33杯目
アゼリアの菫色の瞳は生まれつきのものではない。幼い頃は髪の色も、瞳の色も同じ色をしていたし、夜になっても髪の色が変わることもなかった。昔は、誰と目を合わせても怖がらせることもなかった。それがある日のことだ。朝、目が覚めると瞳の色が変わっていた。
アゼリアの血筋には、ときおり不思議な子供が生まれるのだと言う。驚いた両親は、王都に向かい、土の精霊様の力をお借りしよう、と提案した。不安に思いながらも、馬車に飛び込み、一刻も早くと長い道のりを歩んだ。もう少しで王都にたどり着く。そんなときだ。
ひどい雨が降っていた。そこで少し、道の端に馬車を止めて雨がやむまで待てばよかったのに。その頃のアゼリアはひどく幼かったから、とにかく怖がった。早く街に着きたいと言って、両親を困らせた。彼らは顔を見合わせて考えて、あと少しだからと先を急いだ。それが間違いだった。
視界が悪く、ぬかるみに足を滑らせた馬車は、あっという間に転落した。それから先のことは分からない。ただ、真っ暗な場所にいた。夜になってしまったのだと思ったら、体中が動かなかった。痛くて怖くて、たくさん泣いた。お父さんとお母さんの声がきこえる。なのにそれも少しずつ小さくなっていく。
彼らは死んでしまった。アゼリアのせいで。幼いわがままで、こんな瞳のせいで死んでしまったのだ。体よりも、内側が痛かった。真っ暗闇の中で、アゼリアも死んでしまいたかった。声が聞こえた。そこに誰かいるのか。返事をしてくれ。少年の声だ。真っ暗だったはずなのに、僅かな隙間から光が漏れた。今度こそ、はっきりと聞こえた。
「生きているのか! なあ、君、生きているんだな!?」
その声ははっきりとアゼリアに向かって問いかけていたけれど、彼女はすでに、生きる希望なんてなくしていた。返事をするつもりもなかったのに、少年があんまり必死だから、ぽつりと、泣きつかれてかすれてしまった、小さな声を漏らした。「死なせてほしい」 どうか、あっちに行って。放っておいて。今のアゼリアの、ただの一つの願いだった。
「お父さんと、お母さんは、私のせいで死んだから。私も、どうか一緒に死なせてほしい」
消え去ってしまいたかった。こんな瞳があったから。アゼリアがわがままだったから。泣いて、体中の水分なんて消え失せてしまっていたと思ったのに、静かに涙が溢れていた。もちろん、体を動かすこともできないから、ただただ涙は流れるだけだ。少年は息を飲み込んだ。憐れまれるのだろうか、と頭の隅で考えた。もう、まともに思考する力すらも残ってはいなかった。でも、違った。
「馬鹿なことを言うな!」
少年は怒っていた。怒りにふるえて、崩れた馬車を必死でかき分けた。声変わりもしていない少年一人の細い腕で何ができるわけもない。それでも体中を泥だらけにしてアゼリアを助けたいと願った。小さな隙間が、少しずつ大きく、明かりが差し込む。少年の髪がきらきらと輝いていた。
差し込まれた腕を、握れと彼は叫んだ。アゼリアも、動くはずのない体を、ゆっくりと動かした。少年の指先と、彼女の指先がわずかにつながった。そのとき、アゼリアはまだ自身が生きているのだと気がついた。とにかく涙が止まらなかった。唇を噛んで、ただ声を震わせた。大勢の騎士たちが集まり、助け出されたとき、アゼリアも泥だらけの汚らしい姿だった。なのに少年は構うこともなく、彼女を強く抱きしめた。
よかったと彼の声も震えていた。君はとてもがんばったのだと。生きていてくれて、よかったのだと。心の底から呟かれた少年の言葉は、アゼリアの胸の奥にゆっくりと染みた。金の髪と、真っ青な瞳を持つ少年だった。
あとでわかったことだが、彼らは辺りを巡回していた騎士団であり、少年はただの見習いだった。名前すらも分からないし、アゼリアだって名乗っていない。怪我だらけで、ボロボロで、やっと自身の足で立てるようになったとき、アゼリアは土の精霊との面会を果たした。残念ながら彼の力でもアゼリアの瞳を元に戻すことができなかったが、彼は“庭師”の仕事を提案した。
生きてもいいのだと、少年に言われた言葉を思い出した。
ならば、その証拠を残したかった。美しい庭を作って、アゼリアが生きた何かを生み出したかった。
それから十年の月日が経ったが、アゼリアが彼を忘れることはなかった。しかし、敢えて探すこともなかった。アゼリアにとっては一生に忘れることのない記憶でも、あちらにとってみればきっと取るに足らないであろうことは分かっていたし、瞳すらもまともに合わせられないこの身だ。人探しに足を向けることもできなかった。
先代が死に、南の貴族エリアを任せられるようになったとき、ときおり令嬢達の噂話を耳にするようになった。まさかそんな話に耳を澄ますわけにもいかない、とアゼリアは自身に苦笑した。そのとき、金の髪と青い目を持つ青年の話を聞いたのだ。
同じ色合いという理由だけで、彼というわけがない。なのにアゼリアの頭の中には、ディモルの名が離れなかった。庭にこもりきりだったから、貴族のことなんてわかるわけがない。でも、いつの間にか彼のことをよく話していた令嬢の名までも覚えてしまった。
年の頃は、たしかにそうだ。アゼリアを助けた少年は、十をいくつか過ぎたほど。それからさらに月日がたったから、二十歳そこそこの年齢のはずだ。ディモル・ジューニョという伯爵家の長男の年は二十一。それならぴったりと当てはまる。首を振って、自分自身で苦笑した。
だからまた彼と出会ったとき、アゼリアは驚いた。間違いなく、あの少年だった。幼い面影はどこか残したまま、すっかり大きくなっていた。
ディモルはアゼリアのことがわからなかった。当たり前だ。落胆はしなかった。ただ、気持ちがふわふわとしていた。彼はアゼリアにとって特別だった。なぜかディモルはアゼリアの瞳に恐れることはなく、過去の幼い少年を思い出すと、自身の口下手が表れることもない。それがいつからだろうか。彼の仕草や、言葉に、一喜一憂してしまう。こんなことは、今までになかったことだ。
――――ディモルは、アゼリアにとって、間違いなく特別な人だった。
それは命を救ってくれたという恩と、忘れられない思い出をくれたから。
なのに、どうしてだろう。アゼリアが、今、必死でディモルのもとに向かっているのは、決してそんな理由ではなかった。夜に笑って、お茶を飲んで、暖かくしてくれた青年に、手を伸ばしたかった。
「……しくじったなッ!」
ストックが舌を打つ音で、はっとした。「見ろ、ここからひどく足跡がおかしい」 とは言っても、光苔が落ちているとはいっても、馬に乗りながらの夜だ。中々はっきりと視界に収めることは難しかったが、ストックの服を必死で掴みながら、跳ね上がる体を押さえて地面を見た。「こ、これ……」 轍が、ひどく荒れていた。均一についていた周囲の足跡もそうだ。
「土の精霊の守りは、まだこの場所にも残っているはずだ。仕掛けるのは守りが消えた辺りからだと思ってたんだが……」
どうやらせっかちな奴ら混じっているな、と再度ストックは舌を打った。「護衛の騎士は大勢いるだろうから、そうそうにやられはしないとは思うが」 少なくとも、敵はオットーブレ家のみではないだろう。アゼリアは眉間に皺を寄せた。「まあでもまだ問題ない範囲だ!」 軽口を叩きながらも、ストックはさらに馬の速度を加速させた。
「殿下の近くには、ディモルがいる。あいつさえいれば、少なくとも時間は稼げる!」
一体、何を根拠に。アゼリアを安心させるためのものだろうか。「あいつは、自分が何にもできない男だと言っていたが、そりゃ違う。確かに、剣の腕は俺よりもないし、あの見た目だから、中身よりも外見ばかりに目がいくことも多いだろうさ」 でもな、とストックはふと記憶を思い出させた。
「演習試合を、殿下が土の精霊を連れて見学に来たことがある。いくら王家に加護があるとは言え、その身分を狙うやつはいくらでもいたさ。特に今の王家は弱体化している。ふとした隙に、殿下は命を狙われた。大勢の騎士の目の前でだ。誰も、かれも動かなかった。唯一、ディモルだけが真っ直ぐに飛び出した」
剣を相手にするならばともかく、人は精霊を相手にすることは難しい。土の精霊がいるのだからと心の底で言い訳をする人間が大半だった。
「あいつの家は、強い精霊に守られているんだろう。どんな呪いも弾き返す、ってな。でもな、そうわかってても、何者かもわからない相手に、飛び込めるか? 自分よりもさらに強い精霊の呪いかもしれないのに」
ストックは知りはしないことだが、付け加えるのならば、ディモルには精霊の守りなどはじめから無い。ただあるのは呪いのみだ。
「あいつはそれができる。何が何もできないだ。自分では何も知らないんだ」
王太子の護衛達は、身分ばかりは立派だが、修練場で顔を合わせることなどほとんどない。事件があってから、王太子のお気に入りとなったディモルだが、ただ熱心に修行を繰り返していた。剣の腕だけなら、どう考えても自身が上だ。しかし、内にある強さはどうだろう。
身分なんてまったく違う。なのに、ストックとディモルは、ひどく馬があった。互いに隠し持った事実を抱えたまま友人となった。ストックは、彼をとても信頼していた。不思議な関係だった。
「説明は以上だ! さて、覚悟と理解のほどは上々か!?」
「え、えっ、あの!?」
「飛び込むぞ!」
ストックの掛け声に、黒馬が呼応するように唸りあげた。
ぐんぐんと森が近づいてくる。ルピナスと、ソップの故郷だ。彼女はアゼリアの服の中で震えて、懐かしい森をそっと見つめた。
たくさんの、思い出がある場所だ。
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