30杯目


「……アゼリア? アゼリア」

「えっ、あ、ご、ごめんなさい」



 両手でカップを抱きかかえたまま、ハッとした。ディモルがアゼリアを覗き込んでいたものだから、ふと、顔を赤くした。そんなアゼリアに気づいたから、ディモルも同じく照れてしまったのだけれど、アゼリアはぶるぶると首を振った。「すみません、少し、ぼうっとしていました」「……もしかすると、疲れているのかな。申し訳がなかったな」「いいえ、そんな」



 笑って誤魔化してはみたが、ディモルは気づかわしげにアゼリアを見ている。


 彼の察しの良さは、夜の記憶がないことから、生きていく上で、必要不可欠なものだった。できる限り入念に、アゼリアはなんてこともないような表情を作り上げた。しかしどうせ下手くそだから、それを含めてディモルには気づかれてしまっているだろうが、それ以上尋ねては来ないところが彼の優しさだ。



 持ったカップの表面に、静かな波紋が波打った。じわじわと、昨夜の会話を思い出した。俺が知っていることは、実のところ、そんなに多くはないけれど、とストックは語った。



 ――――あんたたち庭師は、人間じゃないんだろう




 ***




 まさかびしょ濡れのまま話を続けるわけには行かず、小屋の扉をあけるとルピナスが激突した。騒いで喚いて、ストックに向かいぴゃあぴゃあ泣く彼女を収めるのは一苦労だった。ストックには新しいタオルを投げて、アゼリア自身もまともな格好に着替え、テーブルの上にはランプを灯した。外では、しとしとと小雨が降り続けている。


 先程までの豪雨が嘘のようだった。



「あんたたち庭師は、人間じゃないんだろう。あの“花畑”を育てられることが、何よりの証拠だ。雪の中で咲く、一晩で散ってしまう花は、魔力で育つ。そんなものが、人に育てられるわけがない」



 雪の花だと、あのときディモルは呟いていた。花畑を育てることができるものが庭師であると、アゼリアはディモルに語ったが、それは本質を捉えたものではない。もちろん、敢えて告げはしなかったことだ。



「人ではないから、街で馴染むことができず、爪弾きにあってしまう。先代の庭師には会ったことはないが、同じような事情だったんだろう。そんなあんた達のことを、土の精霊は理解していた」



 その通りだ。アゼリアが、初めて土の精霊と出会ったとき、彼女はぼろぼろの姿だった。どこもかしこも怪我をしていて、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。それでも、生きる希望だけはあった。



「人ではないということは、誰でも知っているわけじゃない。でも、だいたいの奴らはわかるんだろうな。あんたたちを別のものと認識する。とくに精霊つきはその辺りは敏感だ。知っていれば大したことのない話なのに、知らないものだから違和感を得て、ただ視界からそらそうとする。下手をすると、蔑むような扱いをする」



『でも、こうして話してみると、本当に人なのね。当たり前のことのはずなのに、なぜかしら』



 これはバーベナの言葉だ。

 実のところ、アゼリアだって自分が何者なのかは分かってはいない。けれど、人と違うことは理解している。普通の人間は、木々の声など聞こえないし、それを自在に操ることなんてできない。もちろん、それは土の精霊の力が根強い、この庭園の中だけの話で、街に出ると彼女はただの無力な少女だ。



「……なぜ、あなたはそれほどまでに知っているのですか。私だって、よくわかってはいないのに」

「それは秘密だ。俺個人に関わることだから」



 ぴしゃりと門戸を閉ざされてしまった。仕方がない、とため息をした。「それで、ストック様は、私の命を狙っているのですか?」 命!? と言ったところでまたルピナスが暴れ始めたが、ややこしくなるのでアゼリアはむぎゅりと両手で彼女の口を押さえてしまった。



 彼が言う通りに、アゼリアはこの庭にいる限り、誰にも傷つけられることはない。彼に悪意がないこともわかっているから、何の恐怖もないわけだが、「ストックでいいさ。様なんて柄じゃない」と首を振って未だに滴る水をタオルで拭っている。



「庭園の庭師を殺せと言われてはいる。面倒な罪人だから内密にとのことだ。でもそれを、こんな下っ端の兵士に言うんだぜ? 終わった後で俺ごと処分をするってのは目に見えてるさ」



 ストックが事情通なことと、彼が命令されたことは、また別の話らしい。「あんたが殺される理由は想像できるぞ。ここは権威の象徴の場でもある。庭師を消してしまえば、荒れ放題の庭が残る。王家の失墜への第一歩だ」 影だと蔑んでいるくせに、あんた達を重要なものだと理解しているんだよ、とおかしげにストックは笑った。



「知らないんだよ。あんたがどれほど力を持っているのか。あんたたち庭師は、本当はもっと地位があってもいいはずだ。なのに一番の問題は、あんたたちが、それを望んではいないことだ」



 世捨て人のような生き方だと、アゼリアも先代に対して考えたことはある。アゼリアは、自分自身に対してはまったく価値を見出すことはできないが、先代は違った。彼は立派な庭師だった。アゼリアに、影になることはできないと幾度も短く言葉を告げた理由はわかるほどに。彼はアゼリアのように、特殊な力などなかった。それでも、いつまで経っても、アゼリアは彼に追いつくことなどできやしない。



「庭師に対してのお話は結構です。私達の生き方は、私達が決めることです」



 すでに庭師は、アゼリア一人きりである。彼女は人を傷つける瞳を持つ。そんな自身の地位など、それこそ一番下でいいくらいだと思っている。「私を殺したところで、土の精霊様がいらっしゃいます。ですから、何の意味もないことです」 むん、とアゼリアは口元をへの字にした。なんでまた、こんなに当たり前のことを言わせるのかと腹立たしさもあったからだ。



 ストックは、ひどくアゼリアを気づかわしげに見ていた。「本当に、知らないんだな」 一体なんのことだ。ゆらゆらと、ランプの中の炎がゆれている。奇妙な間があった。幾ばくか、ストックは逡巡するように瞳を伏せた。座り込んだ椅子から、ぎしりと身じろぎする音がする。



「土の精霊は死んだよ。つい数ヶ月前のことだ」



 雨が、激しく小屋を叩きつけた。



「え、そ、そんな」

「精霊にだって、寿命があることは知っているだろう。隠しきろうとしたところで限度がある。すでに多くの貴族が知っている事実だ。ディモルは王太子付きだからな。それこそ、ひっくり返るような騒ぎだったはずだ。土の精霊が消えてしまった当初は、家にも帰ることができなかったと言っていたしな」



 ――――久しぶりだね。ああ、疲れた。聞いてくれよ。ちょっと長期の任務でさ。泊まり込みだよ。きつかった



 この場で、初めてディモルと出会ったときのことだ。

 そのときには、すでに。アゼリアはひどく自身の指先が震えていることに気づいた。土人形の具合が、日に日に悪くなっていることも知っていた。このところ姿を見ないと疑問にも感じていたのに。



 ふと、ディモルを思い出した。先代がすでに死んでしまっていたことを告げたとき、彼は不思議な顔をしていた。悲しいのに、わからない。とっくに終わっていた事実を知って、愕然として、それでもくしゃりと顔を崩した。



 もしかすると、今のアゼリアとよく似た気持ちだったのかもしれない。

 涙は出なかった。そうするほど深いつながりがあるわけではなかった。ただ、優しげな青年の声や、仕草をもう見ることができないのだと思うと、悲しくてたまらなかった。



「今、この国は精霊に守られてはいない。あるのはただの土の精霊の残滓だけだ。長く守られた王家の歴史で、初めてのことだ。それこそ、多くの貴族たちが浮足立つのは仕方のないことだ。幼い王太子殿下を亡き者にして、自身が政権を握ろうと考えるものもいるだろう」



 何かがアゼリアの記憶の端に触れた。苛立つように話す少女の姿が頭をよぎった。



「お、オットーブレ家……?」

「なんだ、知っているのか?」

「いえその」



 バーベナは、もちろんこのことを知っているのだろう。噂好きのソップが、知らぬわけがない。セプタンス家の分家であるオットーブレ家が、怪しい動きをしていると言っていた。バーベナは公爵家の血筋だ。分家であるオットーブレも、もちろん名家に違いない。確信があるわけではなかったが、苦々しいバーベナの顔を思い出し呟いた言葉なのだが、あながち間違いではなかったらしい。



「あんたを殺せと告げたのは、そいつらだよ。庭の中にいりゃ問題ないときいてはいたが、違うなら逃してやろうと考えていた。無駄な心配だったな」



 確かにストックの剣先には殺意がなく、決定的にアゼリアの急所を狙うものもなかったが、随分乱暴な確かめ方だった。案外、彼は大雑把な性格なのかもしれない。



 国が、揺れていた。

 確かにあると信じられていた柱が、すでに崩れて、消え去ってしまっていた。静かに、静かに崩れ落ちていく音が聞こえる。



「わ、私に、何か、できることは……」



 不安ばかりが膨れ上がった。ざあざあと、雨の音ばかりが聞こえる。



「何も」



 ストックは、短く返答した。



「あんたにできることは、何もない。放ってりゃふらふらと街の外に出るからな。今後は俺以外にも、嬢ちゃんの命を狙うものも出てくるだろう。そうなる前にと伝えただけだ。何をして欲しいわけじゃない」



 確かに、庭園の中にこもっていろと理由なく伝えられたところで、以前ならば大人しくしていたかもしれないが、今のアゼリアは下手な伝え方をされれば反発していたかもしれない。



「これから、一体どうなるんですか」

「そりゃあ、新しい土の精霊が生まれるまで混乱は続くだろう」



 精霊は自身の死を意識したとき、新しい精霊を生み出す。幼い妖精に全てを委ねるのだ。ソップが、セプタンス家に新しく生まれ、バーベナを守っているように。新たな精霊が生まれるためには儀式の場が必要だ。ただしそれが王家となると様々な制約が生まれるだろう。



「何にせよ、嬢ちゃんはしばらくの間は庭の外には出るなよ。忠告したぞ」

「で、でも、儀式をするとなれば、妖精の地に行くんですよね? 土の精霊様が亡くなってしまったのなら、街の外の守りすらも、すでに消えているんじゃ」



 気づいた事実に、アゼリアは慌てて顔を上げた。もちろん、ストックと目を合わせぬようにと気をつけてはいるが、ひどく気持ちは焦るばかりだ。

 精霊の加護を持つ血族が、精霊の地と呼ばれる森に足を運び、新たな絆を願う。それが儀式だ。


 この庭を中心にして、土の精霊の力は、少しずつ街に染み込んでいる。確かに、以前のような力強さはすでに感じはしないが、それでもまだ、彼の力の残滓はある。しかし、街の外に出ればどうだろう。守りがなく外に出てしまえば、まるで襲ってくれと言わんばかりではないか。



「……王は病弱だ。部屋から出ることも敵わない。ならばかの地に赴くものは、王太子殿下となるだろうな」

「そ、それなら」

「ディモルには言うなよ。だいたい、言わずともあいつも理解している」



 彼は王太子付きの護衛なのだから、一番の危険であるはずだ。なのに。



 アゼリアは、強く瞳をつむった。何も、することができない。先代が静かに息を引き取ったときと同じ感情だった。彼はアゼリアに短くいくつかの言葉を伝え、その後、閉じた瞳を開けることは決してなかった。








 瞳を開くと、カップの中はゆらゆらと揺れていて、情けない顔をしたアゼリアが映っていた。


「アゼリア、やっぱり、あまり体調がよくないんじゃないかな」



 残念だけれど、今日のところはお暇するよ、と優しげな彼の声に、慌てて顔を上げた。「す、すみません。少しばかり、考えることがあっただけで」 本当は、ディモルともっといたい、なんてことはもちろん言えない。



「具合が悪くないならいいんだ。なんにせよ、今日はいつもよりも早めに帰らせてもらおうと思っていたんだ。しばらく、城に泊まり込みになるだろうから、こちらに来ることはできないんだよ。明日も早いんだ。でも、君に会いたくて」



 少しばかり、顔を見たかったんだ、とすっかり彼の中で癖になってしまった甘い言葉をアゼリアの片手を持ち上げながら告げた。しかし、アゼリアはそれどころではなかった。儀式は新月の夜に行われるものだ。その日も間近である。すぐにピンときた。儀式の日が近い。次にディモルがこの場に来るときには、全てが終わっている。いや、そもそも。



 本当に、もう一度、彼はここに来てくれるのだろうか。



 アゼリアは、ただ自身の力を嘆いた。無力で、愚かな影だ。ディモルは、アゼリアにとって、彼女とは正反対の青年だった。いつも夜空のように、きらきらと輝いていた。

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