32杯目


「私も、ディモル様、いえ、王太子殿下のところまで、行きます。いえ、行かせてください!」



 アゼリアの決死の言葉であったが、ストックは釣り上がった瞳を、さらに釣り上げた。別に、怒っているわけではない。困惑しているだけだ。



「王太子殿下のところに? 俺はただ馬の世話を押し付けられただけだ。そもそもそんなところには行かねえし、言われたところで困るだけだな」



 黒馬の頭をなでながら、呆れたようにストックはため息をついたが、「いいえ」 アゼリアはすぐさま首を振った。



「あなたは王太子殿下のもとへ行くはずです。庭師のこと、そして、私のこと。ストックさんは、様々なことをご存知でしたが、それほどのことを知っているものなど、それこそ陛下であってもありえません。私達は土の精霊様の直属です。あなたがお話しされたことは先代亡き今、私と土の精霊様しか、知り得ないことです」



 その精霊も、すでに死んでしまっているのだが。



「……その先代からきいたことだ」

「この間お会いしたときは、先代とは会ったことがない、と言っていらっしゃいました」



 自身の言葉を思い返し、ストックは舌を打った。しゃべりすぎた、と後悔した。



「ならば、あなたに事実を告げたのは、土の精霊様に他なりません。精霊は死を予感します。自身が亡くなることがわかっていたのなら、彼はこの事態を予想していないわけがない。あなたは、彼から王太子殿下を守るように告げられていますね」



 これはただのアゼリアの予想だ。


 彼は優しい“人”だった。精霊であるのに、アゼリアよりも人らしく、儚く、優しい男だった。そんな彼が、全てを投げ出して、ただ死を享受するとは思えなかった。



 ストックは何もいわない。ただ瞳を細めた。「……で、それでなんだってんだ。あんたが来て、何か意味があるとでも?」 バーベナに言った台詞に嘘はない。何があろうとも、一度きりくらいなら、身を挺して彼を守ることができる。でも、ここまで来る間に、気がついたことがある。



「土の精霊様が、あなたに王太子殿下を守るように告げたのなら、“守り”も渡しているはず。それならば、私も何らかの力になれるはずです」



 アゼリアと土の精霊は、ひどく“相性がいい”。なぜなら、全ての命は土に宿る。土台があってこそ、植物の力は発揮する。彼女が庭園でのみ自在に力を操れる理由がそれだ。「……おっしゃる通りではあるが」 ストックは首元からつるした小さな袋をするすると取り出した。彼はそれをじっと見つめて、握りしめた。



「俺には理由がある。でもあんたには何もない。どうしてそこまでするんだよ」

「理由がなければ何もしてはいけないというの? 頭が固い、いいえ、その赤髪、さぞ元気に燃え上がっているのね!」

「そうだぞお嬢様、言っちゃえ言っちゃえ!」

「バーベナ、ソップ。少し静かにしてね」



 アゼリアの背後では二人がわっしょいわっしょいと両手を突き出しながらエールを送っているが、なんだかややこしくなってくるのでさすがに少し注意した。ルピナスだって、叫びたい言葉はあるのに、彼らにそれが伝わらない。そのことが、悔しかった。



 ストックは少しばかり頭をかいた。「いや、そこのお嬢様の言うとおりだな。あんたが覚悟を決めてるってのに、俺が文句をつけるのはおかしな話だ」 いいさ、とストックは笑って、黒馬に鞍を取り付けた。



「殿下も、ディモルも、とっくに妖精の森に向かっている。俺はこいつで追いかけるつもりだった。だてに、仕事は押し付けられてないぜ。気性は荒いが、足の速さは一番だ。ちんたら遅い馬車なんて目じゃねえさ」



 一人増えたところで、何の問題もねえよ、とストックはアゼリアを引っ張り上げた。もちろんルピナスだって、羽根を広げてアゼリアの服にもぐりこんだ。「ごめんなさい、バーベナ、ソップ! ここで別れてしまうけれど!」 こんな夜中に、二人にさせてしまう。無理やり連れてきたのはアゼリアだ。申し訳なく眉をハの字にさせたところ、「あらまあ!」とバーベナは口元に手を当てている。



「なんの問題もないわよ。こっちは夜のお散歩を楽しむことにするわ。何かあっても、ソップの風でひゅんっと飛ばしてあげるだけだし」

「たまにはおいらだって仕事するぞ。でも家に帰ったらドーナツを食べるぞ」



 もぐもぐするぞっ! と両手を広げる精霊を、はいはい、とバーベナが頭を撫でてやる。いいコンビだ。「それじゃあ!」 とアゼリアとストックは厩舎から飛び出した。



 馬に乗るなんて、初めてのことだ。頬を叩くように冷たい風が通り過ぎて、ときおり跳ねる振動に、誤って舌を噛んでしまいそうだ。実際に、手綱を握っているのはストックだった。アゼリアは彼の腰を必死に掴んだ。彼の姿を目にした兵士が諌めようと駆け寄るが、そんなものはお構いなしに馬は跳ねて闇の中に消えていく。



 見覚えのある風景など、すぐに消えてしまった。

 本領発揮とばかりに、馬は土の斜面を駆けていく。街から飛び出た途端に、確かに理解した。土の精霊は、死んだ。あんなに暖かく街を囲んでいた守りが、すっかり薄れてしまっている。唇を噛み締めた。ぐっと何かを飲み込み、アゼリアは顔を下に向けた。



「なあ、あんた」



 月のない夜道でも、不思議とところどころ、明るく輝いていた。苔だ。魔力を含んだ苔を少しずつばらまかれていた。夜でも大勢が歩けるようにと、儀式の一貫であるが、こちらが追いかけやすい反面、追手からもわかりやすい。アゼリアは顔をしかめた。



「さっきは、あんたには理由も何もないとは言ったけれど、本当なのか? まあ別に、なんでもいいんだけどさ。ただの興味本位だよ」



 どうしてそこまでするのだとストックはアゼリアに問いかけた。

 ばさばさと彼女の真っ黒なローブが風をふくんで膨れていた。このところ着ることのなかった服だが、やはり長く着たものだ。思い入れの一つはある。



「……私は、ディモル様に命を助けられたことがあります」



 伸ばされた手のひらを、今もよく覚えている。バケツをひっくり返したような雨の中だった。真っ暗で、何も見えなくて、アゼリアは、まるで夜のような場所にいた。



「命を助けられたから、その命で返すのか。たいそうな理由だな。助けられた命なら、大事に守って引っ込んでおいた方がいいと俺は思うけどね」



 ストックの言いたいことは、理解できる。けれど。「違います。ディモル様にとったら、忘れてしまうような小さなことですから」 アゼリアが、彼のもとに向かっているのは、決して過去の恩からではない。ディモルが、ディモルであるから。アゼリアにとって、夜の中で、きらきらと光る彼だから向かっている。「本当は、あなたの言うとおりに、きちんとした理由なんてないのかもしれません」




 忘れられない出会いはある。それこそ、忘れられない言葉も。



 ――――大切な方に告げられた言葉は、いつまで経っても忘れません。私にも、そんな言葉はあります



 ディモルにとってのそれは、先代との出会いであり、日記に書かれた文字のこと。


 アゼリアにとっての忘れられない出会いは、アゼリアが庭師となる前のことだ。ひどい雨だった。苦しかった。そのときに出会った幼い少年の顔を、アゼリアはこれから先、ずっと忘れることはない。

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