番外編
ある日の夜
*最終話の最後のシーン少し前のことです
雪解けを静かに待つように眠りこけていた蕾たちは、少しずつ芽吹いていく。色合いを様々に、まるでぐっと腕を伸ばすように、ずんずんとその姿を変えていく。一面の緑の中で、アゼリアは歩いた。隣にはルピナスがいる。
ローブのフードで顔を隠す必要は、もうどこにもなくて、瞳を伏せることもない。ただ少しばかり不安に顔をうつむけてしまうことはあるけれど、大きく息を吸い込んで眼前を見つめた。いっぱいに広がる真っ青な空はどこまでも続いている。静かに雲が流れていく。
「アゼリア」
声をかけた主は、彼女の愛しい人だ。ディモルはにこりと笑って、アゼリアに声をかけた。さわさわと優しい風が吹いている。人目を偲ぶような夜中ではなく。帰り道なのだと言い訳をする必要もなく。まっさらな太陽の下で、互いに笑い合うことができる。
ディモルはそっとアゼリアの手のひらを握った。彼女はひどく恥ずかしげに口元を尖らせて、すぐさま足元を向いてしまった。そんな彼女が可愛らしくて、幸せでたまらなくて――――ディモルは微笑みを絶やさず考えた。満足できるわけがないだろう。
確かに彼女とは想いを確かめあった。毎日、夜の記憶をなくし続けた彼の変化は大きなもので、これから先、様々な驚きや喜びがディモルのもとへと来るのだろう。彼女の想いを知り自身の気持ちを理解して、たかだか一月も経っていない。しかし、しかしだ。互いの仕事の合間に逢瀬を繰り返して、手のひらを握って、にこにこと笑って。幸せには違いないが、ちょっとまってほしい。彼は二十歳を過ぎた大人である。これで満足しろというのは酷な話だ。
いや、初めこそは満足して、嬉しくて、互いに微笑みながら微かに触れた指先を、何度も真っ赤にさせた。しかし時間が経てば経つほど、ディモルは静かに口元を引き締め、笑いながらも表情を固まらせた。日記をつける必要なんてもうどこにもないのに、習慣は変えられないもので夜に書いた自身の思いを朝に読み返すと羞恥に唇を噛み締めた。
――――もう一歩、進むべきなのではないか。進めるのではないか。
「……ちょっと、いつまで手を握ってるの? 長くない? ねえ、長くない?」
そう考える度に、ばさばさと風の中にマントを揺らしながらもディモルは第一の関門に、すぅ……と意識を遠のかせた。カッと目を見開きながら、ルピナスがアゼリアを守っている。保護者が辛い。
以前は目にすることができなかったルピナスの姿だが、すっかり見えるようになってしまった。気にするなという方が無理な話だ。いや、もちろんそのことに文句を言うつもりはない。彼女は幼いアゼリアを守るように生きた。彼女がいなければ、アゼリアはひどく寂しい幼少時代を過ごすことになっていただろう。感謝こそすれ、邪魔に思うはずもない。
しかし、しかしだ。愛しい少女と二人きりの時間を過ごすことができないのは、少しつらい話ではないだろうか。
***
「……ルピナス! お願いがあるんだが!」
「なによ、なんなのよ。私はあんたのこと、ちょっとしか認めてないだから!」
つまりはちょっとなら認めている、ということだが、長年人嫌いを患っていたので、素直になることができないルピナスである。常にアゼリアと共にいる彼女であるが、『ルピナス、その……うん、その、少し、話が』とディモルが呼び出したのは小屋の裏手である。季節も関係なく、わさわさとフェンネルが立派に生い茂っている。
珍しくもディモルからの呼び出しに、アゼリアは首を傾げはしたものの、丁度庭の見回りの時間だからと消えてしまった。ディモル様もルピナスも、ゆっくりして行ってね、とのしのし土人形を連れて去ってしまった。
「僕がっ……」
ディモルはぐっと拳を握りしめ、宙にふわふわと浮いている妖精から顔をそらし、思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。ひどく言いづらかった。
ルピナスも薄々気づいてはいる。妖精と、人との考え方は異なるが、ルピナスは長く人のもとに溶け込んでいた。色恋のなんたるかは理解しているし、アゼリア自身よりも、アゼリアがディモルに恋をしていることを知っていた。
だから、ディモルが苦しみ始めているのはわかるけれども、彼女だって引っ込みがつかない。幼いころから大事にしていた少女だ。たとえアゼリアの命の恩人だろうと、はいどうぞ、と渡すわけにはいかない。ルピナスの親友であった精霊を苦しめた子孫ということは、すでにルピナスの中では昇華していた。それはディモルにとっては、どうしようもないことだからだ。
さて、彼が何を言い出すのか。いや、どうこちらに伝えてくるのか。
ルピナス自身も緊張していた。けれどもそれをディモルには知られまいと、必死に表情と眉を引き締め、じっと男を睨んだ。ディモルは覚悟を決めた。
「僕が、アゼリアに手を出すことを、認めてくれないだろうか!?」
「ちょちょちょ直接的すぎるわーーーー!!?」
ツッコミに拳を炸裂させた。
わさわさとフェンネルが黄色い花を咲かせて、二人の頭上では木々達がすっかり緑になった葉っぱを主張している。しかし場は混乱を極めていた。
「手、手、てて、手を出す!? いいいいい、いやらしい! 人間ってほんとに、いやらしいーーーー!!!」
「ま、ままま、まってくれ! 違う、違うんだ! 遠回しに言うよりもこういうことははっきりと言ったほうがいっそのこと誠実かと!!?」
「そんなわけないでしょ、一周回ってマシに思えたような気がしたけどそんなわけないでしょ!?」
「すまない、言葉を言い直す……っ!」
「い、いってみなさいよ……!!」
「アゼリアと、二人きりに、なりたいんだ……っ!!!」
「変わらんわあ!」
はあはあと互いに肩で息を繰り返した。そんなもの、認められるわけがないと吐き捨てたとき、ディモルは情けなく崩れ落ちた。人間はなんて恐ろしいのとルピナスが改めて震えた瞬間だ。「キスが、したいんだ……っ!!」 ディモルは地面に膝をつきながらも、手元の土を握りしめるように叫んでいた。
「……キス?」
返答はなかった。伏せた顔は見えなかったが、思わずこぼれてしまった自身の言葉に首元を真っ赤にする彼が見えた。「…キス?」 もう一回、ルピナスは呟いた。今度は耳まで真っ赤になっていた。
まるでおとぎ話の王子様のような風貌の青年だが、浮いた話全てはただの噂話だ。彼は女性を避けるように生きてきた。アゼリアと変わらず、案外純情な青年だった。
***
別に、気の毒になったわけではない。ルピナスは賄賂がわりのクッキーをしこたま口にこさえつつ、もりもりとアゼリアに背を向けて食べたあとに、ぴこぴこ背中の羽根を震わせた。今日はさっさと寝るわと口元に食べかすをいっぱいにして、そそくさベッドの中にひっこんだ。茶会の準備をしていたアゼリアは残念がっていたけれど、一回の、これきりだ。
ルピナスは、眠ったふりをした。嬉しげに笑う彼らの声がきこえる。少しだけ、少しだけ。ルピナスはディモルを認めている。だから、今回ばかりは眠ったふりをして、見逃してやるだけだ。本当に、今回だけ。
そのとき、ディモルはひどく緊張していた。見上げた真っ黒な美しい夜はきらきらとしていて、暖かな紅茶の湯気がふわふわと消えていく。アゼリアは、日を追うごとに可愛らしく笑うようになってくれる。忘れる度に出会って、好きになったあのときと同じように、顔を合わせるごとに、彼女のことを好きになる。
アゼリアは、ふといつもよりも、ディモルの距離が近いことに気がついた。椅子に座って丸いテーブルにカップを置きながら見上げると、青年の端正な顔がそこにあった。瞬くと、真っ青な瞳がこちらを見下ろしていた。
「……ん?」
ディモルが、小さな声を出した。気まずく、アゼリアは顔をそらした。なのにどんどん近くなる。囁くような青年の声だ。「ん?」 ディモル様、と彼女が呟く前に、息を飲んだ。ディモルと、アゼリアの影が重なった。
カンテラが、ゆらゆらと木々の枝にひっかかって揺れている。
ほんのりとした明かりの下で、真っ赤な顔をしているのは、よくよく見るとお互いだった。ディモルは口元を緩めて、アゼリアの黒髪を触った。それから、彼女の頬を撫でた。アゼリアは瞳を細めながら、ディモルの手のひらに、自身の小さな手を重ねた。ひどく温かかった。
それからもう一度。
今度はゆっくりと、お互いに顔を近づけた。冬の匂いはすっかり消えて、春の香りに近づく。それはとても、幸せな香りだ。
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