34杯目



 ガタガタと馬車が揺れていた。「ディモル……!」 震える少年の背を、ディモルは撫でた。襲撃はあるだろうと予想していた。だからこそ周囲は騎士で囲み、ディモルが殿下の警護を行っていた。唐突だった。夜半に響く怒声に、少年はびくりと跳ね上がり、その瞳にいっぱいの涙を溜め込んだ。



 王である父に代わり、自身が妖精の地に赴かなければいけないと理解したとき、彼はとにかく震えた。がたがたとまるで音が聞こえてくるようだったが、それでも歯を食いしばりながら頷いた。



 せめて昼間ならばよかった。しかし、儀式は必ず夜に行わなければいけない。目が覚める度に夜の全てを忘れてしまうディモルだから、毎度、夜は美しいと感じる彼なのだが、今日ばかりはそうは言ってはいられない。



 しっかりとした、いくつもの守りを重ねた馬車だった。しかし、それ自体もすでに悲鳴が上がっているような走行だった。ひとり、ふたりと護衛が倒れ、消えていく。その度に少年は自身の口を必死に押さえていた。その姿が、あまりにも健気だった。



「殿下、殿下は必ず僕がお守りします」



 子供を見る度に、そう思う。あれは過去のことだが、王太子をはっきりと狙った悪意があると気づいたそのとき、駆け出さずにはいられなかった。飛び出し、抱きしめ、無防備にも敵に背中を晒した。すぐに土の精霊が全ての災いを弾き飛ばしてしまったのだが、終わった後では冷や汗が止まらなかった。



 あれからディモルは王太子付きの護衛となった。自身には過ぎた名誉であると告げたが、土の精霊はただ笑っていただけだ。


 ディモルは子供を見ると、どうにも抑えがきかなくなる。守らなければいけないと、そう感じるのだ。彼が見習いになったばかりの頃だ。小さな声に気づき、走ると、崩れ落ちた馬車があった。その中に埋もれた少女は、強く彼を抱きしめて、ぼろぼろと涙をこぼした。彼女の顔は泥だらけでわからなくて、名前だって知らないけれど、可愛らしい子だと感じた。


 ディモルにとって、忘れられない出会いだった。



 そのとき、ただ安堵した。聞こえた声を、無視してしまわなくてよかった。と彼自身も涙をにじませて、強く少女を抱きしめた。


 あのときのディモルは、生意気な少年だった。貴族にありがちで、高慢で、夜の呪いに苦しんで、でも自分が特別なものだと思っていた。彼の鼻っ柱を折ったのは“おじいさん”だ。出会ったのは夜のことだから、覚えていないけれど庭師の花畑に忍び込んだ彼を、おじいさんはこっぴどく叱ったのだと言う。



 ディモルは両親に甘やかされるように育った。気の毒な呪いを持って、家を継ぐこともできないだろうと憐れまれていたからだ。



 庭師のくせに、なぜ僕にそんな口ごたえをするんだと、小さな犬歯を見せてディモルが叫ぶと、彼は鼻で笑った。



 ――――身分を笠に着て、知らぬことに胸をはるなど、愚かしいことだ。



 次に待っていたものは拳骨だったらしい。目の前をくらくらさせながら苛立って、日記に綴った。文字を読んだ。次の日の朝に読んで見ると、なんだこいつはとひとしきり腹が立ったあとで、奇妙に心に残った。それからまた夜の庭に向かって、生意気な態度をとって、怒られて、同じことの繰り返しだ。



 でも、その言葉がなかったのなら。



『たすけて』



 か細く聞こえた少女の言葉を、気のせいだと、ぷいと顔をそむけてしまっていただろう。いや助けを求められたところで、きっとただの平民だ。自分にはずっと大事な任務がある。見習いだろうと、横道に逸れている暇はないのだと。



 知らぬことに胸をはるなど、愚かしいこと



 ふと日記に書かれた文字を思い出したから、上官の指示も聞かずに飛び出してしまった。気のせいだ。気の所為に決まっている。たかが平民に、こんなことを。馬鹿だな。さっさと戻ろう。そう思うのに、とにかく足が止まらない。



 だから少女を見つけたとき、ひどく心の底で安堵した。聞こえないふりなんてしなくてよかった。手を伸ばしてよかった。ありがとうと言われた彼女の言葉は、まるでディモルの言葉を代弁しているかのようだった。見捨てなくて、よかった。





 ディモルの隣で、今も小さく震えている少年は、あのときの少女と同じだ。守らなければいけない。幼い子どもの声を、無視などできない。それは彼本来の優しさで、ディモルにとってはすでに当たり前のことだから、胸をはることもないけれど、人とは違う何かだった。だから彼は、アゼリアと再会したとき、彼女が庭師であると知りながらも嘲ることもなかった。



 すでに、いつ馬車が砕け落ちてもおかしくはない。あっ! と少年は悲鳴を上げた。矢を受けた御者が格子の隙間から崩れ落ちていく様が見えたからだ。瞬間、馬が暴れた。すぐさま馬車は横転し、バキバキと悲鳴をあげて壁が砕けた。ディモルは少年を抱えて飛び出した。すでに妖精の森にはたどり着いている。月のない夜だ。闇に紛れて少年を背に負い、ディモルは駆けた。



 泣き声を必死でとどめて、彼はディモルに抱きついた。追手に見つかるわけにはいかない。重たい甲冑は投げ捨てた。とにかく、王太子を、儀式の場へと送り届けなければ。考えることはそれだけだ。



 なのにふと、アゼリアのことを思い出した。

 日記に書かれた彼女のこと。昼に会った彼女の顔。また、会えるのだろうか。もしかすると、もう会うことも叶わないかもしれない。それはとても悲しいことだ。けれど、王太子である以前に、幼い少年を見捨てることなどできるはずがなかった。



「ぼ、ぼくのことは、もういいよ、いいから……」



 呻くような声だ。



「おやめください……!」



 子供が死に急ぐ姿が、ディモルは一番嫌いだ。腹立たしいのだ。そう言わせる、自身の力のなさが情けなくて、腹立たしくて仕方なくなる。



 常闇の中だ。ディモルはまっすぐに森の中心を目指したが、彼の先祖はそのまったくの反対に、出口を目指した。怒り狂った精霊と、彼には見えもしなかったが、妖精たちの荒ぶりが、まるで地響きのように響いていたと伝わっている。同じ場で、先祖と子孫が走っている。行きと帰りと違うけれども、よく似ている。彼の先祖は、金髪で青目と、ディモルと似た風貌をしていたらしい。



 矢の先が、彼の頬を撫でた。放たれた矢の背に、ゆらゆらと炎が燃えている。火の精霊の力だ。皮肉にも、その矢の炎で周囲の様子がよくわかった。すでに、ディモルは囲まれていた。彼は王太子を地面に下ろした。腰からは剣を取り出す。片手で少年をかばいながら強く睨みつけた。


 足の短い中年の男が、一歩を踏み出す。



「これはこれは、王太子殿下。こんなところで出会うとは、なんとも偶然ですな」

「オットーブレ公爵、殿下の御前です。平伏なさい」



 ディモルの言葉に、オットーブレは大きな腹を揺らして笑った。


 彼の怪しげな素行を、ディモルとて理解していなかったわけではない。どこぞからこっそりと、いや、ディモルは知らないことではあるが、ストックからの忠告として上がっていた名にあったのだが、彼の監視役すらも丸め込まれていたらしい。その隣には覚えのある顔がいくつもある。



 じりじりと、距離が縮まっていく。「ディモル……!」 とにかく、王太子だけは逃さなければいけない。包囲をかいくぐることも、すでに難しい。さっさと来いとディモルはらしからぬ怒声を上げた。それを機に、いくつもの矢が放たれた。ディモルは全てを叩き落とした。王太子を狙うものは、体をはって止めてみせた。これを繰り返した。すでに片腕が使えない。矢に縫い付けられて、流れ出る血が止まらない。それでも、わずかな隙さえあれば。



 青年は諦めなかった。諦められるわけがなかった。喉から咆哮を震わせた。繰り返される射撃を受け止め、最後にできたことは、ただ王太子を抱きしめることだ。自身の背を使い、彼を悪意から守った。やめてと悲鳴を上げていた少年が、ふと、静かに瞬いた。不思議に思い、流れ出た血を拭うこともできずに片目だけで振り返った。少女がいた。



 炎の中で、桃色の髪を揺らしていた。矢に込められた力は、精霊によるものだ。地面に突き立てられた矢は消えることなく、あかあかと燃えている。



「……アゼリア」



 鉄の味をふくみながら、ディモルは呟いた。少女はひどく場違いだった。グリーンティーを二人で飲んで、おいしいと笑っていた少女の顔を、ディモルは覚えている。ただ彼女は厳しくすみれ色の瞳を細めて、周囲を睨んだ。アゼリアの瞳に、恐れをなして彼らは震え上がったが、それも一瞬だ。



「な、なんだお前は、どこからきた……」 



 オットーブレも、一歩、ふらつくように後ずさった。背後の護衛にぶつかり、我に返った。溢れ出る殺意を抑えることもせず、合図を送った。すぐさま、再度の矢が放たれた。しかしそれが彼女の元に届くことはない。



 アゼリアが片手を持ち上げとき、その場から様々な植物が生み出された。彼女と、ディモルと王太子を守るように固い木々の幹でさえも丸くうねり、まるで生きているかのようだ。いや、実際にそれらはアゼリアの思う通りに動いた。守りを解いたかと思うと、一人ひとり彼らの持つ武器を撃ち落とす。悲鳴があがるたびに炎は消えて、暗い夜に戻っていく。



 アゼリアの手のひらには、小さな布袋が握りしめられていた。ストックと共に森に入った瞬間、彼らの歓迎の声が聞こえた。それは、何の力もないストックでさえもわかった。すっかり眠りこけていたらしい土の精霊から譲り受けた小さな種を集めた袋が、連れて行けと叫んでいる。



『……こりゃ、俺が行くよりもあんたが行くほうが速いかもしれねえな』



 ストックは、アゼリアに種を渡した。『靴の中にも仕込んどけ。服の中にもな。これはあんたを守るに違いない』 もしかすると、この事態でさえも土の精霊は全て理解していたのだろうか。でなければ、種などとアゼリアに一番近い形のものを渡さない。



『――――行け!』



 ストックの声に頷いた。彼女は即座に馬から飛び降りた。瞬間、枝が彼女をすくい上げた。まるで庭の中と同じだ。種を通して、土の精霊の力を借りることができる。アゼリアが足を踏み出すごとに、森の木々がアゼリアを運んだ。跳ねて、飛んで、まっすぐに進む。ストックは馬を走らせながら彼女を見上げた。黒いローブがはためいて、まるで羽根のように見えた。



 月もない夜の中、彼女の小さな姿が空に浮かんだ。



 咆哮が聞こえた。

 森が燃えている。アゼリアは滑り落ちるようにディモルの前に降り立った。覚えのある少年がいたことには驚いたが、すでに動くこともままならないディモルの姿を見たとき、ぞっと血の気が引いた。そして唇を噛み締め、アゼリアは彼らに願った。まずは火を消す。植物だけでは難しい。そっとしゃがみ込み、地面を撫でた。



「私の声は届かなくても、貴方達の主の願いなら持っているの」



 握りしめた布袋に入った種たちがどんどん熱くなってくる。まかされた、と聞こえた声はそれだけだったけれど、盛り上がった土はすぐさま炎を押しつぶした。幾人もが、腰を抜かして逃亡した。「ば、化け物!」 アゼリアは影である。人ではなく、人以下だ。今更言われたところで、痛くも痒くもない。それよりも大事なものを見捨てるものになどなりたくはない。



 腰を抜かしたオットーブレをかばうものなど、どこにもいない。いや、彼の隣にはソップよりも、ルピナスよりも大きい、人間の子供のような姿の精霊がいた。



「お、おい、アスター! なんとかしろ!」

「無理だよご主人。こいつは二人分だ。一人の俺じゃ到底勝てない」



 ふるふると少年は首を振った。オットーブレは絶望に顔を染め上げた。「理解がはやくて助かります」 土と木、両方の力を合わせて、アゼリアは彼らをくくりあげた。これなら火の精霊でも、抜けることは難しい。すでに抵抗する気も失せているようだが。


 喚くオットーブレに手の中で調合した眠り草を与え、アゼリアは振り返った。

 静かな夜が、そこにあった。

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