もう一度メールした。またすぐにメールが返ってきた。なんとかするからと。たぶん、店長が、夕方も深夜も、私の代わりに出るのだろう。


 四つん這いのまま廊下を這っていった。壁にもたれながら、なんとか起き上がった。

 立ち上がると、頭の痛みがさらにひどくなった。


 放置していた飲むゼリーを飲んだ。ぬるかった。味がしなかった。

 風邪薬を口に入れる。スポーツドリンクで流し込んだ。

 布団の上に倒れ込む。

 目を閉じた。

 あの老人は、死んだのだろうか。


 また、夢を見た。

 モトヤマさんとササキくんが部屋に来た。

 私のことを心配してくれている。いろいろと食べものや飲みものを買ってきてくれた。

 ササキくんが言った。

「俺たち、結婚するんです」

 ああ、これは夢なんだ、と私は思った。だって、ササキくんとモトヤマさんとなんて、そんなこと、絶対にありえないことだから。絶対に、ありえない。

「イエナガさんも、誰かいい人を見つけてください」

 と、ササキくんが言った。

 その言葉を聞いて、私はかあっとなった。衝動的にササキくんを突き飛ばした。

 なぜ、そんなことをしたのだろう。自分でもわからない。

 私は、ササキくんのおでこに、自分の手のひらを当てた。ゆっくりと、力を込めて押していく。だんだん、力を強くしていった。

 ササキくんの首が後方に曲がっていく。ササキくんは抵抗しない。

 ササキくんの後頭部が背中にくっついた。私は力を抜いた。

 私はモトヤマさんのほうへ顔を向けた。

 モトヤマさんは、笑っていた。

 そうか。よかったんだ。モトヤマさんが喜んでくれている。そうだ。モトヤマさんには、私がいる。私も笑った。

 モトヤマさんが、笑っている。私も、笑っている。ヒッヒッヒ、ヒッヒッヒ。


 ベランダにあの老人が立っていた。

 老人は足を引きずりながら、部屋に入ってくる。私たちのいるところまで来ると、老人はモトヤマさんのおでこに手のひらを当てた。そして、押し始めた。さっき私が、ササキくんにしたのと同じように。

 モトヤマさんの首が曲がっていく。少しずつ、後方に折れ曲がっていく。

 だめだ。それ以上曲がってはいけない。だめだ。やめて。やめてください。

 モトヤマさんの後頭部が背中にくっついた。

 私は、笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。


 目が覚めた。午後九時。

 強烈な吐き気が込み上げてきた。

 すぐに起き上がろうとした。めまいがした。視界が白くなる。起き上がれなかった。

 そのまま布団の上で吐いた。


 なんとか四つん這いの姿勢になる。

 しばらく吐き気はおさまらなかった。何度も戻しそうになるのに、口からはもう何も出てこなかった。首がぶるぶると震えていた。


 あの白いジャージの男は、私のせいで電柱にぶつかったのだろうか。私のせいで首が折れ曲がったのだろうか。

 あの老人は? あの老人は死んだのだろうか。私のせいで?

 私がしたことなのか?

 吐き気はおさまっても、震えは止まらなかった。

 私のせい? 私のせいなのか?

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