ある精霊の話

*本編より過去の話がメインです。本編ネタバレ要素有&未読の場合、意味がわからないところが多いかと思いますのでお気をつけください。*


 


 鬱蒼とした森に男は足を踏み入れた。風もないくせに、ざわざわと木々が体を揺らして、薄暗く、太陽の光すらも届かない。ひどく不思議な森だった。オオ、オオ、オオ……。まるで地響きのように、“何か”が彼を拒んでいた。ぴたり、と男は足を止めた。周囲を見回し、首を傾げて、それでも恐れ知らずに進んでいく。


 そこは精霊の地と呼ばれる場所だ。男は短く乱雑に切った髪の毛をぼりぼりと引っ掻いた。ひどく恐ろしい森で、誰も震えて近寄らない。彼の馬でさえも先に進むことを拒んで、嫌がり体をねじったから、紐をかけて置いてきた。

 腰元に剣をさしてはいたが、特に使う予定もなく落ち葉を踏み分け、狂った季節の森を歩く。ざしざしと足音が響いていた。


 枝をかき分け進むと、美しい湖が見えた。月明かりにきらきらと輝いているそこには、一人の女がいた。菫色の瞳をして、水面にまでこぼれた桃色の髪を持つ女だ。薄い布をまとっていて、きらめく女はあまりにも美しかった。


 男は思わず口をへの字口にしながら眉をひそめた。ざわざわとうねるような木々の声が大きくなる。まるで嵐のように森が怒り狂っているようだった。女は湖の真ん中にじっと立ちながら、無表情に男を見ていた。奇妙な沈黙があった。「ああ、うん……」 熊のような男は鼻をひっかいて、視線をきょろつかせた。それから頭の後ろをひっかいた。


「嬢ちゃん、あんたもしかして、噂の精霊様か?」


 想像よりも可愛いから驚いた、と苦笑しながら彼女に声をかけたとき。「人間!!!」 女は叫んだ。「出ていけ! 消え失せろ!!!」


 張り裂けんばかりの声だった。ごうごうと風が鳴り響き、「うわっぷ」と男がまるで溺れるように息を吸い込み、ふらついていた。「こりゃすげえ」 しかしなんてこともないようにぼさぼさになった頭をそのままに笑っていた。


 それが、彼と彼女の出会いであった。ルピナスは、ただの四枚羽の妖精の姿で、その熊のような男は気づきもしなかったけれど、たしかにいた。多くの仲間と共に、出ていけと叫び、友人のため、彼を排除しようとした。


 湖に立つ女の名前は、ブロワリア。力のある精霊であったが、見目麗しい金髪の男に騙された、哀れな精霊であった。




 ***




 その森は、誰も足を踏み入れてはいけない。古くからの言い伝えであったはずなのに、面白半分に足を踏み入れ、女を騙した男がいた。彼は彼女を精霊と知らず口説き、一夜を過ごした。そして、精霊と知るや否や逃げ出し、呪いを受けた。


 その事実をジューニョ家は必死に隠し通した。だから、周囲の人々は彼の呪いまでは知りはしなかったが、あの放蕩息子が森から戻ってくるや否や、大人しく口を閉ざし、ときおりベッドの中で震えていると知り、やはり森は恐ろしい精霊が住んでいるのだと口々に噂した。いや、もしかすると魔物かもしれない。近づいてはいけないと恐れる人々の中で、それならば調査に出向いてやろうとやってきたのがこの男だ。


 黒目黒髪の、大きな熊のような体の男は各地を旅する冒険者だ。よく鍛えられた体躯を持ち、いつでもげらげらと笑って、どれだけブロワリアが叫ぼうとも、腰の剣に手を伸ばすこともなく、「いよう、久しぶり」と片手を上げた。


「もう来ないでって言ったでしょ!?」

「いやな、街で菓子を見つけたんだわ。こりゃもう来るしかねえと」

「意味がわからないわ!?」


 自由な男だった。

 人間には精霊の姿しか見ることができない。妖精たちができることは、ただ瞳を吊り上げ、恐ろしい森を作り上げることだけだ。ブロワリアは男が来ると、いつも背を向けていた。人に騙された記憶は消えず、排除しようにも力はすべてジューニョ家の男に使ってしまったものだから何もできない。でもそんなこと、熊のようなこの男は知らない。


 恐れ知らずな男は、時折森を訪ねてはその背に向かって話しかけ、「そんなら仕方ねえ」とぼろぼろと菓子を零しながら口にいれた。「ちょっと、汚いんだけど!?」 ブロワリアが叫んで振り返れば、男は少しばかり瞳を見開いて、にかっと笑うものだから、彼女は慌てて肩を怒らせながらもそっぽを向いた。後ろからはいつも適当な謝罪な謝罪と笑い声ばかりが聞こえていた。


 巡る季節の中でも、森は変わらず花が咲き、落ち葉は枯れ、蝶は飛び立ち羽根を揺らした。こぼれた花弁は色とりどりに湖を敷き詰め波紋を作り出し、狂った季節の中に女はいた。森の中にいると、外の季節はわからない。だから時間なんて、あってないようなもので、辛い記憶は長く続いた。なのに男の来訪はブロワリアに日々を教えた。


 大雑把で、無礼で、小綺麗さなんてどこにもなくて、黒髪の頭はいつだってぐしゃぐしゃだ。どれだけ妖精達が脅しても、ブロワリアが怒ってもげらげらと男は大口を開けるばかりで、入り口で恐れていた彼の馬でさえも、そのうち堂々と森の中に入ってくるようになってしまった。


「なあ、俺にはよくわからんのだが、最近は、茶というものが流行っているらしい。あんたも水ばっかり飲んでないで、たまにはどうだ?」

「飲んでないわよ! 私は植物の精だからここにいるだけ! きいてる!? ちょっと、勝手にくむのはやめてくれない!?」

「うんめえ!」

「そして飲むな!!!」


 まあ、喧嘩をしてばかりであったが。美しい男に裏切られたばかりの彼女は、ただでさえ白い肌を、真っ白にさせて、湖の頭にぽっかりと空いた空の月ばかりを見上げていた。なのに今では背中を向けながらも、頬を真っ赤にさせて怒っている。多くの妖精とともに、ルピナスは静かに彼らを見守っていた。


 あるとき、ブロワリアは一つの花を生み出した。彼があまりにも彼女を敬わなくて、精霊として扱わないものだから、見返してやろうと思ったのだ。呪いの力は使い切ってしまっていたが、彼女は植物の精霊だったから、その程度はお手の物だ。一夜にして咲き誇り枯れてしまう真っ青な、棘のないバラのようなその花を、すっかり湖が埋まってしまうほどに生み出し、巻き上がる風の中で、視界をいっぺんに染めてみせた。


 どうだ、とブロワリアは口の端をひっそりと上げて、背中越しにほんのちょっと振り向いてみせた。さぞ驚いているだろうと思ったのだ。

 男は呆然としていた。美しさなど、てんで理解ができないような粗野な男だったのに、彼は大きく息を飲み込み、吐き出した。そして手放しでブロワリアを褒めた。彼女は背中を向けたまま、頬を真っ赤にした。それはいつもと少し違った。


 怒って、眉を吊り上げて、背中ばかりを向けていた女と、熊のような男は、いつしか背中合わせに座り込むようになった。彼女は湖に足をいれて、男は地面に座り込んで。大きな背中に、ぽつんと小さな背を持たれかけた。頭の上では、鬱蒼と茂る森がそこだけぽっかりと穴を開けて、お月さまが覗いている。


「あんた、美人だなあ」


 初めて会ったときにそう思った、という言葉には辟易した。美しいと言われて逃げてしまわれた記憶を蘇らせたからだ。


「私は人じゃないから、その言葉はおかしいわ」


 つん、と言葉を尖らせたのに、やっぱり男は笑っていた。顔を見せてくれ、と言われてもブロワリアはずっと彼の背中を向けた。黒髪のその男は、まあいいか、と口元を笑わせた。


「いいよ、あんたが、どう他の男に騙されたか知らねえけど。俺はあんたと、こうして背中をくっつけることができたらそれでいい」


 どんどんと、背中が暖かくなった。男の言葉が、胸の中を柔らかくして、自分でも、どうすればいいのか分からなくなっていた。だからぎゅっと体を丸めるように小さくして、ぽちゃりと湖に沈み込んだ自身の足を見下ろした。「なあ、やっぱりちょっと、見てもいいか?」 その言葉にブロワリアがどう答えたのか。それは妖精たちだって知らない。みんな耳を塞いで、ぎゅっと目を閉じて隠れていた。それは二人きりの物語だと思ったからだ。


 でもちょっとだけ、好奇心に負けてしまった。ルピナスは木々の枝の間から、そうっと彼らを見下ろした。男はブロワリアを見ると、吹き出すように笑った。


「なんだ、すげえふくれっ面だなあ」


 言葉にすると、ただのなんてこともないものなのに。

 あんまりにも甘くて、うっとりした声だった。ひどく幸せに笑っているようなその人間の大きな手が、ブロワリアの頬を撫でていた。ルピナスはまだ幼かったから、人間の恋というものをよくわかってはいなかった。でも、どきどきして、びっくりして、真っ赤になってしまった自分の頬を両手で隠して、ひゃあと逃げた。


 それが、ずっと昔の記憶。








「まさかこんなことが、“人生”で起こるとは思わなかったわ」


 いやブロワリア風にいうのであれば、彼女は人ではないから、妖生だろうか。上手いことを言ってしまった、と呵呵と笑いながらも宙をふわふわ浮いていると、「ルピナス、笑ってないで!」 アゼリアに怒られた。


 彼女の黒髪とその瞳は、外見はともかく、あの熊のような男によく似ていた。ベッドの上には数少ない彼女の衣装が散りばめられていているが、どれを見ても似たりよったり、というところである。


「ど、どうしよう。ディモル様のご自宅に、だなんて。何か失礼をしたら……するに決まっているわ。私、こんなのだもの。やめた方がいい。そ、それに着るものだって! バーベナからもらったものはあるけれど、でもその」


 多分こういうときに着ていくものとは違う気がするの! と半泣きで悲鳴を上げる自分にとってのかわいい少女を、ははと笑って見下ろした。「あいつ、本気よね。外堀から埋めていくタイプだわ」 ゆっくりまったり互いのペースで歩んでいくと思いきや、堅実に、着々と準備を進めている。


「服なんて別にいいでしょ……バーベナに相談すればいいじゃない。それこそ、ディモルが喜んで準備していてもおかしくないわ」


 自分で言いながらもそんな気がしてきた。ふと窓の外を見るとぽたぽたと雨が降ってはいたが、アゼリアは気づいてはいないようだ。以前ならば真っ先に外を見て、暗い顔をしていたのに。小雨だから、きっとすぐにやむだろうと考えて、ルピナスは想像してみた。


 次の彼の休みの日には、アゼリアを街に誘って互いにどきまぎと言葉を探り合いながら、手をつなぐことにも葛藤を繰り返すのだろうか。さすがにその辺りは大丈夫だろうと思いながらも振り返ったとき、「な、なにをしているの……」 アゼリアは両耳を真っ赤にして、顔を両手で覆いながらもへたり込んでいた。なんだか少し前にもディモルの似たような姿を見たような気がする。


「そ、そんなの」


 アゼリアが、小さく呟いた。「とても、恥ずかしい……」「知らないわよ……」 アゼリアがひどく着飾ることを恥ずかしがるのは、自身を人よりも下のものとして認識し続けてきた弊害だろう。けれども、バーベナからもらった服をディモルにかわいいと言われた日には、小さな窓に自身を映して、何度もくるくると回って確認していたことをルピナスは知っている。


 ひい、とアゼリアは悲鳴をあげているけれど、それが幸せなことであることぐらい、ルピナスだってわかる。

 妖精としての彼女の認識としても、人間の時間と考えても、ブロワリアがあの熊のような男と過ごしたのは、とても短い時間だった。けれども、たしかに彼らは幸せだった。


 男があの森にやってきたのは、愚かなジューニョ家の祖先がいたからだ。だから、始まりがなければ、彼らが出会うこともなかったと許す気はないけれど、アゼリアのこの姿を見ることもなかったのかもしれない。それはひどく不思議なことだ。


 ルピナスは人が嫌いではあるが、アゼリアの祖先となった男は別だ。泣いてばかりいたブロワリアの涙をとめて、大きな体で彼女を湖から引き上げ力いっぱいに抱きしめた。げらげらと粗野な笑い声は、今でもはっきりと覚えている。


「別になんでもいいじゃない。それより手土産っていうの? 人間はそういうものを持っていくんじゃない? 貴族のルールなんて、よくわからないけれど」

「や、やめて! これ以上悩みを増やさないで……!!」

「適当にニコニコ笑っておけばいいのよ。万一のときは」

「……ときは?」

「次の新しい男を探しなさい。私も手伝うわ」

「ディ、ディモル様以外いるわけないでしょ!」

「その意気よ」


 今度は自分で言った言葉に真っ赤になって口をつぐんでおさげを引っ張っている。ルピナスは、何人ものアゼリアの祖先を見届けた。その中には可愛らしい恋を胸にした少女も、辛い想いを抱えた少年だって、たくさんいたのだ。だから見てきただけであるけれど、少しくらい恋のなんたるかは知っている。

 認めるには、やっぱりちょっと癪だけど。


「熊と精霊だってなんとかなったくらいだもの。あなたたちなんて、なんとでもなる話よ」


 まったく、と腕を組みながらため息をつくルピナスに、アゼリアは首を傾げた。外の雨はすっかりやんでいて、明るい日差しがさしている。


「……ルピナス、熊って一体なんのこと?」

「別に。ただのちょっとした、思い出話!」

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