再帰的進化論

 レベルAは海面上の自然光区を覆う巨大ドームの頂上部に設けられたエリアです。その外縁部に設けられたテラスから、武田洋平とアルジ・クワッカの二人は遠く太平洋の水平線に沈みゆく太陽を眺めていました。ただただ手すりに体を預け、風の音色を聞き流すばかり。二人はしばらくそのままで、どちらも口を開こうとはしていないようでした。

 ただ、クワッカの方はきまり悪さを感じていたようでした。

「ねえ」先に口を開いたのは彼女です。

「こういうとき、普通のパートナーならどんなことを言うのかな」

 クワッカが真剣な口ぶりでこぼすと、武田は噴き出しました。

「それ、僕に聞く?」

 気にしなくていいよ、と武田は再び洋上に目を向けた。

「そういう発言が得意な人間と苦手な人間とがいる。僕もどちらかといえば後者の人間だからさ。それに、本気で慰めの言葉を欲しているなら初めから〈バイ・カウラ〉に頼んでいるさ」

「それは、あんまり気が滅入ってないってこと?」

「ただ、柄にもなく海風が恋しくなるくらいには滅入っているのかな」

 武田は目線を上げ、目を細めました。

「お父さん、海洋生物学者だったよね」

 クワッカも横に並んで手すりに体を預けました。

「そう、だから実はね、あの日君が僕に講義してくれたよりもずっと前に、ロトカ・ヴォルテラ方程式は教わってたんだよ」

「それっていつのこと?」

「パシフィカに来る前だから、十歳未満の頃かなあ」

「嘘、微分方程式を理解したの私より二年も早いの?」

「理解したとは一言も言ってないけどね」

 武田は横に並ぶクワッカの横顔に目を向けた。彼女は武田の真意を掴めてる様子はなく、怪訝そうに武田の目を見返しました

「……話を戻すけど、父は外洋に船を出すこともあったんだけど、何度かついて行ったこともあったんだ。数か月単位で、一緒に海に潜ったり、海の生き物を見たり、解剖を手伝ったこともある。そこまでいかなくても、海岸沿いの生物相を一緒に観察したことは数知れずでね。だから、時折海風が恋しくなるんだ。ただ、無邪気に、純粋に、好奇心の赴くままに調べ、見て、考える。そんな遠く幸せな日々を思い出させる匂い――粒素パーティクリムが僕にとっては潮の匂いなんだ」

「あなただけの全覚言語オールセンスね」

「そう、人は誰しも全覚言語オールセンスを持っている。匂いが、音楽が、遠い記憶を掘り起こすようにね。そして今回、創発性全覚文は僕にとって、更に忌々しいものとなった」

「ごめんなさい」

 クワッカは手すりに額をこすりつけ、声を絞り出すように言いました。

「私がパターンを見出したばっかりに」

「それなら、教えてくれるか、アルジ。全覚言語の進化論について」

「全覚言語の進化論?」

 クワッカは顔を上げました。

「創発性全覚文には一切の発話主体がなかった。複数の発話AIが放射する全覚素の組み合わせによって発話しているけれど、発話を主導している発話AIが見当たらないんだ」

「つまり、創発性全覚文は誰かが発話した、させたものではなく、あくまで偶発的な現象であると? 悪童症候群の時と同じように、離散殺人集合にも犯人はいないってこと?」

「いいや、僕が犯人の可能性を言いたいのは、どこかの全覚文発話AIやその運営企業がではなく、系そのものだよ」

「系そのもの?」

「全覚言語系は無数の発話AIと評価AIのフィードバックループで、絶えず新しい全覚文が生み出され、淘汰され、進化していく。そうなれば、偶発的な創発現象が生じることもあるだろう? 自然がパターンを創発するように」

「……そういうことね」

 クワッカは手すりから離れ、夕日に背を向けました。

「それなら、誰にも言ってなかったんだけど、私の頭の中には、一つの進化論のモデルがあるの――再帰的進化論って言うんだけど」

 武田は振り返り、夕日が赤く染めるクワッカの背中に目をやりました。

「再帰的、ねえ」

「簡単よ、生物種――被淘汰種がいて、それの進化の方向性を決める淘汰圧がある。通常の進化論と違うのは、その被淘汰種の進化が淘汰圧に大きな影響を与えることができると仮定していること。そうすれば、淘汰圧によって進化の方向が決まるのみならず、進化の方向が淘汰圧を決める。入れ込構造の再帰的モデルってのはそういうこと。これってさ――」

 再びクワッカは向き直り、武田を見ました。

「全覚言語の進化とそっくりだと思わない? 全覚言語は人間たちを操る。人間たちの行動パターンによって、全覚言語の淘汰圧たる評価AIの仕様も変わる」

「ちょっと待って」

 武田が腕を伸ばして続きを制しました。

「それってさ、被淘汰種が自身の淘汰を決める淘汰圧に影響を与えられるってこと? 被淘汰種は自分の進化の方向性を決められる……?」

「さすがヨウヘイ。でも、それには一つ条件がある。そしてそれが、このモデルが論文にならず私の頭の中だけで納まっている要因」

「教えてくれ」

「自由意志の仮定」

「自由意志?」

「そう、被淘汰種が進化の方向性を決めるためには、被淘汰種には淘汰圧に依らずに自らの種としての意志を決定する力が必要になる。それを自由意志と言わずして何と言う訳?」

「――自由意志の話かい?」

 その声は武田のものでも、クワッカのものでもなく、クワッカの背中から飛んできました。武田とクワッカの二人はそちらに目を向けました。その人物は武田を目が合うと深々と礼をしました。

「ファルシード……!」


「何故、僕のことを知っているんですか」

 武田の声は強張っていました。

 クワッカ、武田、ファルシードの三人はテラスに設けられたオープンカフェで丸テーブルを囲んでいました。

 ファルシードは相変わらず革ジャンにデニムという前世紀的な出で立ちで、自毛のうねる茶髪は潮風を受けて盛大に癖をつくっていました。時折、通行人の奇異の視線がファルシードに注がれているのに武田は気が付いているようでした。

「あなたの師からお話を伺ったんです」

「そうですか。それでどういったご用件で」

「いや、単にお礼を言いに来たんですよ」

 ファルシードは白い歯を見せて笑います。と次の瞬間には、しまったというように口元を抑えて、申し訳なさそうに武田を見ました。

「これは失礼。お悔み、と言うべきでしょうかね」

「どちらでも構いませんよ。お気になさらず」

「いえ、目の前で人が亡くなりましたし、ましてあなた方がいらしてなかったら、私が死んでいたかもしれないんです。お礼を言うべきかお悔みを言うべきか判断は今でもできませんが、せめてそのことだけでもお伝えさせていただきたく」

「それなら、せめて――」

 武田は天を見上げました。既に群青の膜が赤く燃える天球を包み始め、微かに星々が瞬き始めていました。

「亡くなったダイエル・クシーさんのために祈ってあげてください」

「ええ、そうしましょう」

 ファルシードも目を閉じ、しばし祈りを捧げた。少し先に目を開けていた武田は祈るファルシードに目をやりました。一見して前時代的なパシフィカンらしからぬ風貌の彼ですが、細かな所作は実にパシフィカンらしいものです。主義主張が反パシフィカ的ではあっても、多くのエビデンスに立脚した説得力のある主張と、公演外での所作や物言いはまさにパシフィカンそのものでした。

「こういった場でこちらか訊くのは恐縮ですが」

祈りを終えたファルシードが適度に間を挟んでから切り出しました。

「タケダさんは三年前、創発性全覚文を発見された方ですよね」

「ええ、そうですが」

 少しぎこちなく武田は答えました。

「そしてアルジ・クワッカさんは――」ファルシードは初対面のはずのクワッカに目を向けました。彼女は自己紹介をしていません。

「タケダさんがその発見をする前に、創発というキーワードを彼に教えた立役者」

「どうして知っているんですか」

 武田が強張った声で訊きました。

「いやあ、すみません」

ファルシードは身を引きながら苦笑いを浮かべました。端から見れば不誠実な笑い方にも見えたでしょうが、対する武田の癪には触らない絶妙な線をついた笑い方でした。

「ただ、私が全覚文依存からの脱却を訴える以上、その相手たる全覚文についてはその研究者並みに詳しく知る必要があるでしょう? 増して政治家なら尚更ですよ。憎むべき敵程、よく学び、よく知る必要がある。それを感情的に否定し、怠った者たちの末路は歴史が教えてくれます。私の全覚文依存脱却は元々はエビデンスに基づいて得た意見では恥ずかしながらありませんが、だからこそ、私は多くのことを勉強し、調べ、そしてその上で自らの意見が誤りでないという結論に至ったんです。創発性全覚文のことも、そして三年前、最初の創発性全覚文〈あらゆる声に耳を傾けるな〉を発見し、悪童症候群の事件を解決に導いたことも知っています。そして、この一週間で五件起きた殺人事件の裏にも、創発性全覚文の影があるらしいということも」

「それをどこから?」

 武田が身を乗り出して訊きました。離散殺人集合の事実そのものは公的に報道されていましたが、その裏に創発性全覚文がある可能性が高いというのは非公式情報です。現在、警察としての事件の見解は「調査中」。だが、殺人事件が年に数件あるかないかの忘れ去られた事項である以上、それを騒ぎ立てる者は非常に少なかったのです。

「噂ですよ。ただ、既知の有害全覚文が規制をかいくぐって発話した例は今じゃほとんど見られないじゃないですか。短期間に五件も事件が起きている以上、それを新たな全覚文の登場として見る動きも少なからずあるようです。そして、申し訳ないことに、私の公開演説で五件目の殺人が起きてしまったということが、この一連の事件の注目度を上げ、噂を呼ぶ原因になってしまったようです。私も、あのようなことが起きて悲しいです。何か分かっていることはないのでしょうか」

 ファルシードのえらく下手な物言いは武田の声の調子を狂わせましたが、彼はそれを隠すように気丈に答えてみせます。

「分かっていたとしても、今の段階ではお伝えすることはできません」

「まあ、そうですよね」

「ただ」武田はすぐに付け加えました。

「僕に会いに来てくれて、そしてクシーさんに祈りを捧げていただいて、ありがとうございました」

 今度は武田が頭を下げました。

「いえいえ、これしき」

 去り際、ファルシードは一旦歩みを止めて振り返りました。

「もう一つ、いいでしょうか」

「何でしょう」

「私が来たとき、どのような話をしていたんですか。自由意志という言葉が聞こえたもので、少々気になっていましてね」

 武田はクワッカと見合わせました。少し目で会話をしてから、クワッカが答えました。

「自由意志の仮定は進化論にどう影響すると思いますか」


 クワッカの考える再帰的進化論、そしてそこに自由意志の存在を仮定し、被淘汰種が自在に進化の方向性が決められるようになったことを想定した自由意志介在進化論について説明している間、ファルシードは目を閉じて静かに耳を傾けていました。

「興味深い説ですね」

 ファルシードは興奮の熱気に当てられたような顔で言いましたが、クワッカの方は冷静でした。

「ただ、あなた方自由意志党の言う『自由意志』とは少々意味が違うかもしれませんがね」

「意味が違う? そんなことはないですよ、クワッカさん。恐らくこう仰るおつもりでしょう。自由意志党の言う『自由意志』は全覚文に影響されない、ヒト一個体の自由意志を指し、自由意志介在進化論で言う『自由意志』とは被淘汰種の種としての自由意志を指す。つまり、前者は個の意志そのもので、後者は集合体としての意志であると」

「そうですよ」

「本質的には一緒ですよ」

 ファルシードは白い歯を覗かせました。

「どういう意味ですか」

「クワッカさん」続いてファルシードは武田を見ました。「そしてタケダさん」

「あなた方は人間の自由意志が、一体どこから生まれるかご存知でしょうか」

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