ログ

 見たもの、聞いたもの、それが感覚器官の持ち主の独占物であるという考え方はとても旧時代的な時代錯誤の遺物、非合理的ノン・パシフィックなパラダイムです。

〈スマート・アイ〉、〈スマート・イヤー〉、〈ハイパースキン〉、その他あらゆる感覚器官は人工の強化器官にアップグレードされ、人工器官への精神的抵抗度の非常に低いパシフィカ人にとって、感覚情報はまさしく公共な資産となっていました。

それゆえに、エン・バークの発動したA級権限は、ときにパブリックエリアの範疇を超えて、プライベートエリアへの侵入すら可能とするのです。それこそ、事件を解決するための最も簡単な方策であり、プライバシーを神聖視するのは非論理的ノン・パシフィックな行為と言えるでしょう。

 パシフィカ警察、原始犯罪課PCDのオフィスがあるレベルHの白昼帯のエリアとは対照的に、極夜帯の繁華街F区は目に刺さるようなネオンの全覚文が蔓延る狂気と刺激にあふれた街区でした。本来白色のはずの壁面はすべて原色の仮想紋様で塗りたくられ、不健康的な波動素ウェイビムがタップダンスを踊って人々の耳を舐め、甘嚙みし、かじりつきます。そこを行き交う人々もまた、真っ白な実服を思い思いの色に染めていました。ある者は生地の上で花火大会を行い、ある者は移ろいゆく星雲の輝きを放つのです。

 欲を司る全覚文はその魔手をそっと伸ばして、堕落へと誘う甘い声、あるいは血を沸き立たせる匂いを、あるいは視線を奪う光景を放ちます。けれども、ここは彼らの無法地帯ではありません。極夜帯には番人がいるのです。

 全覚文〈理性の声に耳を傾けよ〉。

 その存在が欲と自制の絶妙なバランスを生み出し、極夜帯での遊びを程々なものに抑えさせるのです。

 数多の商用全覚文と〈理性の声に耳を傾けよ〉の絶妙なシーソーゲームの中で人々は踊らされ、されど心は確かに洗われる――それが極夜帯が繁華街でありながら、犯罪とは無縁の地帯となっている所以なのです。

 その中を、誘惑の声に引き寄せられたマハ・ユールは一人、ライムグリーンの仮想髪をはためかせながら早足で歩いていました。他性が向かっていた先は他でもない風俗店でした。

 バークとクシーら三人はその後ろを堂々と尾行していました。あらゆる光素ネオニム系全覚文を弾くパシフィカ警察の漆黒の制服に身を包み、欲に揺れ動く人々と理性を取り戻した人々の波間を漕いで進みます。

 彼らがいるこの環境は仮想再現世界。街区を構成するモジュールに搭載された、あるいは人々が身に着けた人工感覚器官を通して集めた情報を統合し、事件直前のユールの足取りを再現していたのです。

 バークは振り返り、もう一人の随伴者に向かって言いました。

「〈シェン・ルー〉、何か?」

 あらゆる波動素ウェイビムを弾く純白の実服を身にまとい、実髪も仮想髪も全くなく、顔立ちもすべてが平均的。生物図鑑のホモ・サピエンスの欄にでも乗っていそうな、記号的で抽象的な姿形をしていて、体格もまた、他性のようにどっちつかず。その〈シェン・ルー〉はバークの問いに首を横に振りました。

『いいえ、バーク。私の脳波パターン、ニューロン発火パターンは正常な範疇に収まっており、転覆も座礁も、いずれの予兆も見られません。正常の範囲内です』

〈シェン・ルー〉の服の上では無数の光素系全覚文がビートを刻んでいました。少なくとも、バークのメタ視覚はそう捉えていました。

「何か感じたら教えてくれ」

 そのまま足を進めていると、クシーがもの言いたげな眼で自分にちらちらと視線をやっていることをバークは認識しました。

「何だ」

全脳エミュレータシェン・ルーを使う意義って何ですか」

 クシーはそう問いかけたあと、〈シェン・ルー〉の真顔にちらと目をやります。記号的なまでに標準的な顔立ちをして、不気味な程に平均的な表情を浮かべ、非人間的なまでに模範的な歩き方。――メタ知覚を通してその姿を見たクシーは表情を介してそう表明しました。

「マハ・ユールの過去二十四時間の観測領域に既存の有害全覚文はなかったことは、既に〈リュシャン〉が検査してくれていたでしょう」

 その表情と棘のある表現に、〈シェン・ルー〉が反応を示す様子はありません。〈シェン・ルー〉は確かにこの架空回想世界の刺激について、バークらとほぼ同じものを受容していますが、未知の全覚文の影響を最大限観測するため、バークら同行する捜査官の言動は基本的に受容しない設定になっているのです。つまり、〈シェン・ルー〉にはバークとクシーの会話は聞こえず、姿も見えません。ただ例外として、捜査官が〈シェン・ルー〉に話しかけたと〈リュシャン〉が判断したときのみ、全脳エミュレータ〈シェン・ルー〉のメタエミュレータが起動し、〈シェン・ルー〉のコピーとの会話を行うことができるのです。

 バークはすぐには答えませんでした。

「バークさん、マハ・ユールの話を真に受けたんですか」

「真に受けるも何も、犯人の観測領域の再現観測時に全脳エミュレータを同行させるのは常套手段だろう」

「常套⁉ 伝統! 慣習! 非統計的ノン・パシフィックな! 捜査方法まで原始的なんですね」

「原始犯罪専攻の学生には、全覚言語オールセンスの構成要素、すなわち全覚素たるものが何か分かってないようだな」

 バークは前を行くユールの背中に目を向けました。他性が訪れた店まではまだわずかに距離がありました。

「原始犯罪についてのフィールドワークのために原始犯罪課PCDのインターンに採用されたことは重々分かっているが、パシフィカにおける原始犯罪に占める有害全覚文が起因のそれは、実に七割を超える」

「費用対効果を考えろってことですか。確かに、七割超という数値はとても蠱惑的ですね。でも、全覚文はすべからく有害全覚文かのチェックを受けているはずでは?」

「そこが、自然言語ナチュラル全覚言語オールセンスの大きく異なる点だ。全覚言語は自然言語が主に用いていた音素フォニム書記素グラフィムのみならず、粒素パーティクリム波動素ウェイビム熱素ヒーティム勾配素グラディエンティム速素ヴェロシティム圧素プレッシャレム電素エレクトロニム磁素マグネティム……ありとあらゆる刺激が言語の構成要素――全覚素になりうる。これらの組み合わせによってつくられた全覚文は人間の脳内の既存モジュールにダイレクトに働きかけ、特定の脳波パターンを強制的に想起させる。多くの全覚言語を理解できるか否かは、ホモ・サピエンスの一般的な遺伝子を持っているか否かで決まる。それが、全覚言語が学習不要の言語と呼ばれる所以だ。

 けれども、同じ脳波パターンを生み出す全覚素の組み合わせがただ一通りとは限らない。多くの自然言語が同じ意味の文章を複数通りで表現できるように――たとえば能動態と受動態だ――全覚言語も同じ脳波パターンを複数通りで記述できる。だから、特定の表記法で表された有害全覚文を禁止にしても、別の表記法で表される可能性がある。全覚素の種類とそれぞれの多様性がもたらす組み合わせ爆発は手に負えないが、全脳エミュレータであれば、未知の表記法で記された有害全覚文を検知できる可能性がある」

「〈シェン・ルー〉は確か、存在が認知されているあらゆる全覚素とそれがもたらしうる脳波パターンを人工神経網ニューラルネットに学習させたものでしたっけ」

「ああ、だから、既知の全覚素の未知の組み合わせという未知の表記法で記された既知の全覚文は察知できる可能性は高いと言われている」

「生存バイアスは考慮できているんです?」

「してはいるみたいだが、影響を取り除けているかは疑問の声も多いようだ」

「なら、の全覚素はどうなんですか」

 間髪入れずに挟まれたクシーの問いに、バークは僅かに口角を上げました。

「残念ながら、全覚素表の空欄が残り幾つあるかすら分かっていない。パシフィカはきっと、既知の全覚素以上に、未知の全覚素で溢れてる。人の脳波に作用しうる音素フォニムだけで無限のパターンがあるのに、これだけの種類を持つ全覚素をどうしてすべて知り尽くせると思う?」

「なら、仮にマハ・ユールを殺人に駆り立てた未知有害全覚文があったとしたら、一体それをどうやって検出するんです?」

「〈シェン・ルー〉がリリースされた二〇六六年以前、どうやって全覚文を見つけていたと思う?」

「統計のマジックですね」

「そうだ、パシフィカに限らず、人間の周辺環境の構成要素の一つ一つが全覚素になりうる。その全覚素の分布パターンと人間の行動パターンを統計的に処理することで、未知の全覚文は姿を現す。こんな組み合わせの全覚素が発露している環境では、人の行動パターンが有意に変わる。だから、その組み合わせにはこういう効果がある――全覚文の評価AIのやろうとしていることと同じだよ」

「パシフィカ人のウナギ嫌いはそれで説明できるかもしれませんが、〈神はあなたの中にいる〉の生まれ変わりを私たちは目撃しているかもしれないんですよ」

カルトの好きにはさせないさ。PCDは全覚言語管理局(ASLA)と協働する。未知の全覚文と戦う術はいくらでもある」

そのとき、ユールが足を止めました。他性の視線の先には、仮想看板がありました。エデンという店です。

「風俗店ですね。原始的な欲を新奇のテクノロジーで満たす、歪んだ時代的齟齬が生んだ悲劇の斜陽産業。私はもう、涙なしには風俗店を見られませんよ」

 ユールの視線をなぞった後、クシーはわざとらしく言いました。

エデンはパシフィカに典型的なアンドロイド性風俗店でした。中に消えていくユールを追うようにクシーは足を前に踏み出しますがが、入り口の少し手前で見えない壁にぶつかりました。

「やっぱり、再現外ですね、プライベートエリアは」

「知っておくといいことをもう一つ教えておく、クシー準捜査官。パシフィカの原始犯罪の

 バークの言葉にクシーは顔を曇らせました。

「なら、どうやって検挙率百パーセントを?」

「〈リュシャン〉、A級権限だ。ユールの

 気を利かせた〈リュシャン〉はクシーにも聞こえるように言います。

『了解です。マハ・ユールの視界ログの権限を上書きオーバーライドします。ログに基づき、エデンの内部構造をレンダリングしました。再現率七十六パーセント。残部は複数の補完AIによる統合再現法により――』

「さすが警察、えげつないことする。だから未だに最悪の監視社会ってレッテルをプライバシー主義国から貼られるんですよ」

 クシーは他人事っぽく言いながら、見えない壁を透過したバークの後をついていきます。

 怪しげな紫色のネオン光に満たされた通路を抜けた先には円形の部屋がありました。その壁に沿うように、無数の仮想人体ホログラムが浮かんでいます。けれども、そのホログラムはやけに記号的で表情どころか性別すら不明瞭な構造をしていたのです。

 部屋の中心にマハ・ユールは佇んでいました。

『汝の望む性を与えよう』

 腹の奥に響くような重厚な声が響くと、仮想人体はくるくると回り始めました。その角速度は瞬く間に発散し、無数の重なり合った仮想人体の残像がやがて二体の新たな仮想人体を作り上げます。

 ユールの前にそれは具現化して降り立ちました。記号的で抽象的な仮想人体とは違って、本物の人間と見紛う程にリアリティに富んだ人物像です。一人は長身細見の男性ですが、乳房は女性のように膨らみ、陰茎はありません。対照的に、一方のふくよかな女性は少年のように平坦な胸ですが、一物を勃起させていました。

 それが、エデンのアルゴリズムが導き出したユールにとっての最適な交尾相手たちとのことでした。それらと共に、ユールはベッドルームへと繋がる部屋に消えていきました。

「最適な交尾相手って何ですかね」クシーはため息をこぼしました。

「オーガズムの得やすさ? 子孫の繁栄? 個人の幸福? 相手の別の性的パートナーの妨害? 目的関数を告げずに『最適』という言葉を使うAIより、サイコパスの方が信用できます」

「クシー準捜査官、風俗店の低級AIに噛み付くのはやめてくれ」

「知ってますか、バークさん。セックス・アンドロイドの開発元、ビヨンド・ヒューマン社はパシフィカ人を主要な顧客にしておきながら、従業員の九割は非パシフィカ人なんですよ。外資はパシフィカ人が何たるかを分かってない。非パシフィカ人の情緒的で感情的なAIデザインコンサルタントの話術に丸め込まれるからこんな非統計的ノン・パシフィックな時代遅れの話術で私たちを篭絡しようとして失敗してるんです。私たちの多くがまだ性欲を捨て去っていないからいいものの、ビジネスセンスの欠片もない――他性としてどう思いますか、バークさん」

「逆に斜陽産業だから金をかけていないとも思えるが……是非ビヨンド・ヒューマン社に就職してパシフィカ人を虜にする統計的パシフィックセックス・アンドロイドのソフトウェアをつくって欲しいものだ」

「私、原始犯罪学徒なんで、強姦専門にしますけどバークさんの趣味に合いますか?」

「そいつらを捕まえるのが趣味だから、そういう意味では合ってる」

「じゃあ早速、修羅場とやらに乗り込みますか」

 意気揚々と、クシーはユールの消えた部屋へと足を踏み出しました。


 およそ常人離れした他性の趣味にバークが閉口し、クシーが興味津々に観察している間、全脳エミュレータ〈シェン・ルー〉は実に二十一回もの絶頂を迎えました。ユールが受容したのとまったく同じ刺激を受けるように設定している以上、性的な刺激だけを対象外にするのはナンセンスというもの。言うなれば性素セクシムもまた、全覚素の候補にはなりうるのです。実際に、有害全覚文〈神に純潔を捧げよ〉はかつて、行きずりの相手を殺害に至らしめる事件を数多く起こしたことで猛威を振るいましたが、それがきっかけで、このように性的刺激がもたらす複合的な全覚素パターンは俗に性素セクシムと呼ばれています。

 無論〈シェン・ルー〉はそれも学習していますが、無表情のまま喘ぐばかりで、殺意を抱いた様子はありませんでした。少なくとも、バークの問いにコピーはそう答えました。実際に、〈エデン〉がもたらす性素セクシムのパターンを〈リュシャン〉に検索させると、ありとあらゆる性的趣味に対応しながらも、ピンポイントで〈神に純潔を捧げよ〉の構成要素であった性素セクシムは回避していたことが分かりました。

 ほのかに頬を上気させて退店するユールの後を再びバークとクシー、そして〈シェン・ルー〉は尾行していました。

 既に〈シェン・ルー〉の興奮は覚め止んでいたようで、象徴的な真顔を浮かべたままユールの足跡を正確になぞっています。

「どう、〈シェン・ルー〉? 今、欲しいものはある?」

 クシーが声のトーンを上げて聞きます。割り当てられた計算資源で〈シェン・ルー〉のメタエミュレータが起動し、そこまでの〈シェン・ルー=マスタ〉のニューロン網を確実にエミュレートした環境で、クシーの発話を処理します。

『温もり、深い闇、夢』

 クシーとバークに聞こえるように〈シェン・ルー=3〉が答えます。口を動かして応対する〈シェン・ルー=3〉のイメージはオリジナルのイメージの上に貼られていました。

 クシーはバークと顔を見合わせます。

『高い睡眠欲にかられている状態です。〈理性の声に耳を傾けよ〉が最大限機能し、マハ・ユールに眠気を催させているようです』

 上空のどこかから、クシーの〈リュシャン〉がフォローを入れました。

「果てて、そのまま気持ちよく眠らせることのどこが理性的パシフィックなんだか」

 クシーがぼそっと漏らしました。

「〈シェン・ルー=3〉、他にも聞きたいことがある」バークは聞こえなかった振りをしました。

「何か衝動を感じるか」

『ベッドにダイブしたいです』

「人を殺したいと感じるか」

『ベッドにダイブしたいです』

「その手にナイフがあったならどうする」

『ベッドにダイブします』

 バークは黙り込みました。〈シェン・ルー=3〉の上書きされたイメージは尚もマハ・ユールの足跡を正確に辿り続けていました。バークは一旦足を止め、自分の脇をゆっくりと行く〈シェン・ルー=3〉の表情を睨みました。

 そこには眠気を思わせる重そうな目蓋も、殺人衝動を思わせる血眼もありません。いつも通りの狂気的なまでの真顔だけがそこにあります。

「理性的な相手との会話って、まったく飽きませんよね」

 クシーは乾いた笑いをこぼしました。

「もういいんじゃないですか。〈シェン・ルー=3〉、シャットダウン」

〈シェン・ルー=3〉の真顔に亀裂が走り、殻のようにぺりぺりと表情が剥がれ落ちて、その中から全く代わり映えのしない〈シェン・ルー=マスタ〉の真顔が出てきました。

「気持ち悪いマトリョーシカ」

 その様子を気味悪そうにクシーが見つめる中、バークが彼女のアバタの肩を叩きました。

 バークの指さす方にクシーが目を向けると、仮想ネオン溢れる極夜帯と朝夕帯との境で、オートモービルに乗り込もうとするマハ・ユールの姿がありました。

「帰巣するみたいですね、私たちも追いましょう」

 クシーが指をぱちんと鳴らそうとしたそのとき、気を利かせた〈リュシャン〉が二人の目の前に三台のオートモービルを出現させました。

『どうぞお乗りください』

 声が降ってきた無機質な天蓋をクシーは睨みます。

「気の効いた素早い対応、まったく、あんたは最適な交尾相手サイコーよ、〈リュシャン〉」


 繁華街の極夜帯と対照的に、住宅街の朝夕帯は深海のように静かでうっすらと暗く、人目の少ないところでした。けれども、この都市はそういった環境に巣食い続けた機会犯罪という原始犯罪の一種を駆逐することに成功していました。

 その立役者こそ都市構造・交通流同時最適化準人システム〈ユイ〉です。

 様々な用途に分化した十メートル六方のモジュールがいくつも積み重なって、各レベルには死角のないフラクタル的な都市構造が築かれていました。更に、定期的にモジュールの位置が入れ替わることで、万人から都市の認知地図を奪いました。それこそ、犯罪者にとって重要なものなのです。都市のどこに何があるかも分からない空間で、機械犯罪を行うのは至難の業です。その代償に人は誰しも自宅近郊の角を曲がった先に何があるかも知らなくなりましたが、道案内AR、あるいは〈ユイ〉が管理するオートモービル群がそれを補っていました。

 それを補強する形で利用されていたものこそ全覚言語環境ASLEです。数多の全覚文たちは人間の行動パターンをより合理的で、理性的で、健康的なものへと変貌させます。

 この〈ユイ〉とASLEの相乗効果によって、このパシフィカという都市は監視都市北京も、選民都市シンガポールも、治療都市東京も遠く及ばない世界一犯罪の少ない都市となったのです。

 ここ朝夕帯では、無機質で直線的な白い路面と壁面と天蓋とを彩るのは、光素フォトニムを飲み込む程に仄暗く、勾配素グラディエンティム速素ヴェロシティムも入り込む余地のない程に静的な、宵闇色のグラデーションでした。多くの全覚文が息を潜め、通りには〈安らかに眠れ〉の単調な環境音のようなブルースだけがすり足で能を踊っています。

 時刻は間もなく夕五時半。夜組の起床時間には程早く、マハ・ユールのような遅くまで極夜帯にいた朝組がかすかに帰路を行くのみでした。

 ユールの乗ったオートモービルが交差点の脇で停車しました。そこに面するブロックには朝組の単身世帯向けの住宅モジュール群があり、ユールの個人情報データベースに登録されている住所もそこを示していました。

 しかし、ちょうど追ってきたバークたちがモービルを止めたとき、モービルを下車したユールは自宅の入り口へと顔を向けていませんでした。

 そのとき、〈安らかに眠れ〉の甘く単調なリズムがぱたんと止みます。そして星空を模した煌めきに代わり、天蓋に希望の光が流れ込み、どこかから鳥のさえずりが聞こえてきます。夜組を起床へと導く全覚文〈おはよう世界〉の発話が始まったのです。

「眠気は覚めた? 〈シェン・ルー〉」

 クシーの問いに応じて作られた〈シェン・ルー=4〉はやはり表情を変えずに答えます。

『耐え難い程ではありません』

けれども、バークの視界に写るマハ・ユールの表情はそれとはうってかわって血気づいていました。服越しに、収まっていたはずの〈アンドロエゴ〉が勃起しているのを彼のメタ視覚は捉えていたのです。

「〈シェン・ルー〉、性欲はどうだ」

『凪の海のようです』

 バークは口元を押さえました。〈シェン・ルー〉とユールの反応の差異を読み取ったクシーは小さく笑いました。

「やっぱり、全覚文の仕業ではなかったんですね。殺人はマハ・ユールの意志によるものであり、全覚文に責任をなすりつけたようとしていたに過ぎない。〈シェン・ルー〉、もうシャットダウンしておきましょうか」

「いいや、念のため、起動したままにしておけ。4はもういいが」

 それを受けて、クシーは〈シェン・ルー=4〉の肩をポンポンと叩きました。意図は〈リュシャン〉がよしなに読み取り、マトリョーシカの新たな皮を一枚剥ぎ取りました。

 一方のユールは一旦自宅に入って炭素ナイフを手に携えて戻ってくると、何かにとりつかれたかのように、自宅とは反対側へと路地を進んでいました。

「追いかけるぞ、クシー」

 自宅と反対側へと歩み始めるユールの後を二人と〈シェン・ルー〉は追います。既に、バークとクシーの両方の視界に、ユールより更に先を行くシャード・カルタリの背中が写っていました。心地よい酔いの最中にいた彼の歩みはややゆっくりで、早足のユールは少しずつ距離を詰めていきました。

 バークらもスピードを上げてユールに並びました。すぐにユールはカルタリに追い付きました。炭素ナイフを構え、カルタリの背中に照準を合わせます。〈ローレライ〉が計算資源に割り込んで、そのハープのような音色の第七禁文〈わたしと共に歌いましょう〉の発話を始めました。その音色はユールの内耳から染みわたり、その運動神経を一時的に麻痺させる――はずでした。

 けれども、それが弾みになったかのように、ユールはすっと腕を突き出しました。黒光りする炭素ナイフは軽々とカルタリの実服を貫いて、するりと彼の体内に飲まれました。

「〈ローレライ〉は起動していたのか……」

 バークは声を震わせました。

「みたいですね」クシーが答えます。

「全覚文失読症じゃないですか」

 炭素ナイフが抜けて血が噴水のように湧き出るのと同時に、ユールは体をびくんと震わせました。押し寄せる擬似射精の快楽の波がユールを揺さぶっているようです。その波に身を委ねるようにして、何度も何度もカルタリにナイフを突き立てました。そしてその度に神経を伝う電荷の大波がユールを何度も転覆させていたのです。

 永久の絶頂に身を預けたユールはやがて路面に崩れ落ちました。実服を彩る仮想柄も、スキンヘッドの頭部を覆う仮想髪も消え、真っ白な服に身を包んだユールは真っ白な路面に同化しました。そして故障した〈アンドロエゴ〉が脳に送る絶頂を意味する神経伝達物質言語に、現実のバークらが訪れるまでいじられることになったのです。


 その様子を傍目にしていたクシーは仮想再現世界の終了間際、未だ無表情で現場を見下ろす〈シェン・ルー〉に訊きました。

「二十一回も絶頂を迎えて、どんな気分?」

「いいえ、二十二回です」〈シェン・ルー=5〉は答えました。

 クシーはわずかに首を傾げながら、それ以上は追求しませんでした。一と二の相対差は大きいですが、絶対差は同じなれど二十一と二十二の相対差は小さいのです。

 バークの声と共に、仮想再現世界の殻にぺりぺりと亀裂が走ります。その殻の内側にいるクシーにとって、それは世界が粉々になることと同じです。その亀裂の雪崩はたちまちバークたちを飲み込みました。

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