第7話


 お店の玄関ドアが開いて、モトヤマさんが出てきた。

「どうした? 大丈夫?」

 濡れた私を見て、モトヤマさんは目を丸くした。

「あのおじいちゃんが、」

 私は国道に目をやり、モトヤマさんの視線を誘導した。

「おじいちゃんが、どうした?」

 老人は、いなかった。

 辺りを見回しても、老人の姿は見えない。

 私は、夢を見ていたのだろうか。


「とにかく、中に入ろう。腹、着替えないと」

 モトヤマさんが私の濡れた制服を見ていた。濡れているせいで制服が透けていないだろうかと、どうでもいいことが気になった。

 雨は上がっていた。


 ダスター用のタオルの予備をモトヤマさんが手渡してくれた。

「新品のタオル、まだあるから。足りなかったら言って」

「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 更衣室で濡れた制服を脱いで、髪と身体を拭いた。

 新しい制服に着替えた。

 下着は、しょうがない。濡れたままで我慢する。

 靴の中も濡れていた。

 休憩室にある大きな鏡で自分の姿を確認する。喉にはまだ痛みがあったけれど、腫れているとか、赤くなっているとか、そういう見た目の問題は何もなかった。


 後頭部を中心にして頭全体に重い痛みがあった。倒れたときに頭を打ったせいだろう。

 そう考えると、さっきのあれは夢ではなかったということなのか。

 それなら、あの老人は、いつ、どこへ行ったのだろう。あの老人が車にひかれたところを見た。たしかに見たはずだ。

 いや、その前に、あの首。あんなふうには、首は曲がらない。やっぱり、夢だったのだろうか。夢というか、幻覚かもしれない。

 逆さまになった老人の顔を思い出して、寒気さむけを感じた。現実のはずはない。頭の中に貼りついたあの老人のイメージと、頭に感じる痛みがどこかに行ってくれないかと、何度か首を横に振った。頭に痛みが広がった。

 時計を見た。午前四時。


 ホールに戻った私に、モトヤマさんが言った。

「シノダさんが早く来てくれることになったから。たぶん六時くらいになると思う」

「え、連絡してくれたんですか? でも、こんなに朝早くなんて。すごい申し訳ないです」

「シノダさんはいつも朝がめちゃくちゃ早いから。寝るのも早いけど。だから心配しなくても大丈夫。風邪ひいたら大変だし、こういうのは持ちつ持たれつだからね」

「すいません。ありがとうございます」


 午前五時三十分。

 シノダさんが来てくれた。シノダさんは、すぐに着替えて出てくれた。

 甘えさせてもらって、私は五時三十分に上がらせてもらった。

 シノダさんはすごく心配してくれていた。

 すいません、と頭を下げる私に、いいからいいから、と笑顔で言ってくれた。

 ただ、どうも、私が倒れた、というような形で話が伝わっているらしい。モトヤマさんがそう思っていたようだ。慣れない深夜勤務が続いて疲労が溜まって、それで倒れた、と。

 実際に何があったのか、本当のことを私は言えなかった。

 私自身、実際は何があったのか、理解できないでいた。


 早く上がらせてもらえたぶん、今日は夕方のシフトに入っていることもあって、たっぷり寝ようと思った。帰ってすぐに横になった。

 眠れなかった。

 横になりはするのだが、頭の中に、何度もあの老人の笑っている顔が浮かんできた。それとともに、首を絞められて意識が遠くなった感覚、お腹の上に乗られた気持ち悪さ、押し倒されたときの痛み、あの老人を突き飛ばしたときの自分の手の感触、それらの感覚が私の意思を無視してよみがえってきた。

 その度に起き上がって、頭をかきむしった。声を抑えて叫んだ。枕を殴りつけた。自分で自分の感情を制御できなかった。それがどのような感情なのか、自分でもわからなかった。


 結局、お昼には完全に目が冴えてきて、もう寝ることは諦めた。

 身体が重い。休みたい。

 買い置きをしている袋ラーメンを食べた。味がしなかった。

 店長からメールが来た。無理そうなら今日は休んでいいという内容だった。

 いえ、ぜんぜん大丈夫です、ありがとうございます、と私は返信した。

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