第6話


 今日は深夜のシフト。


「今日も一日よろしくお願いします」「お願いします」

 モトヤマさんと一緒にシフトインする。

 夕方シフトのカワノさんと交代した。


 午前四時。

 お客さんはいなかった。


 あの老人が来た。

 私はその老人の入店を拒否した。

「申し訳ございません。警察のほうから指導を受けておりますので、当店のご利用はご遠慮ください」

「寒い。寒い。あったかいコーヒーを飲ませてくれ」

「申し訳ございませんが」

 と、私は言いながら、老人を店の外へと半ば強引に押していった。

 玄関ドアを出ると、エントランスには強い風が吹きつけていた。ごうごうと風の鳴る音が聞こえた。

 老人は、私の手をふりほどいた。ものすごい力だった。

 突然、老人は手に持っていた杖で、私のお腹を突いた。

 息が詰まった。

 老人の顔を見上げると、老人は笑っていた。大きな黒目がお店の明かりを反射していた。

 私はかあっとなって、老人を両手で突き飛ばした。

 老人はよたよたとした足取りで後ろ向きにさがっていった。そして、小さなステップを踏み外した。

 老人の身体がゆっくりと仰向けに倒れていく。右手に持っていた杖が老人の前方に投げ出された。

 杖の転がる音が響いた。老人の身体がアスファルトの地面に倒れた。鈍い音がした。後頭部がバウンドしたのが見えた。


 私は動けなかった。やってしまった、と、そう思った。頭が真っ白になった。

 鼓動が早くなる。

 助けなければ。早く、老人を助け起こさなければ。

 頭ではそう思っているのに、身体が動かない。足が固まっていた。

 深夜の国道を乗用車が走り抜けていった。

 意識して深呼吸する。まず、落ち着かないと。

 ポツポツと雨が降り始めた。


 雨脚が少しずつ強くなっていく。 

 老人の頭が持ち上がった。

 生きていた。よかった。

 老人は上体を起こした。

 私は転がっていた杖を拾って、老人に駆け寄った。老人の傍らに屈みこんで、杖を差し出しながら、言った。

「あの、すいません。大丈夫ですか?」

 老人は杖を受け取ると、その杖を支えにして立ち上がろうとする。

 私は手を貸そうと、老人の身体に触れた。

 老人は私の手を払いのけると、中腰の姿勢のまま、杖を頭上に大きく振り上げた。

 頭を叩かれる、そう思って、私は老人の振り上げた右腕をつかんだ。

 老人は強引に腕を振り下ろしてきた。すごい力だった。私の力では老人を押さえられなかった。

 老人の身体が、私にもたれかかってきた。私は老人にのしかかられる形で、後方に押し倒された。

 背中と後頭部を打った。視界が白くなる。息が詰まった。

 私に覆いかぶさっていた老人がゆっくりと上体を起こした。

 身体が接触する気持ち悪さに鳥肌が立った。

 老人は私の顔を見てニタリと笑うと、私のお腹の上に馬乗りになった。

 老人は、私の喉に杖をあてがうと、体重をかけて杖を押し込んできた。

 喉が押し潰される。

 私は杖を押し返そうとした。けれど、私の力ではどうにもならなかった。

 息ができない。涙が出てきた。


 力が入らない。殺される。助けて。誰か、助けて。

 なんで、私が。なんで。なんで。

 視界が暗くなっていく。もうだめだ。

 私は目を閉じた。


 圧迫されていた首が、軽くなった。

 突然解放された喉が大きな音を鳴らしながら息を吸い込んだ。強烈な嘔吐感が喉の奥からせり上がってきた。激しく咳きこんだ。涙と鼻水が流れ出ていく。

 視界がはっきりしてきた。

 老人の足が見えた。老人は立ち上がっていた。

 私は視線を移動させていった。老人の、足から腰へ、腰からお腹へ、お腹から胸へ。

 胸から上へ。老人の、首がなかった。

 老人の、顔が、ない。首から上が、ない。


 老人は振り返り、国道のほうへ身体を向けた。老人の背中が見える。

 顔が、あった。

 背中に、顔があった。上下逆さまの顔が。

 老人の首は後方へ折れ曲がり、後頭部が背中にくっついていた。

 老人の口が動いた。何か言っているようだ。けれど、何も聞こえなかった。

 老人と目があった。老人がニタリと笑う。

 男の人が裏声でしゃっくりを繰り返しているような、ヒッヒッヒッ、という声が聞こえてきた。老人が笑っているのだろうか。

 突然、国道に向かって老人は走りだした。

 危ない。いや、それよりも、あの足で走れるはずがない。

 国道を乗用車が走ってくる。

 乗用車が老人の身体をはね上げた。老人の身体が、弾かれて、上に跳ね飛んだ。

 老人の足が弧を描いていく。その足が真上を向いたとき、老人の顔が本来の向きに見えた。笑っていた。

 老人の身体がアスファルトの路面に落ちた。


 雨は小降りになっていた。

 私は立ち上がった。下着まで濡れていた。

 ヒッヒッヒッ、という断続的に繰り返されるしゃっくりのような声が、まだ聞こえていた。

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