アイデンシティ

瀧本無知

Part 1

Chapter 1

ケース1

「君の使命は何だい?」

 私の使命は、犯罪のない理想の都市となることです。


 * * *


 レベルHの極夜帯F4区の繁華街を、推定男性と友人二名は歩いていました。明日は休暇日です。〈理性の声に耳を傾けよ〉――そんなフレーズも彼らの耳には届きません。〈一夜の夢に耽りなさい〉。波打つ重低音の甘い囁きフォニムが、目を刺す仮想ネオン光フォトニムが、彼らを饗宴へと駆り立てたのです。

 けれども、甘美な宴もいつかは終わるもの。三時間も経つ頃には、友人二人はすっかり酔いの醒めたすっきりとした表情で、オートモービルの配送を〈リュシャン〉に依頼しようとしていました。〈理性の声に耳を傾けよ〉。彼らの脳はすっかりそれを受話していました。

「〈リュシャン〉」

 一人がレベルHの天蓋に広がる闇に向かって指向声をかけました。たちまち計算資源リソースの一部が割り当てられて起動アクティベートした統合情報解析セクレタリー準人AI〈リュシャン〉は周囲の映像記録、音声記録から遡って文脈解析AIを走らせました。

『〈ユイ〉にオートモービル三機を依頼しました。しかし、一名のID照合ができません。IDまたはお名前を』

 その一名が推定男性のことを指しているのに、友人二名はすぐに気が付きました。

「お前、まだ非認可のオフライン機器使ってるのかよ」

 一人が茶化すと、もう一人は尚も〈リュシャン〉に語り掛けます。

「ID照合できなくても画像認識で何とかなるんじゃないか」

『輪郭が不明瞭のため、画像解析に失敗します』

〈リュシャン〉に語り掛けた方の友人は推定男性の実服の裾を掴み、そこに浮かび上がる、淡いグラデーションの抽象的な仮想柄に目を凝らしました。

「これ、例のエイワ・ベックってクリエイターの柄か。道理で」

「いいや、これは俺が作った」

 今度は、〈リュシャン〉が推定男性の耳にダイレクトに名乗るよう声をかけました。

「俺が誰だろうが関係ないだろう!」

 すかさず推定男性が吠えて応酬します。それを見た友人二人は顔を見合わせました。

「酩酊するってどんな気分なんだろうな」

「兄妹揃って二十人の一人の特異体質とはねえ。〈理性〉の声が聞こえないってのも、羨ましいような羨ましくないような」

「〈理性〉とやらの声は聞こえるさ! 今もがんがん耳元で響いてやがる」

「〈理性〉の構成素に音素フォニムはないだろう?」

 そのとき、人間関係の分析に長けたAIの一体は、推定男性がシャード・カルタリという二十六歳男性であるということを主張し始めました。素性の割れている友人二名とこのような関係性を持ちうる相手のうち、所在地照合ができないのがカルタリだけだったのです。

 その推定カルタリの吐息から基準値を大幅に超過したアルコール系粒素パーティクリムエタノールを検知器が検出すると、それを受け取った発話AIたちは推定カルタリをターゲットに更なる発話を畳みかけていきます。〈理性の声に耳を傾けよ〉。

 光素フォトニムとその時間変化――いわゆる速素ヴェロシティムの複合全覚文である〈理性の声に耳を傾けよ〉が、人々の例えるところの「天使の柱」あるいは「虹色の穿孔多面体」が空から推定カルタリ目掛けて降り注ぎます。けれども、カルタリは視神経に流れ込むその光を煩わしそうに振り払うだけでした。

 推定カルタリはふらつきました。友人らはそれを支えながら、オートモービルの待機場所まで推定カルタリを運んでいきます。道中、友人の一人が大丈夫かカルタリと声をかけました。推定に誤りはなかったようです。

 シートの備え付けられた台車を腰ほどの高さのフェンスで囲んでいるだけの簡素な標準オートモービルが三台停車しました。友人たちは文句を垂れるカルタリをようやくオートモービルの一つに押し込めました。

「今でも、他の国ではこんな光景が日常茶飯事なんだろう?」友人の一人が大きく息を吐きました。

「そして、往々にしてこの『酔っ払い』は事件に巻き込まれる――が、ここは何たってパシフィカだ」

「ああ、犯罪のほとんどない理想都市。なのに、俺たちは〈理性〉のせいで酔いつぶれることだってできやしない。まったく、こいつが羨ましいよ」

 そう言って、二人はカルタリの乗ったオートモービルのドアを閉めました。

 そして三台のオートモービルは別々の道へと分かれて散りました。


 夕五時三十分ちょうど、メラトニンの分泌を促す〈安らかに眠れ〉の甘く優しい旋律に代わって、その分泌を抑制する〈おはよう世界〉が発話を始めます。

 朝夕帯に属するレベルHのP7区の通りは、たちまち朗らかで爽やかな鳥たちの歌声で満ち溢れ、朝日のように希望を抱かせる温かな光が広がっていきます。夜組が住まう居住モジュールの全覚ブラインドは自動的に上がり、その音素フォニム光素フォトニムとが人々の脳に直接染み込んで渡ります。

 彼らは爽快な目覚めを迎えていました。頭はすっきりと透き通り、体は軽く、前向きな感情が彼らの脳内を迸っていることでしょう。

 ある者は言っています。今日もがんばろう。

 別の者は言っています。心地の良い朝がやってきた。

 また別の者が言っています。おはよう、すばらしきこの世界。

 その輝ける朝を彩る鳥の歌声が浮かんでは消える街路を、シャード・カルタリは歩いていました。〈理性〉の導きを受けられない彼ですが、酔い覚ましのために少し歩こうと思ったのでしょう。彼は自宅から一ブロック程離れたところでオートモービルを下車していました。〈ユイ〉も彼の〈リュシャン〉もそれを認め、オートモービルのドアロックを解除していたのです。

 しかし、足取りはだいぶまっすぐに戻っていたとはいえ、適正量を超えるアルコール系粒素パーティクリムエタノールの摂取は間違いなく認知能力の一時的低下を催していました。そして、それが回復するまでの時間はありませんでした。だからこそ、背後から近づく三十歳の他性マハ・ユールの足音に、彼は最後まで気が付かなかったのです。

 ユールもまた、朝組の住人で、同じく極夜帯で一時の快楽に耽っていました。ユールは他性ながら、外性器としてビヨンド・ヒューマン社の〈アンドロエゴ〉を装着していました。他性が立ち寄った店の内部はプライベートエリアのために行為プレイの詳細ログはセックス・アンドロイドの開発元のデータベースにしかないものの、ユールはそのとき人工外性器を男性器あるいは女性器あるいは両性器に変形させて、セックス・アンドロイドたちと楽しんでいたことは間違いないでしょう。

 ユールは事を終えた後、オートモービルに乗って自宅の居住モジュールのあるこの朝夕帯に戻ってきていました。自宅の前にオートモービルを横づけにした際、その〈スマート・アイ〉の視界には確かに角地でオートモービルから降りるカルタリの姿が写っていました。カルタリの姿が周辺視野から中心部に移動していたことから、ユールがカルタリの姿を認識していたことは明らかだったのです。

 ちょうどその時、〈安らかに眠れ〉の甘い旋律が止みました。ユールの視線の動きも止まります。五秒程、ユールの視線は遠ざかり行くカルタリの背中に注がれていました。〈おはよう世界〉が間もなく発話され、鳥のさえずりがスタッカートのようにユールの耳を突いては離れていきます。そしてほのかに朝焼けを想起させる暖色の光が通りを満たしていきました。

 それとほぼ同時刻、ユールの血中を遊泳する健康状態モニタリングナノマシンが脈と心拍と、それから〈アンドロエゴ〉にかかる血圧の上昇を記録していました。一般的には、性欲のサインと呼ばれるものです。

 ユールはオートモービルを去らせると、いったん、自宅に入りました。三十秒と経たずして出てきた他性の腕には黒光りする炭素ナイフが握られていました。他性はカルタリの後をつけ始めました。すかさず〈理性と共にあらんことを〉がユールの性欲の上昇を感知して、ユールの帰宅意欲を高めるためのネオンパターンをその〈スマート・アイ〉に投影させました。しかし、それは却ってユールの歩調を強めることになりました。

 認知能力が低下していたカルタリは背後から迫る気配に気づくことはありませんでした。朝の光と、鳥のさえずりと、視界に降り注ぐ天使の柱とがカルタリの世界のすべてでした。

 ユールは小走りで一気にカルタリに近づき、その背中にナイフを突き立てたのです。


 パシフィカンの主流ファッションは実服と呼ばれる真っ白な衣服の上に柄をAR表示させるというものです。彼らは皆パステルカラーに代表される淡い色を好む傾向にありました。それらの色はクリーンな印象を想起させ、心身の安定と社会の安寧をもたらす波動素ウェイビムであり、そして平和のシンボルでもあるのです。

 だからこそ、停車した二連結オートモービルから下車した二人が身にまとう、立襟型の黒色実服は純白の路面、純白の壁面、淡い空色の天蓋の中で一際浮いていました。

 けれども、二人の視線の先にいる野次馬たちは誰一人、彼らに気が付きませんでした。それよりも興味深い光景に意識を奪われていたのです。

「バークさん」二人のうち、背の低い方、ダイエル・クシー準捜査官が声を上げました。

「外れ値への鋭敏性過剰は統計学が必修になったことの弊害だと思いますか」

 クシーは面倒くさそうに息を吐きます。一ヶ月前に正式に原始犯罪課PCDの準捜査官となった彼女にとって、原始犯罪の発露現場に群がる野次馬を生で見るのは初めてのことでした。そんな彼女が野次馬の精神状態をリテラシーと結びつけたのはごく自然な推論だったと言えるでしょう。

「いいや、逆だ」もう一人の黒服、エン・バーク捜査官は表情を崩さずに答えます。

「十分な統計リテラシーを身に付けていない非国民がパシフィカにはまだまだいることを、彼ら自身が身を以て証明してくれている」

 バークとクシーは人込みをかき分けてその中心部へと向かおうとしたものの、人の壁は厚く彼らの行く手を阻みました。

「こうなると〈縄張り〉も意味を成しませんね。バークさん、全覚言語環境ASLEにオーバーライドしなくていいんですか」

「既に接続申請中だ」

 振り返ったクシーの〈スマート・アイ〉は、バークが天蓋に向かって話しかける様子を捉えていました。

「〈リュシャン〉、第三禁文〈次はお前だ〉の発話許可の申請を」

『了解』

 間もなく、周辺街区の計算資源の一部がバークの手に明け渡されました。受理の旨がバークの〈スマート・イヤー〉を介して、〈リュシャン〉の声で直接聴神経に流れ込みます。

「クシー、〈次はお前だ〉をのは初めてか?」

「それが有害全覚文指定されたの何年でしたっけ」

「二〇四九年だ」

「私の親が言ってました。二歳の私が初めて発した言葉はママでもパパでもララでもなく、『次はお前だ』って」

「物騒な元二歳児さんは錐体はいくつ持っている?」

「お目目二つぶんくらいですね」

「十分だ。〈インフラレッド〉にチューニングしてくれ」

「もしかして小学生の遊び道具のこと言ってるんですか。しかし、本当に波動素ウェイビム赤外線インフラレッドを使ってるとは」

 目の色を文字通り変えながらクシーは息を吐きます。彼女の瞳の中で人工錐体がその構造を変化させ、可視領域を赤方に拡張させていきます。

 完了後、周囲をクシーは見回しますが、クシーの視覚野が捉えた視界の色調は今までと何ら変わりはなかったようです。

波動素ウェイビムに赤外線なんて使ったが最後、センサ会社からの訴訟状の海に沈められますよ」

「だから〈次はお前だ〉が有害全覚文に指定されたのと同時期、全覚文の波動素ウェイビムとして赤外線を使うことは禁止された。もっとも、公安権限のない限り、ではあるが。それで、チューニングは?」

「とっくに終わってますよ。私、これの可視領域調整も〈リュシャン〉とリンクさせてるんで」

 クシーは自らの借り物の眼を指さしながらはにかみました。

「分かった。血の雨が降り注ぐ様を意識して見ておくことだ。が有害たる所以がすぐにわかる」

 バークは自分の右耳の後ろをパチンを叩きました。

 すると交差点周辺領域に跋扈していた全覚文のうち、まず民間の発話AIによるものが黙殺されました。公安任務中のバークとクシーは元々その対象から外されていますが、野次馬の世界で光り、鳴り響き、匂い、うねり、移ろう数多の全覚文たちは彼らの世界から消え去っていきました。そして空いた計算資源がすべて〈次はお前だ〉に回されるのです。

 その発話と共に、野次馬たちの人工感覚器官や拡張感覚デバイスに渡される刺激に変化が生じました。抽象的な旋律が環境音に混じって彼らの耳に流れ込みます。さらに、使われなくなって久しい、天蓋の電磁波照射器から赤外線インフラレッドの雨が野次馬の頭上に降り注いだのです。

 血の雨を、可視領域を拡張したクシーの〈スマート・アイ〉は確かに捉えていました。

 一方、野次馬たちの脳内では強烈なイメージが弾けていました。

 開けたサバンナ。共に狩りに出る同じ部族バンドの男たち。捕らえた獲物。横取りを狙う猛獣の群れ。飛び交う悲鳴、血。向けられる無数の冷たい瞳ツギハオマエダ

 次の瞬間には野次馬たちは一目散に逃げ出しました。バークやクシーの黒服など気にも留めず、まるで、そう、次に殺されるのは自分だと悟ったかのように。

「人間ってこんな顔するんですね」

 顔を歪め、唾を吐き散らしながら遠い目で血の雨から去り行く人々の表情を冷静に観察していたクシーがこぼしました。

「バークさん、随分と野蛮な全覚文じゃないですか、これ。扁桃核をダイレクトに刺激するなんて、まったく卑猥極まりない」

「古い全覚文の多くは効果が弱かったり、可読率が低かったりする。だが、当時の全覚言語環境はあまりに未熟過ぎた。強力過ぎて、人を破壊しかねない全覚文も多く生み出された」

「そしてその諸刃の剣を、今や警察だけが正義の名の元に振りかざす権利を持っていると」

「クシー」バークは声を固くしました。

「パブリックエリアでの発言はすべて録音されている。それ以上批判的な物言いをしたら、私も庇えない」

 それは間違いないでしょう。

「バーク捜査官。パブリックエリアは全覚言語で満ち溢れています。この発言は私の意志ではありません。全覚文たちが、周辺環境が、私の口を借りて言っただけです。それに、私の発現を何かの批判に捉えたとしたならば、バークさんこそ、心の中ではそう思ってるってことじゃないですか」

 バークは首を横に振って後頭部を掻きました。

「たしなめようとしたのも、私の意志じゃない」

 クシーはにんまりと白い歯を見せました。「私の勝ちみたいですね」

「しかしまあ、たかが人払いに〈次はお前だ〉を使うなんて、PCDも原始的な手法を好みますね。課の名称に〝原始〟ってワードが入っているからですか」

「〈次はお前だ〉の可読率は九十八パーセントを超えている。全覚文としての最高記録だ。多くの失読者にも効果がある。しかも即効性も高いのだから、これに勝るものはない」

 バークとクシーは歩き出しました。既に野次馬たちは散開していて、その中心にあったものが露になっていました。

 交差点の真ん中に二人の人間が倒れていました。

 その一人の真下には赤い水たまりがありました。それを知覚したクシーはまだ赤外線を見ているのかと考えたのでしょう。それを察知した統合秘書AI〈リュシャン〉は彼女の人工内耳を介して言いました。

『既に、可視領域モードはデフォルトの〈ヒューマン〉に設定済みですよ、ダイエル』

 赤い水たまりを構成していたのは、本物の人間の血でした。


 倒れていた二人の人間のうち、赤い水たまりに浮かんでいなかった方は生きていました。その人物は三十歳の他性で、バークらが見つけた時には失神状態にありました。しかし、少年のような華奢な体格に不釣り合いな程に勃起した人工外性器〈アンドロエゴ〉が脈打ちながらどくどくと白濁した生理食塩水を吐き出し続けていたのが実服越しも見ることができます。白い路面にはうっすらと白い水たまりができていました。

 間もなく他性は意識を取り戻し、見下ろすバークとクシーを見つけると、自分の下半身がびしょぬれになっていたことなどお構いなしに叫びました。

「水をください!」

 どういう訳か、〈アンドロエゴ〉の射精機構が故障し、ユールの体内の水分を排出し続けていたようでした。たっぷりと一リットルの経口補水液を飲み終えたユールはようやく自分の下半身の状態に気づいたらしく、股間を隠すように丸まって座りました。さらに、仮想アクセサリの設定がすべて解除され、仮想髪のない坊主頭とカラーパターンのない白色の実服を晒していることにも気づき、慌てて再設定をしました。ライムグリーンのボブヘアが他性の丸顔を包み込み、実服の白色のキャンパスにライトイエローが一面塗られ、うっすらと三重螺旋が走ると、男性とも女性とも似つかぬいかにも典型的な他性の出で立ちとなりました。

〈アンドロエゴ〉の暴走も落ち着いた他性はマハ・ユールと名乗りました。反抗的な態度を取る素振りもなく、「お話を聞かせてもらってもいいですか」というクシーの問いに頷きます。

ユールは間もなく脇にあった刺殺死体に気が付きましたが、取り乱すことはありませんでした。

「彼は私が殺したんですね」

 変声期の最中のようなハスキーボイスで、ユールは歯噛みしながら言いました。

「覚えていないのか」

 バークが訊くと、ユールは静かに首を振りました。

「覚えています。はっきりと」

「殺意があったのか」

 ユールはすぐには答えません。両足の合間に顔を埋めるようにして丸まります。しばらくの静寂を挟んでから、嗚咽混じりの声で他性は言いました。

「私は何故、名も知らぬ男性を殺したのでしょう」

「殺意があったのではないと?」

 バークが首を傾げると、ユールは顔を上げてバークの目を見返しました。その目が充血しているのをバークは見ました。

「私には彼を殺さなければいけない理由はありません」

「どうやって殺したか覚えてるか?」

「はい」

「何故殺した?」

「分かりません」

 ユールは即答しました。バークはクシーの目を見やってから舌を軽く噛んで声の指向性を絞り、クシーだけに聞こえるように言います。

『やってみるか、クシー』

頷いたクシーは前に出て殺人者の目の前まで行くと、片膝をついてユールの瞳を覗き込みました。

「刺したとき、あなたは何を感じていましたか?」

 ユールはクシーの目をまっすぐと見返しました。クシーはそっと視線を下ろして、まだかすかに勃起している〈アンドロエゴ〉を見やります。

ユールは足を閉じてそれを隠しましたが、既にバークは第六禁文〈汝の罪を告白せよ〉の発話許可申請を出していました。床面の電磁石がもたらす磁素マグネティムがユールから沈黙を奪いました。

「ただただ、気持ちよかったんです。セックス・アンドロイドたちとの倒錯的なプレイですら味わえない感覚でした。それはまるで非情な男性が若い女性をレイプしているかのような、中世の貴族が凄惨な処刑を娯楽として楽しんでいるかのような、。いや、背徳感では説明がつきません。その快楽を名状する言葉を私も――言語補完AIも見つけられません。ただただ、私は耐え難い快楽の波に溺れていました」

「それで人を刺しながら射精してたと」クシーがけたけたと笑いました。

「セックス・アンドロイドたちともそうやって愉しむんですか」

「違います! そこまで常人離れした趣味はありません」 

『地雷を踏む気か、クシー準捜査官』

 クシーの背中に閉じたバークの指向声が突き刺さりました。それは脊髄から運動神経を遡ってクシーの聴覚野にまっすぐと駆けて、クシーの口を閉じさせます。他性の性スタイルの多様さは二大性のそれとは比になりません。何がその他性にとって地雷セクハラになるかは個人差が大きいのです。

『バークさんに言われたら、何も言えませんね』

 クシーは指向声で答えました。

「何故人を刺そうと思ったんだ?」

 今度はバークの開放声があたりに拡散します。

「分かりません。本当に分からないんです。確かに、これまで感じたことのない絶頂の最中に私はいました。けれども、人を刺殺することでそんな歓びを得られるとは思いもしなかったし、考えたこともなかった。何かの間違いです!」

 バークとクシーは顔を見合わせました。

 何かの間違い――それこそ何かの間違いだと、二人して目で頷きあっていました。そう、これは何かの間違いなのです。

「……全覚言語環境ASLEを、調べていただけませんか」

「何て言った?」

 バークは眉間にしわを寄せました。彼の〈スマート・イヤー〉に搭載された会話補完機能は、ユールの発言を確かなものとしてバークに聞かせていました。ただ単純に、バークにはその意図が理解できなかったのでしょう。

「有害全覚文がまだ隠れていると言うつもりか、マハ・ユール」

「二十数年前もあったじゃないですか。〈隣人は知っている〉、〈神はあなたの中にいる〉。無垢な人々を殺人犯に仕立て上げた最強最悪の有害全覚文」

合理的パシフィックな物言いをしてくれないか。社会に害を及ぼす有害全覚文はすべからく禁止された。それらを生み出しうる構成素パターンの使用は禁止され、全覚言語管理局ASLAの職員とAIによって厳重に監視されている」

「でも、有害全覚文は絶滅した訳じゃない」

「何が言いたい」

「現にあなた方警察は、司法の名のもとに有害全覚文を使ってる」

 ユールは周囲を見渡しました。他性の視界にはバークとクシー以外の人の姿が目に入りませんでした。

「人払いに使ったんですね、〈縄張り〉――いや、〈次はお前だ〉を」

「特定状況下での使用が許可されている有害全覚文九種はいずれも殺人衝動を上昇させる効果は認められていない。エビデンスならいくらでもくれてやる」

 バークは頭頂部に指をあて、そこから中身を引き出すように腕を引きます。クシーとユールの視界には、バークの指に引っ張られるようにして九つの半透明の球体が出てくるのが見えました。その仮想球はバークの周囲を飛び交いながらやがてドキュメントファイルの形に変形します。それらはいずれもASLAのまとめた有害全覚文のレポートです。

「分かってます」

 ユールはライムグリーンの仮想髪を横に振りました。そこから拒否リジェクトの意を読み取ったバークの〈リュシャン〉はバークにだけ見える九つの腕を地面から生やして、九つのドキュメントを鷲掴みにし、地面に埋めました。

「でも、これは、この事件は、このは、私自身の意志とは無関係なんです」

 心の奥底から絞り出すような声にバークは言葉に詰まりました。ユールのその言動はおよそ統計的パシフィックとは言えず、統計人パシフィカンたるバークの意表を突いた形になりました。

「残念ですが」間を埋めたのはクシーです。

「有害全覚文が原因と思われる殺人事件はここ十四年間。ここパシフィカで起こる殺人のすべては、犯人が、明確な殺意を持って捨て身で決行したものです」

「でも、見ず知らずの者を殺した事件はないでしょう?」

 クシーがバークを見やったときには、バークの〈リュシャン〉は既に検索を終えていて、その情報を想起したのと同じ発火パターンをバークの脳に引き起こしていました。

「残念だが、七件に一件は被害者と加害者に面識がない。それらの事件のほとんどは、誰かを殺すことに犯人は意図を見出していた」

「私もそうだと?」ユールはバークに向かって吠えました。

「これは断じて私の意志ではない!」

バークの〈リュシャン〉に搭載されていた感情測定機能が閾値の超過をバークの〈スマート・イヤー〉に告げました。それと、天井から原始犯罪制圧準人システム〈ローレライ〉の産声が辺りに響きます。

「今の歌を聞いただろう、マハ・ユール」

 バークは広げた手をつき出した、ユールを鎮めようとしました。

「〈ローレライ〉が起動アクティベートした。これこそ、我々PCDの意志とは無関係に動く。どうか落ち着いてくれ」 

「私は犯人じゃない!」

 ユールは尚も吠えました。バークの声は届いていません。

 そのとき、あたりにハープのような遠くまで伸びる曲線的で青い旋律が路面からそっと立ち上りました。〈ローレライ〉が第七禁文〈わたしと共に歌いましょう〉を発話させたのです。

 不可視の波動素ウェイビムの、刻みゆく履歴素ヒストレムと繰り返す反復素イテレイショニムとがユールの脳髄を揺さぶり、瞬く間にニューロンネットワークを転覆させました。

 カクリ、とユールは体を硬直させました。一部の運動神経が選択的に麻痺させられたのです。意識を失うまでの数秒間、ユールは辛うじて自由を保っていた声帯の筋肉と頬の筋肉に繋がる運動神経を動かしました。

 声はかすれて、まともに聞こえるものではありませんでした。ただ、バークの〈スマート・アイ〉はその読唇機能で、自動的にユールの紡ごうとした言葉を読み取り、バークに聞かせていました。


 真犯人を、捕まえて――。

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