第5話
帰り道、自転車で、一瞬だけ意識が飛んだ。時間にすればほんの数秒だろうか。歩道と車道を分ける縁石に、自転車の前輪が当たって目が覚めた。
全身に鳥肌が立った。もし、車道を走っていたら。あるいは、歩道と車道との間に縁石がなかったら。私は、死んでいたかもしれない。
睡眠薬を探そうか。昼間でも寝られるように。睡眠薬を飲んででも寝るようにしないと、まずいかもしれない。
いつものコンビニに寄る。今日はササキくんはいなかった。
パンを買って帰った。
昼の三時に目が覚めた。三時間しか寝られなかった。
これだけ明るいと、もう寝られない。
昼間に寝られる人が羨ましい。
今日は深夜のシフト。
「おはようございます。今日も一日よろしくお願いします」「お願いします」
「昨日、また来ましたよ。あのおじいちゃん」
と、ノグチさんに昨日のことを話す。
「どのおじいちゃん?」
「あの、杖を持って右足を引きずりながら歩く、無銭飲食のおじいちゃんです」
「ああ。夜中もけっこう来るの? 昼間はけっこう来てるらしいけど」
「昼も来てるんですか。え、じゃあいつ寝てるんですか」
「まあ、さすがに毎日ってことはないんだろうけどねえ。それで、昨日はちゃんと払ってくれたの?」
「はい、払ってくれました」
「よかった。でも、一人で無理しないでね。深夜はけっこう変な人が来るから。これは無理だと思ったら、すぐに警察を呼んでいいからね」
「あ、はい、大丈夫です」
夕方によく見かける常連のお客さん、中年の男女四人組が、今日は珍しく夜中までいた。だいぶ酔っているようだ。騒がしい。
お会計をするのにレジの前に来る。男二人は足元がふらついている。大丈夫だろうか。
お会計が終わって、お見送りをするのに私はレジカウンターから出た。
男の一人が私に近づいてきて、私のお尻を触った。
その男がニヤニヤしながら言った。
「彼氏とかはいないの? そんな趣味はない?」
「やめなさいって。困ってるじゃない」
すぐに連れの女性がたしなめてくれた。
私はどうしていいかわからなかった。耳が熱くなる。
初めてこんなことをされた。そういう話は自分には関係のないものだと思っていた。
笑顔をつくろうとする。手が震えた。
「ありがとうございます。またお越しくださいませ」
なんでもないことだ、と自分に言い聞かせる。たいしたことではない。何も問題はない。
こんなことで動揺している自分が馬鹿みたいだと思う。
午前三時。
あの老人が来た。
手に新聞を持っている。国道を挟んだ向かいにあるコンビニで買ってきたのだろう。
老人は何も言わずに客席へ行き、ソファに座った。
新聞を読んでいる。何かを注文する気配はなさそうだ。
私はクリーンを再開する。うるさいとか言われると困るので、静かにクリーンを進めた。
三十分くらいで老人は店を出ていった。
午前四時。
警察の人が来た。
あの老人が向かいのコンビニで新聞とお菓子を万引きしたらしい。
あの老人がこのファミレスによく来ることを警察の人も知っている。新聞とお菓子を持っていなかったかと訊かれた。新聞は持っていたと私は答えた。お菓子は持っていなかったと思う。
くれぐれもあの老人を店内に入れないようにと注意を受けた。
ああ、面倒くさい。
なんで私がそんなことまでしないといけないのか。
午前九時。
私が帰る頃にまたあの老人が来た。さっき警察の人に連れて行かれたのに。
レジでお金を確認していた私とタナカさんに、老人が話しかけてきた。
「家はどこだ?」
「はい?」
タナカさんが応対する。
「家がどこか、わからない」
「そうですか。おじいちゃん、おうちがわからなくなっちゃったんですね。じゃあ、そこに座って、ちょっと待っててくださいね」
タナカさんが電話で警察を呼んだ。私にはもう帰っていいよと言ってくれる。
「大丈夫ですか?」
と、訊いた私に、
「うん。大丈夫」
と、うなずいて見せて、タナカさんは小声でぼやいた。
「もう。ここは老人ホームじゃないんだけどなあ」
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