第9話


 自転車で帰るときに、また一瞬、意識がなくなった。

 これは危ない。そう思いながらも、その一方で、自転車のハンドルを車道側に傾けるだけで、楽になれるんだと思った。

 私が車道へはみ出さなくても、車が私に突っ込んできてくれれば。

 それでたとえ死ねなかったとしても、怪我をすれば、しばらく休めるし、モトヤマさんが私のことを心配してくれるかもしれない。


 コンビニに寄る。

 いつものようにパンを買った。

 店を出て、自転車のチェーンロックをはずしていたとき、駐車場に停まった車から男女の二人組がおりてきた。男は白いジャージを着て、女は黒いジャージを着ていた。

 あの二人だ。さっきの、メロンソーダでどうのこうのと言ってきた、あの白いジャージの男。

 私には気がついていないようだ。

 男の声が、また、聞こえてきた。

「殺すぞ」

 頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。

「殺すぞ」

 鼓動が早くなる。

 ジャージの二人組の前でコンビニの自動ドアが開いた。

「殺すぞ」


 二人は楽しそうに話していた。二人がコンビニの店内に入るとき、男が顔の向きを変えた。店内の明かりで男の顔がはっきり見えた。笑っていた。楽しそうに、笑っていた。

 気がつくと、私は奥歯を噛みしめていた。顎がこわばっていた。

 こめかみがズキズキと脈打っている。目の奥が痛かった。

「殺すぞ」

 男の声が、確かに聞こえた。

 その声を聞いて、頭の中が真っ白になった。視界が霞む。何も聞こえなくなる。


 突然、白いジャージの男が、コンビニから走って出てきた。

 コンビニの駐車場を走り抜けて、そのまま道路へと、ものすごい速さで走っていく。

 道路で、車が止まる。急ブレーキの音も、クラクションの音も、私には聞こえなかった。

 しゃっくりを繰り返しているような、ヒッヒッヒッ、という笑い声のようなものが聞こえてきた。

 白いジャージの男は、向こう側の歩道まで道路を走り抜けると、電柱へ、頭から飛び込んでいった。ものすごい速さで走っていた勢いのままで。

 男はうつぶせに倒れた。

 ヒッヒッヒ、という声が聞こえる。誰が笑っているんだ。

 辺りを見回した。笑っている人間は見当たらない。

 白いジャージの男が、ゆっくりと起き上がった。

 男の首が後方に折れ曲がっていた。私のいる場所からもはっきりと見えた。

 男の身体は向こう側を向いているのに、男の顔が見えた。上下逆さまに。

 男の背中に、男の顔が、あった。上下逆さまに。

 後頭部が背中にくっついていた。

 男の顔がニタリと笑った。

 笑った顔のまま、男は、また倒れ込んだ。


 コンビニから人が出てきた。

 車からも人が出てきた。

 喧騒けんそうが、聞こえない。ヒッヒッヒッ、という断続的に繰り返されるしゃっくりのような声だけが聞こえていた。

 私は、急ぎ足で、その場から立ち去った。

 

 部屋の鍵を開けるとき、鍵が鍵穴になかなか刺さらなかった。手が震えていた。

 自転車は明日、とりに行こう。もうコンビニには戻りたくなかった。


 眠れなかった。

 寝たいのに、眠たいはずなのに、横になって目を閉じると、白いジャージの男を思い出した。

 メロンソーダに炭酸がないと言ってきた男。

 そのことで殺すぞと言ってきた男。

 私のことを睨んできた男。

 コンビニで楽しそうに女性と話していた男。

 突然、走り出して、電柱に頭から飛び込んだ男。

 首が折れ曲がった男。

 首が折れ曲がっていたのに、笑った男の顔。

 あの老人と同じだった。

 

 朝方に夢を見た。

 ファミレスの店内にはお客さんがたくさんいた。

 そのお客さんは全員、首が折れ曲がっていた。

 後頭部が背中にくっついていた。

 あの老人がいた。白いジャージの男もいた。

 食事をしていた。みんな、食べていた。

 後方に折れ曲がった首で、食べている。私は、目の前の光景を理解できなかった。

 その状況はおかしいのではないか、と思った。首が後方に折れ曲がった状態で、どうやって食べているのか。

 キッチンにいるモトヤマさんの意見を聞こう。

 キッチンの中に声をかける。

 どうした、とモトヤマさんがキッチンから出てきた。

 モトヤマさんの首も折れ曲がっていた。


 目が覚めた。

 心臓が、古い洗濯機のように跳ね回っていた。

 息苦しい。

 こめかみの奥が痛い。目の奥が痛い。頭が痛い。

 寒気がする。

 雨に濡れたせいで、風邪をひいてしまったのかもしれない。

 身体はだるかったが、また寝ようという気にはなれなかった。

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