29杯目
「嬢ちゃん、庭の中にすっこんどけって言っただろ?」
なぜ、彼がこの場にいるのか。アゼリアは瞳を細めた。ざくざくと、ストックはアゼリアに近づいた。そして、ぴたりと歩を止めた。片手には物騒にも剣を握りしめている。
ひどい風だ。深くかぶったアゼリアのフードでさえも吹き飛ばして、昼間とは違う色合いの、桃色のおさげが飛び出した。それでも、ストックは驚く様子もなく、ただ瞳を細めた。まともな明かりもない夜なのに、彼の金の瞳が爛々と輝いていることだけはわかる。
アゼリアは眉間に皺を寄せたまま、彼が持つ抜身の剣をじっと見つめた。ローブの裾が翻って暴れている。
「ああ、これか? そうだな。あんたは罪人らしいぞ。上の方々から、あんたを殺せとのお達しだ。忠告してやっただろう。庭の中にいておけと。それをほいほい街に出て、なんとまあ」
人の気持ちのわからんやつだな、とストックはため息をつきながら、後頭部をぐしゃぐしゃにかきあげた。確かに、頻繁ではないが、以前よりも外に出ることに抵抗はなくなっていた。一体、ストックが何者であるのか。わかりはしないが、特に恐れる必要もなかった。アゼリアは無言のままに青年と向かい合った。男は、ざくりと剣を地面に突き刺した。その仕草を見て、首を傾げた。そのときだ。
すぐさまストックは、隠し持ったナイフを幾本もアゼリアに投げつけた。あまりにも素早くて、アゼリアの瞳には捉えられない。ごう、と大きな風が響いた。雨まで降り出してしまいそうだ。ストックが投げたナイフは、たまたま吹き飛んできた木の枝に弾かれ、何の意味もなく転がった。
「なるほど」
いち、にい、さん。
息つく間もなく、どこから取り出したのか、彼はぞっとするほどのスピードでナイフを投げた。それは全て、“偶然”木々に阻まれ、アゼリアのもとに届くことはない。ぽたぽたと、とうとう雨が降り始めた。アゼリアは雨が嫌いだ。再度フードをかぶり、濡れた顔を片手で拭った。ストックの前髪がへばりついた。地面に突き刺した剣を、彼は片手で垂直に持ち上げた。くるりと持ち手を反転させ、アゼリアを狙う。彼女は剣の軌道、全てを避けきった。
まるで、普段の彼女の動きではなかった。ときおりすっ転んで、笑って、痛かったと尻をさする少女はどこにもいない。しかし、これは全てアゼリアが避けているわけではない。偶々、足がふらついた。偶々、ストックの剣の軌道が甘くなった。全ては偶然の重なりだ。しかしアゼリアは理解している。これは偶然などでは、決して無い。「恐ろしいやつだな」 ストックは口の端を噛むような仕草で笑った。
互いに距離を開けた。轟々と降る雨の中、アゼリアの足元では、多くの命が育っていく。凄まじい速さで、様々な植物たちが生まれ、育ち、彼女を囲った。アゼリアは片手を伸ばした。それはストックが剣を突き刺すように飛び出したと同時だ。「くっそ……!」 幾本もの枝がストックを狙った。「降参だ!」 ぴたりと、彼の首元にわずかに触れて、全ての動きは停止した。
バケツがひっくり返ったような雨は、次第に収まっていく。すっかり剣を投げ捨てて、両手を上げたストックを相手に、アゼリアはわずかに笑った。彼女も片手を収めると、しゅるしゅると枝がひいて元の姿に戻っていく。
「話には聞いてたさ。でも一応、自分でも確認したかっただけだ。わかった、認める。理解した。あんたはこの庭じゃ最強だ」
ストックはため息をついて、濡れた髪をかきあげた。真っ赤な髪から雫がしたたり、互いに服もびしゃびしゃだ。「わかっています。あなたには悪意がありませんでした」 全て、庭が教えてくれた。武器を持っている人間がいる。自分たちが守るけれども、彼は悪いものではないのだと。
以前、アゼリアはディモルに説明したことがある。
この庭にいる限り、アゼリアに危険などありはしない。
「あんたを殺せと言われたのは本当だよ。罪状は忘れた。どうせあんたも覚えがないものだ。だから言ったんだよ。庭にひっこんどけってな。あんたは、この庭にいることが一番安全だからな」
アゼリアの力を知る人間は、ほんの一握りだ。一体、なぜ彼が知っているのか。なぜ、アゼリアが命を狙われなければいけないのか。疑問ばかりがつきない。「まあまあ」とストックは目つきが悪いくせに案外人好きのする笑みを浮かべた。
「改めての自己紹介だ。俺の名前は、ストック・メーヴル。一応ディモルの友人だ。騎士の中でも一番の下っ端で、最近の仕事と言えば厩舎掃除に馬の面倒、あとは、あんたの暗殺命令かな」
敵ではないので、まあ安心してくれや、と彼は親指と人差し指で丸をつくった。それから、にかりと笑った。どうにも掴みづらい青年だった。
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