第2話


「おはようございます」「おはようございます」

 休憩室には店長がいた。

「どうですか、イエナガさん。深夜のシフトには慣れましたか? きつくないですか?」

 と、店長が訊いてきた。

「はい、大丈夫です。眠たいですけど」

 と、私は答えた。

 店長は年下の私にも敬語で話す。非常に謙虚な人だ。接客には向いていると思う。

「人が入ってくれたらいいんですけどね。夜勤となると、なかなか難しくて。誰か入るまでは、しばらく深夜のシフトが多くなると思うんですけど、大丈夫ですか?」

「あ、はい、大丈夫です」

「ありがとうございます。本当に助かります」

 店長は頭を下げた。いえいえそんな、と私も頭を下げる。

「でも、イエナガさんが夜勤だと、今度は夕方のシフトが埋まらなくて。もう本当に頭が痛いです」

「あ、自分、夕方も入れますけど」

「本当ですか。そう言ってもらえると助かります。ありがとうございます。もう本当に感謝です」

 店長はまた深々と頭を下げる。いえいえそんなと私も頭を下げた。

 言ってしまってから少し後悔した。深夜のシフトだけにしたほうが絶対に楽なのに。


 シフトインして、ホールのノグチさんと交代する。

 レジで金銭チェックをしていた私の脇腹を、ノグチさんがちょいとつついた。

「ひゃ」

 私は変な声を出してしまった。

「あのおじいちゃん、また来てるの」

 と、テーブルの一つにちらちらと視線を向けながら、ノグチさんは言った。

「え? またですか」


 無銭飲食の常習犯。そう言うと、とんでもない人物に思えるかもしれないけれど、実際はもっとひどい。なぜなら、本人には悪いことをしているという自覚がないからだ。わかりやすく言えば、ボケている。

 深夜に徘徊しているようで、この時間にはよく来る。正直、私のいる時間には来ないでほしい。

 この老人の無銭飲食のせいで、何度か警察を呼ぶはめになっている。警察を呼ぶたびに私が怒られた。こういう人間を店に入れるほうが悪い、泥棒を店内に入れているのと同じことだ、と言われた。

 言っていることはわかるし、そのとおりかなとも思う。けれど、では、そんな人間にお店に入らないでくれと言ったとして、言うことを聞いてくれるだろうか。この老人は聞いてくれなかった。

 私にどうしろと言うのか。


 老人は席を立った。テーブルに立てかけておいた杖を手に取る。右足を引きずってレジまで来た。

 老人は、夏なのに生地の厚そうな黒いロングコートを着ていた。

 老人は背が高く、私とノグチさんは老人を見上げるかっこうになる。

 ノグチさんが対応にまわってくれた。ノグチさんがまだいるときでよかった。

 老人はお店の玄関ドアに手をかけると、こちらを振り返って、口の両端を大きく吊り上げた。カサカサに乾いてそうなしわしわの顔に、粘り気のある笑みが浮かんだ。

 目が合った。

 老人の、大きな黒目が、ライトのないトンネルの入り口のように見えた。その目を見ているだけで、方向感覚を失いそうになる。

 老人は足を引きずりながら、出ていった。


「ありがとうございます。助かりました」

 私はノグチさんに言った。

「ご家族の方がどうにかしてくれるといいんだけど。そうは言っても、いつも見張っているわけにもいかないだろうしねえ。困ったもんよねえ」


 深夜二時。

「二人は相性がいいんじゃないかなあ」

 モトヤマさんに恋人はいるのかという話をしていたときに、キッチンのカンダさんが言った。二人というのはモトヤマさんと私のことだと思う。

「アユミちゃんはちょっと男っぽいところがあるから、性格的には合うと思うんだよね」

 相性がいいと言われて、嬉しくなった。自然と顔がにやける。


 勤務中ではあるが、コーヒーを飲みながらだらだらとおしゃべりをしている。こうやって自分の好きなときにだらだらできるのは深夜勤務のいいところではある。

 本来なら九時間ある勤務時間のうち、一時間は休憩時間なんだけど、ホールとキッチンが一人ずつだと、二人がホールとキッチンを両方できないことには、一時間きっちりと休憩は取れない。だから、こうやって休憩を取れないぶん、てきとうにサボっている。

 そうでもしないと、やってられない。

 忙しいときには九時間ぶっ続けで動き回ることになるけれど、それでも一時間休憩を取ったことにしないといけない。そんなブラックな面も深夜勤務にはある。


「連絡先とかは交換してるんでしょ。メールとかはしてないの?」

「あ、はい、いちおう、してないこともないんですけど」

「それで? どうなの? 進展しそうなの?」

「え、いや、まだぜんぜんそんな感じじゃないんで、ほんとに」

「二人がつき合うことになったら、ここのお店からは初のカップル誕生になるね」

「はあ、そうなんですか」

 応援してくれているらしいことはありがたいと思うけど、できればそっとしておいてほしい。


 深夜三時。

 中年の男二人と若い女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 女性はずいぶんと酔っぱらっているようだ。男二人が両側から女性を支えている。

 三人はソファーに座った。女性はソファーからずり落ちそうだ。

 こういう光景をテレビのバラエティ番組で見たことがある。いかにも酔っぱらってます、というような表情、仕草、ろれつの不確かさ、そんな諸々もろもろを、まさか実際に自分の目で見ることになろうとは。

 飲みものとデザートを頼んで、一時間くらいしてお会計をした。

 部長と呼ばれていた中年の男が女性を送っていくことになったらしいが、女性はその男が送り狼になるのではないかと心配しているようなことをしきりに口にしていた。

 私の見たところ、部長氏が送り狼になる可能性は高そうではあった。けれど、そうなったとしても、前後不覚になるほど飲んだ自分が悪いだろう、と、お酒を飲まない私は思った。


 早朝には、クオカードで支払いをさせてくれと言い張る男が来た。

 ここでは使えないと伝えても、クオカードが使えないなんておかしいじゃないかとその男は譲らない。

 その男の差し出すクオカードを手にとり、裏面に書かれてある使用可能店舗を確認して、それを男に見せながら、うちのお店は使用可能店舗に含まれていない旨を何度も説明した。

 私はだんだんイライラしてきた。その男が自分のスマホを使ってネットで調べて、ようやく納得してくれた。

 面倒くさい。


 深夜勤務はホールが一人だから、変な人が来ても自分でどうにかしないといけない。これは、眠たいということに並んで、深夜勤務の最大の難点ではある。


 その日は、他に特別なことはなかった。

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