25杯目


 アゼリアと、たしかに彼は彼女の名を呼んだ。




 なぜ、ディモルがこの場にやってきたのか。そんな疑問も、一瞬すっかりすっ飛んでしまった。「ディ、ディモル様……?」 アゼリアが彼の名を呼ぶと、青年はひどく悲しげに眉を八の字にした。ディモルからしてみれば、さっきの言葉はもうこの場に来るなとアゼリアが閉め出してしまったようなものだと気がついた。慌てて首を振って、「違います!」 叫んだ。



「……バーベナ様と、ディモル様がお話をされていたあのとき、私もその場にいました。お恥ずかしい話ですが、盗み聞きをしていたんです。ですから、もう、いらっしゃらない、ものだと……」



 言葉を重ねるごとに辛くなった。なのに彼が来てくれたことが嬉しくて、そんな自分も許せなくて、唇を噛んだ。ディモルはアゼリアとは見当違いに、「き、君も聞いていたのか」 わずかに耳元を赤くさせた。顔も、何もわからないくせに、はっきりと彼女ではないとわかった。そんな自分が不思議なのに、納得もしていた。ただ、それを彼女に聞かれていたと思うと、若干の恥ずかしさはあった。



 ディモルは視線をふらつかせながら、「いや、その、なぜ彼女が君ではないかとわかったのかというと、その」 どう言ったらいいのか。まさか好きだから、なんて言うわけにはいかない。いや、いっそのこと言うべきなのかと困惑をしていたとき、「違うんです……」 アゼリアは、二度目の否定をした。



「バーベナ様に、私はディモル様の秘密を伝えてはいません。ただ、私が原因なんです。きっとディモル様も、そう思われると思って、だから、もうここに来ないものだと……」



 ジューニョ家は、精霊に呪われている。強い精霊に守られているということはただの勘違いで、すでに大きな呪いに捕まっているから、他者から呪いを受けないだけに過ぎない。


 それは彼にとって、とても大きな秘密になるはずだ。ルピナスは、アゼリアの服の裾をそっと握りしめた。アゼリアは、そんな彼女の頭を、彼にはわからないように静かになでた。



 ディモルは、アゼリアの言葉をきいて、少しばかり瞳を大きくさせた。それから、少しばかり笑った。



「確かに、なぜバーベナが僕の秘密を知っているのかと不思議には思ったけれど、君が告げたということには思い至らなかったな。バーベナにも尋ねたが、彼女の精霊が教えてくれたのだと言っていたよ。彼女には風の精霊がついているから、噂話を集めることが得意だそうだ。そこまでは聞いてはいなかったのかな」



 アゼリアが呆然としている間に、二人はそっと消えてしまった。そのとき、話をしていたのだろうか。バーベナも、ルピナスが関わっていることを知らないのかもしれない。ルピナスはバーベナではなく、彼女の精霊に彼の秘密を告げたからだ。



「今日、僕がこの場に来たのは、ただアゼリアに会いたかった。それだけなんだ」



 ディモルは、そっとアゼリアの両手を掴んだ。温かい手のひらだった。彼の金の髪がきらきらとしていて、まるで周囲にいくつもの星が散っているようだ。さわさわと、木々の枝が踊るように音をたてた。部屋の中のランプが、ぴかぴかしている。



「あ、アゼリアって……」

「君の名前だ。間違っていたかな」



 隠しているようだったから、言えなかったけど、とディモルはそっとアゼリアの手を握りしめながら問いかけた。「い、いつからそれを……?」「もちろん、この間。君に名前を教えてもらったとき。フェンネルの名を教えてもらったからね」



 二人で一緒にお茶をした。グリーンティーを飲んだときだ。白いパラソルの下で温かいお茶を飲んだ。ふわふわとした甘い泡を口にする前、うっかりアゼリアは彼に名前を名乗ってしまった。でも、影なのだと教えてはいないし、彼がこの場で初めて飲んだハーブティーを、フェンネルティーなのだと伝えたところで、なぜ彼が気がついたのか。いくら考えてもわからなかった。



 そんなアゼリアの心情を理解したのか、ディモルはひどく楽しげに笑った。まるでいたずらを楽しむ小さな子供のようで、とても可愛らしい顔だった。



「僕は最近飲んだハーブティーを尋ねたんだよ? それを君は、夏にできる花なのに、即座に答えた。貴族の店でも季節の違う花は売られているが、まさかハーブまでは売られていない。冬にフェンネルが咲くのは、季節が狂うこの庭でしかありえないことだ」

「で、でも、もととなるフェンネルシードは長期に保存することができます。そんなの、なんの確証にもなりません」

「よぅく、思い出してくれ。君は、作りたては特に味わい深い、とも言っていたよ。作ったばかりなのだと知っていた。僕が君の言葉を一言一句逃すわけがないに決まっているじゃないか」



 まるで告白のような言葉だと気づいたのは、言った本人のディモルだけだ。アゼリアはただぐるぐると考えばかりが巡っていた。まさか、そんな小さな言葉で彼が気づくだなんて思わなかった。ただただ、自身の甘さに呆れた。



 互いに手のひらを掴んだまま、アゼリアは小さくなって足元を見つめた。ディモルは彼女に赤らんだ顔が気づかれないことに安心した。それから、固めた嘘を、覚悟を決めて引っ剥がした。



「嘘だよ。全部とってつけた嘘だ。確かに、君の言葉で確信はしたけど、ただ、わかったとしか言いようがない。君と並んでお茶をしていたら、君がアゼリアだと分かっただけさ」



 とても恥ずかしいことに、それ以外に考えられなくなってしまった。

 アゼリアは、いつもディモルといると、わけがわからない感覚に襲われる。嬉しいのか、悲しいのか、不安なのか。それとも、全部がぐちゃまぜなのか。唇を噛み締めた。「でも、答えが欲しい。僕は間違っているのかな」 小さく彼女の耳元で呟いた。ぴくりと彼女は震えて、そっと彼から手のひらを逃して、ゆっくりとフードを抜いた。



 桃色に花咲いた彼女の髪が、ふわりと揺れた。口元をへの字にして、足元ばかりを見つめていたけれど、それでもディモルは笑った。嬉しかった。



「やっと君に会えた、アゼリア」



 やっぱり、恥ずかしくてたまらない。なのに、夜がきらきらと輝いていた。小屋の裏手に咲いたフェンネル達は、きっと今頃おかしげに笑っている。さわさわ、さわさわ。黄色い小さな花たちをこすり合わせて、楽しげに踊っているのだろう。



 頭の上にある星空は、さきほどまでと変わらないはずなのに、ことさらぴかぴかしていて、月だってまん丸い。夜がこんなに綺麗だっただろうかと感じるのは、ディモルといるといつものことだ。



「ディ、ディモル様……」



 小さな言葉をすりだした。ルピナスが、彼女にしか聞こえない声で静かに呟いている。お願い、アゼリア。「ここにいるのは、私、だけではないんです……」 見えない友達の存在を告げるのは、とても勇気がいることだった。でも、ルピナスが願っていた。お願い、伝えて。意味のないことかもしれないけれど、ごめんなさいと、そう言って。



「妖精が、一人、私の後ろにいます。ディモル様にも、誰にも見えませんが、可愛い、小さな女の子です。昔から、ずっと一緒にいる子です。彼女が、バーベナ様の精霊に、ディモル様の秘密を伝えてしまいました」



 言葉を吐き出すことに必死だった。暖かいと思っていた胸が、すっかり冷え込んでいた。ルピナスも小さな頭をじっと垂らした。アゼリアの服を握りしめた指先は、震えていた。



 さすがのディモルも、その言葉には驚いた。見えない誰かがいるなんて、思いもしなかったことだからだ。「そうか、それなら……」 ううん、と彼は顎に手を当てながら考えた。「今度は、もっとたくさんのお菓子を持って来なきゃな。まさか三人分だとは思わなかった」



 彼の返答をきいて、アゼリアは、泣いていいのか、笑っていいのか分からなかった。でもくしゃくしゃにした顔で、やっぱり笑っていた。もう一度、ディモルは彼女の手を掴んだ。




 たくさんの星が、頭の上で流れていく。

 ひとつ、ふたつ。きらきらの尻尾をひいて、流れるように消えていく。

 嬉しくて、不安で、でもやっぱり嬉しくて。彼の手のひらを握ると、とても温かくて、硬くて、どきどきした。幸せだった。







 なのに、夢の中では、やっぱり彼女は泣いていた。桃色の、アゼリアとよく似た髪の色を持つ女が、ぽろぽろと美しい涙をこぼして、泣いている。いつも見る夢だ。



 悲しくて、悲しくて、ただ、泣いていた。

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