36杯目
黒馬には、ディモル、そして王太子が乗っている。すっかり夜も明けた森の中を歩きながら、彼らはゆっくりと進んだ。
あんなに暗くて、恐ろしかった森なのに、今は明るく足元には木漏れ日が落ちている。「アゼリア、僕はもう歩けるから、君が代わりに」 ディモルがなにやら言っているが無視をした。それより、今は彼と話すことが難しかった。ディモルが好きという言葉が、頭の中でぐるぐるしている。真っ直ぐに彼を見ることさえ困難だ。
王太子は、ただ静かにストックを見つめていた。一体、この男が何者であるのか。突き刺さる視線の中で、ざくざくと進んでいく。
「ええい、言いたいことがあるのならさっさと言え!」
耐えかねて、ストックは叫んだ。「言いたいこと、といいますか……」 聞きたいことと言うか。ううん、と唸って、アゼリアは考えた。釣り眼がちのこの男だ。迎えが遅れたのは、残党を蹴散らしていたかららしい。ところどころ、返り血が服にこびりついている。
「あなたは、敵ではないのですか……」
小さく呟いた王太子の言葉に振り返り、ストックは厳しく瞳を吊り上げた。もともとの顔なのだが、それだけで少年は震えた。「違う」 彼にしては珍しく、つっぱねた声だった。「なら、味方……」「それ以上言うな」 精霊がひゃあと悲鳴をあげた。二人で一緒にぶるぶるしているところを見ると、本当によく似ている。
「とにかく、話は戻ってからだ」
こっちだって、色んな準備がいるんだよ、と呟くように話した彼の言葉は、自分自身に告げているかのようだった。
数日後、アゼリアの小屋には覚えのある人たちが集まっていた。ところどころ包帯を巻いてはいるものの、しっかりと両の足で立っているディモルを見て、ほっと息をついた。アゼリアを見て、彼はひらひらと片手を振った。ストックはもちろんのこと、バーベナ、ソップまでもがいる。王太子の新しい精霊の名はツワブキ。男の子なのだそうだ。
「……そこの嬢ちゃん方には声をかけた覚えはないんだが」
「へへん。噂があるところにおいらはありだ!」
「私もいるわよ! ふふん!」
二人揃って腕を組んでいる。息がぴったりにも程がある。「殿下をこちらにお通しするのは、少しばかり気が引けたんだが……」「アゼリアの庭だ。これ以上なく安全な場所だ」 ディモルの言葉にすぐさまストックは返事をしたが、アゼリアとしてみれば、少し買いかぶりな気がした。
ここじゃあなんだ、と移動したのは、まっさらな草原だ。以前、バーベナがアゼリアを睨むように立ち尽くしていた場所である。ひゅうひゅうと風がふいている。冬は過ぎ、春に近づく。それでも、まだ肌寒い空気がある。
「ねえ、まだなの? さっさと話をすればいい、それだけだと思うんだけど」
バーベナが、かりかりと腕を組みながら、ストックを睨んだ。「待て」 ストックは口の先を尖らせた。「俺にだって、準備が……」「そんなのここに来るまでに終わらせときなさいよ!」「終わらせときな!」 ソップとコンビで彼女は思うがままに言葉の腕力を叩きつける。
「う、うるせえな……わかったよ。アゼリア!」
ストックは、何かをアゼリアに投げ飛ばした。「え、わっ!」 何かの種だ。妖精の森で渡されたものよりも大きい。大きさは違う、が少し見覚えがある。
「それを、育ててくれ」
ゆっくりと、ストックとアゼリアは瞳を合わせた。彼女の力は、今やすでにブロワリアと同一だ。わざわざ人と瞳を隠す必要はない。頷き、アゼリアは種を地面に埋めた。短く、言葉を吐き出す。静かに芽が出たかと思えば、にょきにょきと、ぐんぐんと育っていく。「わあ!」 少年が口元を押さえた一瞬の間に、辺り一面、それこそ黄色い絨毯のように同じ花で染まっていく。
背丈が大きくて揺れていて、小さな黄色い花が合わさったハーブだ。見渡す限りのフェンネルで敷き詰められ、すっかり少年は埋まってしまった。じたばた暴れて両手を広げた。抱きとめたのは、覚えのある青年だ。茶色い長い髪を揺らしながら、優しげな瞳で彼を見ていた。
「……オモト!」
土の精霊の名だ。少年は必死で抱きしめ返した。なのにその姿はつかめなくて、何の感覚もなく、両手の感触はかき消えてしまう。「フェン、申し訳がなかった」 オモトと言う名の精霊は静かに、フェン――――王太子を見つめていた。なのに彼には何も見えていない。なぜと、フェンと言う名の少年は悲しみに瞳を染めた。
「土の精霊が、死ぬ前に俺に渡した伝言だよ」
つまり、やはり彼はすでに死んでいる。
「そこの彼は、君の従兄弟だ。フェンの父君の兄の子だよ。彼と彼女は、戦で出会って、恋をした。すでに王兄は死んでしまったから、彼が王家の血筋であると証明するものは何もないけれど、私は知っている。幾度も王宮へと誘ったんだけどね。断られてしまった。変わった子だよ」
俺の家族はじいちゃん一人で十分だ、とストックは面倒くさげに幻影に舌を打った。「この種を渡したときは、君に渡すことはないと言っていたのに、やっぱり渡してしまったんだね。分かっていたさ」 すぐにストックは口をつぐんだ。痛いところをつかれたという顔だった。
「意地っ張りな従兄弟なんだ。君のことが心配でたまらないのに、なんでもない顔をする。フェン、私が死んでしまったことで、君にたくさんの苦労がやってくることだろう。そして、君に言葉を残すことのできない私を、許してくれとは言わない」
精霊は、ある日、自身の死を理解する。それは決して、抗えるものではないのだと言う。
「死ぬことが恐ろしいことだと知ってしまったとき、精霊は死ぬ。その理解は、精霊によって異なる。私は長い、長い時間がかかってしまった」
ブロワリアは子を産み、すぐに消えてしまった。陽炎のように儚い精霊がいれば、長く、長く国を守り続ける精霊もいる。
「たくさんの人の死を見送ったよ。それが、私の中で積み重なった。君が生まれたときに思ったんだ。この子の死を見たくはないと。だから今は少し、安堵もしている。君に直接、私の死を告げる勇気もない」
触ることもできないはずなのに、オモトはそっとフェンの両頬をなでるように慈しんだ。ふわふわと、柔らかい頬だ。彼が生まれたとき、オモトの中で、少年は光り輝いていた。
「フェン・アゴスト・プランタヴィエ。君の名は、私がつけたんだよ。フェンネルのように、強く咲き誇るように。強い意志を持つように。でも、風邪のときには温かくなる、素敵な紅茶にも、料理にもなれるような人になれと」
愛しているよと、最期に告げられた台詞の中、ただ、フェンは立ちすくんでいた。君はとても泣き虫だ。でも、その涙が、どうか暖かく、優しいものとなりますように。いつの日か、オモトに言われた言葉を思い出した。
黄色い絨毯のように広がる一面のフェンネルを、静かに、風が通り過ぎて消えていく。誰も、何も言うことはなかった。ただ、ツワブキだけが、静かに少年の手を握った。
二人の泣き虫が、いつか一人前となる日が来るだろう。
きっとそれは、遠くはない未来に。
***
ひらり、ひらり。優雅に羽根を揺らしながら、蝶が花の蜜を吸う。様々な種類の、美しい花々を、ひらひらと優雅に飛び移る。暖かな日差しだった。椅子に座って、庭の景色を眺めながら、アゼリアとディモルは、静かにお茶会を楽しんだ。雪はすっかり解けて、新たな生命が芽吹いている。
「ディモル様、怪我の具合は……」
「すっかりよくなったよ。君が心配してくれるから」
以前よりもずっと距離が近いのは、おそらくアゼリアの気の所為ではない。わざわざ耳元で囁くように告げるから、ぞわぞわしてたまらない。そわついた彼女をディモルはそっと捕まえた。片手を添えて、唇を落とそうとしたとき、「いや、私がいるから!」 間からルピナスが飛び出した。見えないときならばともかく、ディモルにはバッチリと姿が見えているくせに、この扱いはたまらない。
「そんな、なにも。アゼリアの頬に汚れがついていたから」
「嘘は大概にしてちょうだいね!? あんたが私の目を離したすきに悪さをしでかしてるのは知ってるんだから!」
「悪さなんてしていない」
「キリッとした顔をつくったところで、事実は変わらないんだからね! ねえアゼリア……アゼリア!? 意識を飛ばさないで!」
真っ赤な顔をふらふらさせている彼女を見て苦笑した。そして、はっと目を覚まして、「大丈夫、大丈夫だから」と返答するアゼリアを微笑ましく見ながら、ふとディモルは考えた。
――――アゼリアは、影にはなれない
そう、先代は幾度も彼女に話したのだとアゼリアに教えてもらった。ディモルは、日記の中でしか彼を知らない。だがひどく違和感があった。いくらぶっきらぼうな男であったとは言え、そんな突き放すような言葉を、彼が言うだろうか?
「アゼリア、君はおじいさんに影になることができない、と言われたんだよね」
「え、はい……そう、ですね」
自分が一生未熟者であると言われたようなものだ。彼女はしょんぼりと頭を下げた。けれどもしかすると、「それって、意味が違うんじゃないか?」「え?」 アゼリアは瞬いた。
「そもそも、庭師を影と言う必要なんて、どこにもないじゃないか」
だって、こんなにも綺麗な庭を育てている。もし先代が、アゼリアと同じように自身を卑下していたのだとしても、アゼリアまでそうなれと命じる必要などどこにもない。
「君は、影なんかじゃなくて、表で生きていくことができると、そう言いたかったんじゃないかな」
どうだろうか。それはただの希望だ。けれども口に出してみると、きっとそうだと感じた。黒髪の少女は、ディモルにとっての夜だった。それはアゼリアにとってのディモルと同じように。花の香りが漂っている。ちりちりと、鳥の歌声が響いていた。そっと雪の間から芽吹くように、彼らにも恋の種がひそんでいた。
ディモルは、アゼリアの瞳を見つめた。今日も彼女のことを思って眠ることができる。今でもときおり、この幸せな記憶を、忘れてしまうのではないかと恐ろしく思うときがある。そんなときは窓をあけて、星空を見つめる。明日の彼女を思い浮かべる。
「どう、でしょうか。でも、もしそうだったのなら」
自身を庭師と、先代は認めてくれるだろうか。
アゼリアは、いつも難しげな顔をしていた老人を思い出した。本当は、祖父のように慕っていた。互いに口下手だから、そんなこと、言えやしなかったけれど。
考えてみると、自身が死んだあとは、自分の小屋を使うようにと言ったのも彼だった。でなければ、アゼリアはディモルと出会うこともなかっただろう。
彼は、アゼリアをディモルに託した。そう考えることは、ただの思いこみなのだろうか。
ひらひらと飛んでいる蝶に、こんにちはとルピナスが声をかけたとき。
まるでないしょ話をするように、そうっとディモルは彼女に近づいた。わずかに甘い音が聞こえたわけだが、彼は隠しごとは大の得意だ。そしらぬ顔をしてみせた。けれど、彼女はそれが苦手だから、ルピナスには、またすぐにバレてしまった。
これは、冬から春になる物語である。
テーブルの上に広げられたのは、色とりどりのお茶菓子だ。ティーカップは十分に温かい。おかわりだってたんまりある。準備はすでに万端だ。
始まるのは、きっと素敵なないしょ話に違いない。
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