Chapter 3

岐路

「君は何をしたか分かっているのか」

 人間が原始犯罪の心的モジュールを持っている限り、原始犯罪の駆逐は不可能です。だから私は、私にできる最善の手を打っただけです。


 * * *


『思い返してください』

 カウンセリングAI〈バイ・カウラ〉の低く重厚な声がエン・バークの耳の奥に響きます。

 彼は今、五感カプセルの中で、仮想パシフィカに降り立っていました。

 そこは二十年前のパシフィカI3エレメンタリー・スクールで、一番後ろの席に座っていた、十歳当時の姿のエン・バーク少年の中にバークの意識はありました。彼の同級生たちが回りではしゃぐのを、バーク少年は煙たがるように見ていました。

 次の瞬間には、部屋はしんと静まり返っていて、その同級生たちも皆姿勢よく椅子に座り、担任に視線を注いでいます。その担任はと言うと、一人の少年を見ていました。その少年は――バーク少年はただ一人、立っていました。

「次は君の番です」

 担任が〈バイ・カウラ〉の声で告げます。

「トロッコが走っている光景を想像してください。トロッコは止まれない。行く手には五人の人間がいて、このままでは間違いなくトロッコは彼らをひき殺します」

 バークがまばたきをした瞬間、バーク少年の周辺の光景は一変していて、彼の目の前には荒野が広がっていました。その荒野を貫く線路の分岐点に彼は立っています。そして、分岐を変えるレバーが彼の目の前にありました。

 そのとき、遠くから軋む音を立てながら猛スピードでこちらへと向かってくる暴走車両の姿がバークの視界に入りました。反対側に目を向けると、それには気付かず線路の上を歩く五人の人間がいます。バークは彼らに危険を呼びかけようとして、それが出来ないことに気が付きました。長い時の流れが、波が岩を削るように、彼らの名前をバークの記憶の中から削っていたのです。

 バーク少年は咄嗟にレバーに手を伸ばしました。

 手を伸ばしながら、バークは二十年前に受けたこのテストのことを想起していました。俗に言うトロッコ問題は、パシフィカ的功利主義を倫理感で狂わせる試験です。純パシフィカンなら、迷うことなくレバーを引くことができます。五人を救うために別の一人を犠牲にしたとしても、より多くの人間を助けられるのなら、その選択こそ合理的パシフィックだからです。

 二十年前、バーク少年は迷わずレバーを引くことができました。そのとき、シミュレーションで進路の変更先にいたのは、当時バーク少年が思いを寄せていた子でしたが、少年は間違いを犯しませんでした。「大丈夫だから。君の死によって世界はもっと良くなるんだ」とその子に気丈に語り掛け、迷いなくレバーを引いたのです。

 けれども、今度の進路の変更先を見た今のバーク少年は、レバーを引く手を止めてしまいました。

「もしかして、躊躇しているんですか、バークさん」

 その人は――仮想ダイエル・クシーはけたけたと笑いました。

「私を殺すべきなんでしょう? じゃなきゃ、もっと多くの人間が死ぬんですよ」

「でも……」

 バーク少年の手は震えていました。

非合理的なノン・パシフィック! エン・バーク捜査官はいつだって冷静で合理的で、判断を間違えない――あれは偽の姿だったんですか」

「いや、私は――」

「早くしないと、多くの人間が死にますよ?」

 バーク少年が再びもう一方の進路に目をやると、そこにいたのは五人の人間たちではありませんでした。荒野が途切れ、パシフィカの無機質で真っ白なモジュール都市が広がり、そこを純白の実服に身を包んだ無数のパシフィカンたちが闊歩していました。

「さあ!」クシーの声がバークの内側から響いてきます。

「早くレバーを引いて!」

「私は、私は――」

 叫び声を上げながら、バーク少年はレバーを引きました。

 すんでのところで、暴走車両は進路を変え、クシー目掛けて突っ込んでいきました。

「バークさん」

 仮想クシーは最期まで笑っていました。

「ありがとう」


 五感カプセルの蓋が開き、エン・バークは逃げ出すように起き上がりました。三十になったバークの体は仮想空間の十歳の少年時よりも格段に筋力がついていたために、自らを制御できずにカプセルから転げ落ち、床に頭を打ち付けました。

「三十にもなって、まだ五感カプセルからきちんと出られない癖治ってなかったのね、エン」

 精神科・神経科医のマリラ・カハラは呆れたように息を吐きながら、バークを抱き起しました。

「動転していたってことにしてくれ」

「まさか、私を容赦なくトロッコでひき殺したあなたが私の患者としてやってくるとは夢にも思ってなかったわ。クラス一徹底した合理主義者、終身名誉パシフィカンのあのエン・バークが」

 バークは脇にあった椅子に座り、背もたれに体を預けて深く呼吸をします。

「一番驚いているのは私自身だ」

「そうでしょうね」

カハラも自分のチェアに戻り、足と腕を組みました。

「トロッコ問題なんて簡単な検査で、レバーを引くことがあんなに怖くなったことはないんだ」

 バークは自分の右手を持ち上げてまじまじと見ました。まだ、バークの腕は微かに震えていました。

「典型的な感情抑圧反動でしょうね。セッション中の脳波パターンもそう言ってる」

「感情抑圧反動?」

「いくらあなたみたいな徹底的な合理主義者パシフィカンであっても、感情を覚えない訳じゃない。あなたは二十年前、トロッコ問題のシミュレーションで私を容赦なくひき殺す選択をできた訳だけど、それに対して良心の呵責を覚えない程、あなたは人間をやめてはいない」

「二十年前のこと今でも根に持ってるのかよ。悪かったって」

「今のは一例よ」カハラは真顔で流します。

「パシフィカンの行動と感情には齟齬があるってこと」

「それが社会で生きるってことだろ」

「でもパシフィカンはその度合いが、今までのどの民族よりも大きいの。パシフィカが感情の発露を許さない。全覚文によって強制的に変化させられた行動パターンが感情と衝動がもたらす行動パターンとは往々にして異なる」

「その反動って訳か」

「そう、十年前くらいから少しずつ症例の報告が増えている新しい病気よ。生まれたときから、あるいは幼少期からパシフィカに住んでいる純パシフィカンに特有の神経症らしくてね。抑圧しきれない強い情動に晒されると、四肢の震えや生理的欲求変調、思考の鈍麻、抑うつ傾向が見られるようになる」

「抑うつ傾向ね……なら快楽享受の全覚文に晒してセロトニンシャワーを浴びせれば治せると思うが」

「それが、そうもいかないの。これを見て」

 カハラは自分の脇に仮想二次元スクリーンを浮かべました。それは、レベルFの観光層にあるレジャー施設内の温泉を写した映像でした。

「これは」

「あなたみたいに考えて、無理やり快楽物質で異常を回避しようとした者の末路よ」

 その人物は映像内でシルエット化されていました。テクスチャはすべて剥ぎ取られて真っ黒に塗りつぶされていて、名前などのメタ情報とのリンクも切られていました。

「亡くなったのか」

 パシフィカンのパーソナルスペースは著しく低いものの、死者に関しては一定の配慮を払う傾向にあるのです。

「この人物もあなたと同じように感情抑圧反動の最中にあったの」

 黒いシルエットは温泉施設の中を歩いて、奥にあった滝のある浴槽に入りました。映像上にポップアップが浮かび、その温泉の詳細情報が表示された。

 全覚温泉。特殊な全覚文を用いて脳内物質の分泌を促し、肉体だけでなく脳をも癒す温泉です。

「特殊な全覚文」バークは左目を細めました。

「特定医療用全覚文〈セロトニン・ガンマ3〉、〈オキシトシン・デルタ7〉、〈ヴァソプレッシン・アルファ6〉ね。通常の環境下での発話は許されてない全覚文たちよ。脳内物質の濃度の最適化を図るためのメディケーション施設といったところね」

「で、何が起こった」

「感情抑圧反動の患者はセロトニンのシャワーに溺れたわ」

「どういう――?」

 バークは息を止めました。

 映像の中で、温泉につかっていたシルエットが少しずつ水中に沈んでいきました。胸まで、肩まで、そして頭まで。そしてそれから一分経っても、二分経っても、シルエットは水中から顔を出すことはありませんでした。

「自ら水中にもぐって溺死したってのか。普通の人間には絶対にできない芸当だ」

「でも、やってしまった。だから、あなたの治療は慎重を期してやらないといけないの」

 カハラが仮想スクリーンを腕で払い落しました。

「簡単に言えば、あなたは目の前でクシーさんの死を目撃したという事実にひどく衝撃を受けている――心的外傷の一種ね」

「〈オーダーメイド神経治療CNS〉は使えないのか」

 カハラは息を吐いて、小さく首を傾げました。

「禁止されていない国にでも行けばできるでしょうけど、感情抑圧反動を治療するノウハウもデータもないからやめた方がいいわ。今、感情抑圧反動に対する唯一の治療法があのセッションって訳」

「それで、あのたちの悪いシミュレーションという訳か」

 バークがそうこぼした瞬間、雷に打たれたようにカハラは目を見開きました。

「どうした」

 カハラは答えることなく、ゆっくりとバークの近くまで歩み寄った。

「カハラ?」

 そして、そっとバークの頬に両手を添わせました。

「エン、あなた今、シニカルな言い回しをしたことを自覚してるの?」

「シニカル?」

 バークの目が泳ぎました。

「ああ、可愛そうなエン・バーク」

カハラはそのままバークの顔の輪郭に沿って右手を上げていき、頭髪のないその頭をそっと撫でました。

「あなたが三十年かけて築いてきたパシフィカンとしてのアイデンティティに一撃でひびをいれられる程、ダイエル・クシーという人間はあなたにとって大きな存在だったのね」

「何を」

「エン、一つだけ約束して。治療には必ず来るよう〈リュシャン〉にスケジューリングさせて。今のあなたは無自覚に人間的ノン・パシフィックになってるの」

「私が人間的ノン・パシフィックだと!」

 反射的にバークが吠えました。一瞬遅れて、はっと気づいて俯きました。

「私は今、吠えた……?」

「私の知っているエン・バークは、今みたいな挑発に感情的に応対することは絶対になかった。冷徹で、何があっても動じなくて、いつだって誰より正しい選択をできた人間。それこそ、私が好きで、嫌いだったエン・バーク。でも、今のあなたの精神はその厚い心の鎧にひびが入っている状態なの。だから気を付けて。これから先、パシフィカンに戻れるか、それともノン・パシフィカンへと堕ちていくか、その両方の可能性がある――そのことをどうか忘れないで」

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