28杯目



 ぐしゅぐしゅと泣いている。



 さすがに三度目となると、アゼリアも慣れたものだ。金髪の少年が、わさわさと揺れるフェンネルの中で体育座りをして、瞳が溶けてしまいそうなほどに泣いていた。今日は、水をかけてしまう前に気づくことができてよかった。アゼリアはひっそりと息をついて、困ったものだ、と空を見上げた。



 ゆっくりと大きな雲が風に流されてふわふわしている。



「……何か悲しいことでもあった?」



 よっこいしょ、とアゼリアは少年の隣に座り込んだ。さすがのアゼリアだって、大粒の涙をこぼす年下の少年を相手にして、見ないふりなんてできやしない。お尻を泥だらけに、逃げていった少年の姿を思い出した。



 出会う度に、いつも少年は泣いていた。フェンネルの中にうまるように、小さな体をことさら小さくさせて、震えていた。「風邪、ひかなかったかな」 気になっていたことだ。少年はアゼリアの瞳を見て恐れていたけれど、びしょぬれのままに走り抜けていった。



 返事はなかった。ただ、膝の間に顔を置いて、ぐすぐすと鼻をならしているだけだ。アゼリアも、彼に倣った。ぼんやりと言葉もなく、前を見つめた。


 わさわさ。わさわさ。風が吹く度に、フェンネルが揺れるから、その形がよくわかる。ルピナスも、口をちょんと閉じて、器用にも宙で座りながらもふよふよと辺りを漂っていた。



 この場所は加護があるから、暖かくて眠ってしまいそうだ。ディモルと夜に出会うときは、少しばかりの洒落っ気を出すようになってきたアゼリアだが、昼間はいつもの黒いローブで、深くフードをかぶっている。頭上では、鳥たちが平和に鳴いている声がする。平和だった。その上ほかほかする。



 うつら、うつらと少しばかりアゼリアの頭が揺れたとき、ずずりと少年が大きな音をたてて、鼻水を吸い込んだ。おっとと、とアゼリアは顔を上げた。「ハンカチ、いる?」 少しの間のあと、ゆっくりと少年は首を振った。「……風邪は、ひいてないよ」 なんのことかと思ったが、アゼリアがした問いかけに対する返答だと気づいたのは、しばらく経ってのことだ。



「そうなの。よかった。あのときはごめんね」



 まさか水やりをしている中に、少年が混じっているなんて露ほども思っていなかった。



 ぶるぶると幾度も首を横に振る少年の姿は微笑ましかった。「ぼ、ぼくが、こんなところに、いたから……」 さすがに自身でもおかしな場所にいるという認識はあったのだろう。ここは小屋の裏手の畑だ。庭師の居住と知る人間なら普通なら近づこうなどと思わない。ディモルや、バーベナ達が変わっているのだ。それも一度アゼリアに会って、逃げ帰ったくらいなのに、よっぽどの事情があるのだろう。と、思ったら少年は顔を上げて、まっすぐに前を向きながら、やっぱり瞳をうるませた。涙腺の具合はもともと強くはないらしい。



「ここ、すごく、落ち着いて……」

「そ、そうなの」



 別に好きにして構わないけれど。もうちょっと別の場所も案内したいところだが、彼がこの場がいいと言うのなら仕方ない。大きな背丈の茎の間にいる小さな男の子は、傍から見ればすっかり姿が消えてしまう。



「……なんで、いつも泣いてるの?」



 きいてもいいのだろうか。ディモルならば、もっと上手く問いかけることができるかもしれないけれど、会話ベタのアゼリアだ。まっすぐに問いかけることしかできない自分が情けなくもあった。互いに瞳を合わせず、正面を向いて体育座りだ。不思議な時間だった。男の子は、すでに瞳が潤んでいたから、これ以上涙をこぼすことはなかった。きっと今まで瞳が溶けてしまうくらいにずっと泣いていたのだろう。



「ぼ、ぼく、嫌われてるから」



 だから、悲しいのだと少年は語った。あまり他人事のように思えない話だが、アゼリアと彼の事情はきっと違う。アゼリアは庭師であることも、影であることも自身で望んでいる。しかし少年はそうではないようで、苦しげに顔を歪めていた。「……嫌われているって、なんでそう思うの?」 そもそも、まだ幼い少年なのに、一体誰を相手に悲しんでいるのだろう。



 少年はアゼリアの言葉に、顔を伏せた。「だって、わかるもの」 ただそれだけだ。「話をしてくれなかった。僕が嫌で、いなくなっちゃった」 僕がこんなのだから、嫌われたのだと、最後にはやっぱり声を震わせて、ひんと泣いた。



「そっか。でも、こんなところに一人でいたら、ご両親が心配するんじゃないかな」

「お母さんは死んじゃったし、お父さんはずっと病気をしてるから」



 どうやらハードな人生なようだ。アゼリアごとき若輩者に口を出せる内容ではなかった。ばか、とルピナスが呟いている。それでも泣き続ける少年に、何かを言いたくてたまらなかった。ただ、慰めてあげたかったのだ。少年の涙を、少しぐらい減らしてあげたかった。泣いている人は苦手だ。夢の中で見る彼女は、いつだって泣いていた。



「でも、嫌いと言われたわけじゃないんだよね?」



 確認をしてみると、少年は少しばかり考えて、こくりと頷いた。「じゃあ、違うかもしれないよ。直接聞いてみないとわからないよ」 どうだろうか。ただの口から出たでまかせかもしれない。人にはたくさんの想いがあるから、それを全部言葉にすることなんてきっとない。



 少年は、泣き出しそうな瞳はそのままだったけれど、それでも、少しばかり溢れる涙はとどまった。でも、やっぱり泣いてしまった。自分の膝の間に顔をいれて、悲しくて、悲しくてたまらなくって、生い茂るフェンネルに隠れるように泣いた。アゼリアは、困った。それから、きょろりと視線を彷徨わせた。ルピナスがふよふよと浮いている。困って、両手をつむって、開けて、そっと片手を伸ばした。



 よしよしと。

 少年の金の頭を、ゆっくりと撫でた。彼は嫌がりはしなかったけれど、相変わらず泣いたままだ。でも、何かをしたかった。夢の中で、泣いている彼女が苦手で、ずっと背を向けていたけれど、本当はこうしてあげたかった。


 ふわふわの、柔らかい子犬のような髪の毛だった。泣かないで、なんて言葉を言うことはできないけど、一緒にいることはできた。ざわざわと、フェンネル達が揺れて、アゼリアと少年を影で包んだ。





 その日のことだ。


 アゼリアは小屋の中で、ふと顔をあげた。誰かが近づいている。窓にいくつもの小石が当たって、冷たい風が叫んでいる。ディモルではない。ルピナスに隠れているように告げた。怒っていたけれど、無理やり毛布にくるんで、アゼリアは扉をあけた。ひゅうひゅうと風が音をたてた。



 大きく木々が揺すぶられるような、狂風だ。ざくざくと、少しずつ足音が大きくなる。月明かりさえも曖昧な、ぼんやりとした明かりの中、ぬっと赤い影が彼女の前に立った。整った顔つきだが、目付きの悪い男がいた。「やあ嬢ちゃん」 青年の片手には、長い剣が握られていた。むき出しの刃が静かに光った。



 久しぶりだな、と口の端を上げる青年を、アゼリアは知っている。ディモルの友人であると言っていた男だ。

 ストック・メーヴル。赤髪に金の瞳の青年だ。



「庭の中にすっこんどけって言っただろ?」



 男はアゼリアを見て笑った。

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