数理生物学
パシフィカ中央大学はレベルGの白昼帯、九ブロックに跨る広大なAc1区に、千超のモジュールが要塞のように展開されてつくられています。
そしてその生物工学研究モジュール棟こそ、先日の創発性全覚文〈サイエンス・ファースト〉の発話地点であり、一人の学生が別の学生をテラスから突き落とすことになってしまった場所です。
殺害現場こそ封鎖されてはいましたが、キャンパス内には何事もなかったように多くの学生やオートモービルが行き交っていました。
夕二時五十三分、教室棟のとある講義室の後ろのドアから抜き足で室内に入った武田洋平、エン・バーク、ダイエル・クシーの三人は、そっと最後列の空いている席に座りました。
講義室は授業中でした。パシフィカ中央大学の知性的な学生たちは自由席にも拘わらず、その多くが最前列から等間隔で詰めるように座っていて、後部は閑散としていたのです。
そしてその講義室で数理生物学Ⅰの講義をしている教員こそ、パシフィカ中央大学生物学科・数学科に横断在籍しているアルジ・クワッカ準教授です。スクリーンを見るに、初歩的なロトカ・ヴォルテラ方程式についての講義をしていたようです。
クワッカはドアからそっと入る武田たちに一瞥をくれてから、講義を続けます。
「――ここからは雑談になるのだけれど」
授業は後半に差し掛かっていました。
「二次元の世界で生物がどう進化するか、考えたことがありますか?」
武田は思い切り頭を垂れ、額を机に当てました。
「まず、簡単な例から。二次元生命体を我々人間のように、口と肛門を別に持った消化管を持つことができるか」
クワッカは少し間を置いてから、学生の一人を指しました。学生は答えます。
「できないと思います」
「何故?」
「円を貫く一本の道を与えてやると、その道の両側は完全に分離され、最早一つの生物とは言えなくなるからです。口と肛門が共通の捕食孔を持っていると思われます」
「成程。いい考えね。理に適っているでしょう」
「なら次。二次元惑星の肉食獣は目をいくつ持つか」
「はい」と勢いよく手を上げる声が聞こえたのは、武田とバークの間からでした。クシーです。
学生たちは振り返り、その声の主の黒服を訝しむように目を細めましたが、クワッカは嬉しそうに口角を上げただけでした。
「いいでしょう。答えてください」
「四つです」
「二つでない理由は」
「肉食獣のように立体視するなら、一方を見るのに二つの目が必要でしょう。でも、二次元惑星では、生命体は前に進むか後ろに進むかしかできない。つまり、体の向きを変えることができないんです。なら、前方と後方――いや、右方と左方のそれぞれに一組の目を持つ必要がある。だから四つです」
「いいですね。実際のシミュレータではそのような生命体が生まれてきていました。では、そろそろ時間ですし、皆さんに一つ来週の授業までにやっていただきたい課題をやっていただきましょう。二次元惑星にはFという草食獣とNという肉食獣がいました」
「FはNより足が速く、歩いた少し先にNがいることが分れば反対側に引き返すことができます。けれども、二体のNに挟まれてしまうと、逃げ道がなくなり、どちらかに食われてしまいます。一方で、NとNに挟まれたNは両サイドのNのどちらかが死ぬまでFを食べることはできなくなります。しかし、両側のNはFを食べうるため、Nが増殖すると両端のNの間のNは死にやすくなる。このような状況下で、NとFの
授業が終わり、学生たちがぞろぞろと武田たちの脇を抜けて部屋から出ていきます。何人かの生徒がクワッカを捉まえて質問をしていましたが、それも捌けると、彼女はまっすぐ武田たちのところにやってきました。
クワッカは武田に目配せすると、バークとクシーが身を包む黒服に目をやりました。
「NCDの全覚文言語研究者とPCDの捜査官が二名――これは例の四件の殺人事件に関する調査依頼、ということですかね」
「さすがクワッカ準教授ですね」バークが答えます。
「話が早い」
「いいでしょう。わざわざ私の元を訪ねて来たんです。そうすべき根拠がある――そう解釈していいんですね。ヨウヘイ・タケダ?」
武田は頷きました。
「ちょうど次は空いているし、続きは私の研究室で伺うことにしましょうか」
四次元の仮想環境で四機のパシフィカと十分程戯れたクワッカですが、三次元空間に戻った後も、酔った様子は微塵も見せず、平然と立って話し始めました。
「高次元酔いをしないのか」
バークが驚いたように言いました。
「数学を扱っているとn次元とは知らず知らずのうちに友達になるんです。だから、今更四次元を見せられたところで――彼は私のお友達だもの」
「彼?」バークが左目を細めました。
「アルジ・クワッカの数学センスですよ」
横から武田が補足しました。
「彼女には、数学のあらゆる概念が人格を持って見えるんです」
バークは何も言えず、口を半開きにしたまま武田の方を見ました。
「クワッカさんは面白い可変錐体をお持ちなんですねー。羨ましいなー」
クシーが間延びした声を発しました。
バークはさっと武田から目を離して、咳払いを挟んでから改めてクワッカに問い直しました。
「それで、何か見えたのか?」
「ええ、それはもう、本当に。あなた方、ヨウヘイがいてくれてよかったね。高次元のデータ分析を行える
「どういうことだ」
「私には見える。四次元パターンの中に細々と流れる脈が、見えて、聞こえて、触れる」
バークは再び首を武田の方に回しました。
武田は半笑いで答えます。「要するに、何か分かったみたいですよ」
「これは対数螺旋、いわゆる黄金比と同じ類の規則を持っている」クワッカは唐突に解説を宙に垂れ流しました。
「といっても、それに従うアンモナイトの殻やヒマワリの種のような一見して分かりやすい二次元の黄金比とは複雑さが違う。しかし、黄金比が簡素で美しい式の上に成り立っているように、それぞれの創発性全覚文の発話点を時間軸に沿って見れば、これらを結ぶ一本の滑らかな曲線は簡単に描くことができる」
クワッカは周辺に〈アルジェブリカ〉の数式フィールドを展開しました。しかし、それはいつものクワッカを取り囲む円筒型の半透明のフィールドではありません。
それは海中の気泡のように離散して、波のように滑らかな高次元的な作業用仮想スクリーンでした。
「一体何が?」バークは目の前の光景に、額に手を当てました。
「ソフトウェアが提供する通常の作業用仮想スクリーンは――」武田が冷静に解説します。
「その実行者を囲むような円筒形、あるいは球形になります。それが、三次元空間で見たときに歪みの少ない形状ですから。でも、本当に作業効率を求めるときは、仮想スクリーンを七次元に展開するんです。クワッカは彼女とお友達だから」
「彼女?」
「もちろん、七次元ですよ。僕は話したことはないですけれど」
クワッカは七次元の作業用仮想スクリーンでしばらく数式を遊ばせていました。
「いつまでかかるんですか」
クシーがクワッカの所作に目をくぎ付けにされながら言いました。
「時間はかかりませんよ。数理モデルを扱わせたら、アルジ・クワッカの右に出る者はいません――ほら」
武田が言うと、クワッカの周囲に浮かんでいた気泡のような波涛のような曲面は大きく唸り、次の瞬間にはクワッカの体に吸い込まれるように消えました。
バークとクシーは息を止めました。
クワッカは目を閉じ、息を大きく吸い、そしてゆっくりと、長く吐きました。その吐息の音が静寂にとって代わられたとき、彼女は目を開きました。
「分かりました。四つの四次元空間に散布された赤い点の、次のプロット時地点が」
バークとクシーは目を見合わせました。
「それって、もしや」クシーが言います。
「ええ」武田が頷きます。
「次の発話が起きる座標と空間が予想できたということですね」
「それはどこだ」バークが吠えました。
「そう焦らないでください。直近の発話全覚文は〈サイエンス・ファースト〉。そしてこれが――」
クワッカはそう笑って、四人の中心に三次元の仮想パシフィカを出現させました。レベルCの一角に赤い点がプロットされています。
「ここが発話地点です。時間は三日後の朝六時ちょうど」
示されていたところにあったのは、円形の中腹がくぼんだ施設、セントラル・パシフィック・ドームです。
「誰が殺されるか分かるか」
バークが訊くと、クワッカは首を横に振りました。
「あくまで場所と時間だけ。対象までは彼女は教えてくれません」
「ここってイベントスペースですよね」
クシーが仮想パシフィカのドームを指さしながら言いました。
「それなら、三日後の朝六時に何があるか調べれば検討がつくんじゃないんですか」
武田もバークも〈リュシャン〉に呼びかけようとしました。だが、クシーの〈リュシャン〉の方が寸分早く答えを導いていました。
そのドームの中から、仮想ポップアップが四人それぞれに向かって展開されました。
その一部を武田は読み上げました。
「公開演説、自由意志党、登壇者――ファルシード」
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