社会技術省長官エイドリアン・チェン
『公開演説のチケットは完売です』
〈リュシャン〉の淡々とした報告は最後の頼みの綱を無残にも切るものでした。
「今回ばかりは分析結果を役立たずとみなしたセワン管理官の判断を私も馬鹿にはできません。統計的な分析結果ならともかく、現象の発生パターンを単純な四次元曲線にフィッティングした? ノン・パシフィカンにとっても
横の席で膝を抱えて座るダイエル・クシー準捜査官が仮想独楽を卓上でくるくると回しながら呟きます。
「いいや、大事なのはクワッカ準教授の判断が
「激しく私も同意です」
そう言って、クシーは仮想独楽の上部を軽く叩きました。すると、仮想独楽は半分の体積の二つの独楽に分裂し、その角速度を更に上昇させました。
「会場に行って事件が起きなかったときのリスクと、会場に行かずして事件が起きたときのリスク。これらを天秤にかけることがノン・パシフィカンには難しいみたいですね」
「さっきと言っていることが違くないか」
「いいえ」クシーは仮想独楽の片割れを叩き割りました。
「私がセワン管理官を評価している点は、分析結果を信頼ならないとみなしたことです。評価しない点は、それゆえに――いや、終身名誉パシフィカンが
「随分とご立腹なようで」
「ノン・パシフィカンと話しているとこっちまで
「そういえば」
思い出したようにバークが声をあげました。
「どうかしました?」
「
「ええ、そのはずです」
「タケダも同じ
「そうですかね」クシーは表情を曇らせました。
「狭い分野ですし、可能性はありますけど、伝手があるとしたら最初から提案してくれるものだと思いますが」
「それもそうだな」
「でも、提案しなかったときのリスクと提案したときのリスクを天秤にかければ、どうすべきかは自明でしょう?」
「話ってなんでしょう、バークさん」
武田洋平の声が二人の聴神経に流れ込んできたのはその直後のことでした。クシーが〈リュシャン〉をコールさせたのです。二人が答えるより早く、目の前のデスクから上半身だけの仮想武田が生えてきて言いました。
「公開演説のチケット、売り切れでしたね」
「……知ってたのか」
「
「だが、済まない。クワッカ助教授に見つけてもらったパターンでは、正式な捜査許可をもらうための確たる証拠として認めさせることは出来なかった」
「方法はありますよ」
「どんな方法だ」
「〈サイエンス・ファースト〉を発話不可能にするんです。創発性全覚文はいずれも八個以上の刺激――構成素があって全覚文として機能する。つまり、そのうち一個でも有害全覚文法で刺激放射を禁じてしまえば、〈サイエンス・ファースト〉は発話されない」
「それはできない」
バークが唇を噛み締めながら言いました。武田は眉をひそめました。
「どうしてですか」
「今回の四つの創発性全覚文はすべて、とっくに有害全覚文法の規制対象への申請かけている。NCDの管轄のはずだが」
「それはすみません」仮想武田は眉をあげました。
「その部署は、機械的に既存の有害な構成素単位、全覚文単位で規制をかけているだけです。一応新規に指定された有害全覚文には目を通すようにしていますが、全部を押さえている訳じゃない。今回の創発性全覚文が有害全覚文に指定されているのは見落としていました」
「いや、却下されたんだ」
「却下?」
「ああ。どの創発性全覚文も、インフラ系全覚文に使われている構成素とインフラ系の全覚文のみを使ってるときた」
インフラ系全覚文とは、民間企業が宣伝のために作った営利全覚文やアミューズメント施設などで見られる快楽型全覚文とは違い、〈おはよう世界〉や〈理性の声に耳を傾けよ〉のように、パシフィカでの人間の生活に欠かせない、政府お墨付きの全覚文たちです。それらに使われている構成素も事実上政府の公認を受けたようなもので、それらを組み合わされていた創発性全覚文は規制が困難も同然なのです。
「規制路線は厳しい。いずれはそれでも無理やり入れるだろうが、既存の権益との兼ね合いもある。少なくとも、自由意志党の公開演説当日までに何らかの規制を入れることは無理だろう。乗り込むしか方法はないが、こちらは手詰まりだ。今はタケダの伝手だけが頼りだ」
「伝手」仮想武田はその言葉を復唱しました。
「社会技術省長官のことを言っているのですか」
「察しがいいな。そうだ。同じ
仮想武田が一瞬俯きました。クシーはその様子を注意深く観察しています。
「残念ながら、お知り合いではないみたいですね」
クシーはわざとらしく、残念そうにバークに向かって言いました。バークがそれに訝しむ視線を返した直後、仮想武田が顔を上げました。
「分かりました。声をかけてみましょう」
「やっぱり」クシーがにんまりと口角を上げました。「思った通り」
「学会で話したことがあるのか」
バークの問いに、仮想武田はゆっくりと首を横に振りました。
「彼は――エイドリアン・チェンは」武田はバークの後ろ、遥か後方を見ながら言いました。
「僕の指導教官です」
レベルCの摩天楼林の上層部はレベルBと呼ばれています。透明なドームから陽光が降り注ぐ中、あるいは星々の煌めきが満ちる中、摩天楼を結ぶ無数の空中回廊が張り巡らされた空中都市です。
その一角、レベルC以上の自然光区の中枢部に位置する社会技術省の本部、ロスト・シティ・タワーの五十二階。夕闇を光で満たす摩天楼群を見ながら、エイドリアン・チェンはバーボンのグラスを傾けていました。
アメリカ、ニューヨーク暮らしの長かったチェンにとって、パシフィカのレベルBから見下ろす摩天楼は故郷を思わせる懐かしい輝きを放って見えたのでしょう。彼はしばしばその光景に耽る傾向がありました。
実際、彼は毎夜のようにこの自室に残っては、グラス片手に夜景に入り浸っていました。けれども、この数日、明らかに彼の飲酒量は増えていました。〈理性の声に耳を傾けよ〉は何とかして彼の部屋に入り込み彼をアルコールの魔の手から救おうとしていましたが、パブリックな省庁の仕事場でありながら、その部屋は彼の強い権限に守られている聖域だったのです。
全覚文は迂闊に彼の部屋に入り込めず、窓の外に夜景に紛れた
彼の飲酒量が増えていた原因は明らかにアリサ・ブルーム副長官の存在でした。チェンよりも二回り若い彼女はチェンとは対照的に人工器官に対する抵抗感が明らかに弱く、ビヨンド・ヒューマン社の開発した感情最適化モジュールの規制について大いに揉めていたのです。
――若い者は新技術に対する警戒心が薄すぎる。たとえ老害を呼ばれようと、防波堤となって彼らを守るのが私の役目だ。
今日も議論は平行線を辿り、副長官が出直すといって出てようやく、彼は自らの心の荒波を鎮める機会を得ていたのです。
そこで、彼の〈リュシャン〉は声にならない声で呼びかけました。長官、と。
『あなた様に来客が見えてます」
「何時だ。アポがあった記憶はないが」
『十九時十三分です』チェンの〈リュシャン〉は朝夕夜の三時間制ではなく、二十四時間制で時刻を申告するよう設定されていました。
『ノーアポイントメントです』
「夕組の私に夜組の来客とは……。事前申請が必要だと言ったはずだが」
『本来ならばそうお断りさせていただくのですが、今度のお客は黒服をお召しになっています』
「
一つ息を長く吐いてから、彼は続けます。「一体何の用だと」
「創発性全覚文を見つけた――そう言っています」
「まさか」
チェンが目を見開きました。
「その忌々しい名を聞くとは……。本物の警察なんだろうな」
『網膜スキャンは済んでおりますよ。原始犯罪課のエン・バーク捜査官です』
「分かった。話を聞こう」
エン・バークと名乗った黒服の捜査官はまだスキン・ヘッドのまま何の仮想髪も展開してはいません。パシフィカンにしては珍しい見た目です。
チェンの視線に気づいたのだろう。バークは自分の頭皮を軽く撫でて見せました。
「気になりますか」
「いいや、済まない」チェンはさっと目を反らしました。
「いいんですよ。仮想髪も地毛も展開しない人間はパシフィカの人口にも1パーセントにも満たない。奇特な存在だということは自覚しています」
そう言って、バークはチェンの整えられた白髪に目を向けました。
「品のある髪型ですね。ただ――」
バークは左目を細めた。「仮想髪には見えませんが」
「地毛にも、だろう?」
チェンが問いかけると、バークは少し俯きました。「これは失礼を」
「いいや、気になさらず。私のこの髪は物質ではあるが、人間本来の毛ではない。頭皮に埋め込まれた無数の人工細胞の一部分だ。髪型も髪色も自由に変えられる」
「ビヨンド・ヒューマン社の人工器官ですね」
「まだ信用できた頃の商品さ。それで、黒服様がこんな夜更けに一体何の用かね」
「あなたのお力を借りたいのです」
チェンが既に〈リュシャン〉からバークの目的を聞いていることをバークも勘付いているようでした。
「創発性全覚文と言ったな」
「はい」
「最近立て続けに起こった四件の殺人事件に関する件か」
チェンの的を射た問いにバークは言葉を詰まらせました。今回の訪問はPCD公認のものではなくバークの独断によるものです。創発性全覚文の事実が非公開である以上、迂闊に第三者にそれを口外することはできませんでした。
「でも、何故だ」チェンは険しい表情を浮かべて訊きます。
「創発性全覚文の発見者は私ではない。それに関する論文を書いた人間が一人いることを、PCDならとっくに調べているんじゃないかと思うが」
「二十二年前、エイドリアン・チェン教授はこのパシフィカを有害全覚文の脅威から救った」
バークの突然の呟きに、今度はチェンが息を詰まらせる番でした。
「一体何を」
「パシフィカにおいて全覚文が開発され出した二〇四〇年代後半、奇妙な殺人事件が横行しました。殺人者たちは揃って、『そんなつもりじゃなかった』と言った。数多の有害全覚文たちが彼らを殺人に駆り立てていたからですよね。でも、あなたは学会の重鎮や企業のプログラマに責められながらも、有害全覚文の存在を主張し、証明し、そしてその脅威を打ち払った」
「今度は創発性全覚文を打ち払えと言うのかね。残念だが、今の私はもう全覚文に付き合う気はない」
「どういうことですか」バークが鼻を曲げました。
「君が創発性全覚文についてどこまで知っているか知らないが、創発現象はカオス系だ。分かっていないことが多すぎる。そもそも制御しようがないんだ。発見者であってもな」
「制御するんじゃないんです。次の事件を物理的に食い止めたいんです」
バークは自らの額に指を立て光の束を抜き出すと、腰を掲げて丁重にチェンの方に差し出しました。
「これは」
「創発性全覚文の発話ログと、数理生物学者が分析したその発話パターンです」
チェンは光の束を展開しその中に自らの体躯を突っ込み、作成者の意図に触れ、飲み込みました。
「奇妙な程に美しい数式だ。発話パターンがこんな美しい解軌道に乗っているとは。証拠というには信じがたいが、信じたい気持ちは痛い程分かる。だが、物理的に食い止めるのに一体何故私の協力が――」
そのとき、チェンの視線は次の予測発話地点についての情報に釘付けになりました。
「二日後のセントラル・パシフィック・ドーム――ファルシードの公開演説か。狙われるのはファルシードというつもりか」
「彼とはご友人だそうですね」
「正確には、
「彼を守るためです」
「しかし、彼が本当に創発性全覚文によって操られた殺人者に襲われるとなれば、私が出る幕ではなさそうだが。黒服様方が物理的に食い止めればいい」
「いいえ、これは正式にPCD主導の捜査ではないんです。つまり、私は捜査令状ではなく、チケットを手に会場に向かわなければならない」
「待て、正式なPCD主導の捜査ではないだと? 何故いれた、〈リュシャン〉!」
『そう怒らないでください、教授。懐かしい方からのお声があったからですよ』「懐かしい?」
そのとき、部屋のドアが開きました。
そこから入ってきたのは、バークとは対照的に、ロイヤル・シルクの簡素な仮想柄の実服に身を包んだ、無造作な黒の地毛の男性でした。
「何故だ、何故あいつがここにいる、〈リュシャン!〉」
チェンの声は震えていました。
『私が入れたの』
気を利かせたのはチェンの〈リュシャン〉です。
『あなたもそろそろ、昔の教え子に会いたい頃合いだろうと思って』
「余計なことをするな」
天井に向かってチェンが叫びました。
チェンの〈リュシャン〉はチェンの叫びなど気にも留めず、武田に向かって話しかけました。
『お久しぶり、会いたかったわ、洋平』
「久しぶり」武田は天井に向かってはにかみました。
「タケダ――一体何しに来た」
「決まっているでしょう。止めに来たんですよ。創発性全覚文の暴発を」
「今さら、どの口が。パンドラの箱を開けたのは君じゃないか。言ったはずだろう。創発性全覚文は制御できない。制御できない怪物を都市に解き放つなって」
「解き放ったのは僕じゃありませんよ。僕はただ、知らぬ間に解き放たれていた怪物を見つけただけ。この三年間、そいつは息を潜めていたようでしたが、ここに来て一挙に牙を向き始めました。この際、誰が見つけたとか、誰が作ったかとか、そんなくだらないしがらみに縛られないでください。大事なことは、この創発性全覚文という怪物を止めることだけです」
「それで、私にお前が放った怪物を止める尻ぬぐいをしろと?」
「いいえ、そんな手間は取らせません。暴発は僕が止めます。けれども、先程バーク捜査官が言ったように、これは正式な捜査ではありません。僕たちにはチケットが必要なんです。けれど、売り切れてしまいました。ただ、そこであなたがファルシードのご友人だというお話を聞いたんです」
「私が全覚文の権威だから止められる――そういう話じゃなかったのか!」
一体何故バークたちがチェンに声をかけたか。その真意を理解した瞬間、彼の背後で摩天楼の瞬く光たちが囁く中、チェンは突然に吠えました。
「見ない間に随分と図々しくなったものだな、君も」
「
武田は一歩も引きませんでした。
「
「ニュースの見出しにこう載りますよ。エイドリアン・チェン名誉教授、有害全覚文による殺人をまたも食い止める、って。それに、正式ではない故に、万が一失敗したとしても、あなたは何の責任も負わない――そう保証いたしますよ」
武田の〈リュシャン〉はその証明書をただちに発行し、チェンの〈リュシャン〉に送付しました。チェンの〈リュシャン〉はそれを保留にし、主の判断を仰ぎます。
「贖罪のつもりか!」チェンはそれを腕で払い落しました。
「今更どういうつもりだ。あのとき私は散々君に言ったはずだ。この博士論文は通してはいけない。だが、悪童症候群を暴いた君の論文は素晴らしかったし、リジェクトされないことは分かり切っていた。だから私は君にその論文を提出して欲しくなかったし、その研究も続けて欲しくなかった。創発性全覚文は実在する。でも、誰にも気づかれずにひっそりとささやきかけている分には問題なんてないんだ。けれども、君はその存在を公表した。私の忠告を無視してな! それがどういうことか分かっているのか」
「確かに、公表をしたのは僕です。けれども、仮に僕が創発性全覚文が見つけられなかったとしても、他の誰かが見つけていたんですよ」
「それはただの言い訳だ。おまけに君は一部の
「それは違います、チェン名誉教授」脇からバークの声が制しました。
「創発性全覚文の構成素を発射していた発話AIをすべて調べ、
チェンはバークを睨みました。
「それで、発話主体はどいつだ」
「なにもなし《ナッシング》」
「何だと」
「発話主体なんていないんですよ」今度は武田が続けます。
「創発現象に主体なんてありません。台風や地震や雷、どれも神の怒りではなかったようにね。ただの自然現象ですから」
「という訳で、名誉教授」再びバークが前に出てチェンの視線の前に立ちましたた。
「ここはもっとこう、
「……分かった」折れたのはチェンの方でした。
「だが、一つ条件がある」チェンは武田を睨み、きっぱりと言いました。。
「もし、今回の件で君らが創発性全覚文による殺人を止めることができなかったら、二度と私の前に姿を現すな、分かったか、タケダ?」
「ええ」武田は曖昧な笑みを浮かべました。
「僕は二十年前、有害全覚文の脅威を止めた人の教え子ですよ。今度の脅威は、あなたに代わって僕が止めて見せます」
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