24杯目
「夜にお会いしているではありませんか。そのときの庭の景色を、お伝えしてみせましょうか」
――――バーベナがアゼリアの立場をそっくり盗み取ってしまった。
そんなわけ、ない。
バーベナは公爵家の令嬢だ。いくらアゼリアと髪色が似ていようと、夜中の庭園に、彼女がいるわけがない。ディモルの日記に、どこまで書かれているかはわからないが、アゼリアは彼に庭師と名乗った。貴族の令嬢が、わざわざ蔑まれているその名で告げるだなんて、おかしいに決まっている。
しかし、バーベナとてその程度は理解しているはずだ。言い訳などいくらでも用意しているだろう。屋敷の中からこっそりと抜け出していたから、名前を名乗ることができなかった。だから、影と告げた。これくらいの返答なら、アゼリアでも思いつくことだ。バーベナは、それこそ入念に準備しているに違いなかった。
お誂え向きに、ディモルはアゼリアの名すらも知らない。アゼリアが、“影”としか名乗らなかったからだ。
ディモルは、文字でしかアゼリアを知らない。それこそ、彼が夜を知らないように。昼の彼が、いくら想像したところで、彼はアゼリアに近づけない。
奇妙に胸が痛かった。アゼリアは唇を噛み締めた。違う、という言葉を叫びたかった。そう考えた自身に驚いた。名前を言わない、必要以上に関わるつもりもない。ルピナスの言葉もあったが、決めたのは自分自身だ。
なのに、こんなにも苦しい。
彼らを見ることも辛かった。吸い込む空気が冷たくて、胸の奥まで凍ってしまいそうだった。アゼリアは菫色の瞳を強くつむった。体を硬くさせて、鞄の紐を握りしめ、店の壁にもたれかかった。それから、目尻から零れそうになる雫を必死で拭った。
仕方のないことなのだ。わかっている。とにかく、胸が痛かった。無理やりに吐き出した息と、口元は震えていた。
ディモルが、静かに息を飲み込む音が聞こえた。バーベナに、言葉を返すのだろう。様々な想像を膨らませた。どれもこれも、悲しくて、聞きたくなんてなかった。でも、耳を塞ぐ手のひらすらも動かなかった。
「それは、違う」
だから、聞こえた言葉に、アゼリアはゆっくりと瞳を瞬かせた。
「違う? なぜ? 不思議に思われることは、無理のないことですわ。けれど、私にはあなたとの記憶があります。ゆっくりと話をすれば、すぐに誤解は解けますわ」
「悪いけれど、君が彼女じゃないということは、はっきりと分かる。いくら話したところで無駄だよ」
ディモルは静かに首を振った。「言っていいことと、悪いことがある。きみはなぜ、そんなことを言うんだ?」 一体、何が目的なのだと。怪訝に少女を見下ろした。「間違いなく、君は彼女じゃない」 はっきりと、ディモルは言葉を告げた。
「な、なにを……」
バーベナは、伝えるべき言い訳を口にしようとして、それが無意味であることに気づいた。それから、みるみるうちに顔を赤くさせた。恥で埋め尽くされた顔は、すぐさま扇子で隠されたが、真っ赤な耳は丸見えだ。
始めは、聞き間違いかと思った。けれども違う。二人が去ってしまったあとも、アゼリアは動くこともできずに幾度もディモルの言葉を思い出した。一体、自分自身がどういった気持ちなのか、アゼリア自身にも分からない。ただ胸元を握って、幾度も肩で息を繰り返して、どんどん小さくなってしまう。路地裏に座り込んだ。「あ、アゼリア……」 ルピナスが、気遣わしげな声を出していた。
バーベナにも負けず劣らず、アゼリアの耳元だって、真っ赤に染まっていた。
嬉しい、のだろうか。わからない。ただ、理解していることもあった。ディモルは、もうアゼリアのもとには来ない。彼との夜のお茶会は、開かれることはない。
立ち上がった。ずんずん進んだ。来るときは時間をかけて、ゆっくりとレンガ道の坂を上ったというのに、アゼリアは息を切らしてとにかく走った。いや、逃げ帰った。
転がり落ちるように木々のアーチを通り抜けて、いくつもの小さな足跡をつけた。周囲の景色に目を向けることもできなくて、やっとのことで小屋に飛び込んだ。荒い呼吸を落ち着かせて、額の汗を拭う。もう一度、大きく呼吸をして、天井を見上げた。
きっと、彼は、もうこの場所に来ることはない。
ずるずると扉に背をもたらせて崩れ落ちた。
「アゼリア、ねえ、どうしたの……?」
ルピナスが、彼女の周囲で細い羽根を揺らしていた。
バーベナは、ディモルの秘密を知っていた。彼は疑問に思うだろう。一体、誰がバーベナに、彼の秘密を告げたのかと。
彼の秘密を知っているのは、アゼリアと先代だけ。死者に口があるはずもなく、それなら残るは一人きりだ。ディモルは、アゼリアがバーベナに、彼の秘密を教えてしまったのだと考えるだろう。秘密にしてくれと言われたのに、あっさり禁を破ってしまったのだと。
そんな女のところに、彼がやってくるわけが、ない。
片手を顔に当てた。長い、長い溜息がでた。もちろん、アゼリアがバーベナに、告げるわけがない。
「ねえルピナス」
小さな妖精に目を向けることなく、片手で顔を覆ったまま、彼女はといかけた。
「なんで、あんなことをしたの……?」
ふわふわと、アゼリアの周囲を漂っていた妖精は、ぴたりとその動きをとめた。沈黙が答えだった。「……なんのこと?」 遅れた言い訳にはなんの意味もない。アゼリアは自身の髪をかいた。ただ、冷静であろうとした。「嘘は」 必死で言葉を吐き出した。「嘘は、やめよう。わかっているから」
おかしいと思っていたのだ。街を好いてはいないはずのルピナスが、今日に限って外に行こうと提案した。ディモルが来た瞬間、隠れるように合図を行った。その上、バーベナの登場だ。あまりにも作られすぎている。まるでアゼリアに、全てを見せるための舞台であるかのようだった。
ディモルが、バーベナの言葉を否定することまでは予想はしていなかったのだろう。あのときのルピナスは、アゼリアとともに驚いている様子だった。バーベナの周囲には、いつも少年の精霊がいた。以前に出会った際、ルピナスは少年を見た途端、アゼリアの背に隠れてしまったが、もしかすると、仲の良い悪いはともかく、その精霊とも知り合いであったのかもしれない。ルピナスが、直接バーベナと言葉を交わす様は、少し想像しづらかった。
「私はただ、理由が知りたいの」
なぜ、彼女がそんなことをしたのか。
小屋の中は、周囲よりも暖かいはずなのに、すっかり冷たくて凍えてしまいそうだった。アゼリアは、じっとルピナスを見つめた。彼女はただ、静かな表情のままアゼリアを見た。「……人間は、嫌いだからよ」 はっきりとした声だった。ルピナスは、ずっとディモルを嫌っていた。
「友達がいたわ。騙されて、傷ついて、とっても泣いてたわ。私はアゼリアに、そうなって欲しくはない」
なるほど、とアゼリアは理解した。ルピナスの言葉を、頷いているくせに、ずっと聞き流していた。その度に、彼女は悲しげな顔をしていたのに、見ないふりを繰り返していた。次こそは大丈夫だからと言った言葉は、形だけの不誠実な返答だった。「ごめんね、心配してくれていたのに」 申し訳なく思った。後悔した。でも、それでも。「ルピナス」 アゼリアは、ルピナスの小さな頬を、そっと両手で覆った。
「あなたのそれは、いけないことだわ。人の秘密を、勝手に話してしまったのよ。とても、とてもいけないことだわ……!」
言葉の最後は、しゃくりあげてしまった。ぽろぽろと勝手に涙が溢れた。ルピナスは、ただ、表情を硬くしていた。くるりと瞳がきらめいたと思うと、鼻をすんとひくつかせた。ルピナスの瞳は、様々な色が入り混じって、不思議な色合いをしていた。それと同じように、多くの感情が彼女の瞳を駆け巡った。ぽたりとひとつ、大粒の涙が落ちた。ひくつく喉がとまらなくなって、ぼたぼた大きな涙があふれていく。
「だ、だって」
駄々をこねた。でも、本当はルピナスだって、自分が間違っていることは知っている。彼の日記の言葉を見て、腹が立って勢いよく蹴り飛ばしてしまおうかと思った。でもディモルは、あの男ではない。ごめんなさい、と言うことができたらどんなにいいだろう。そんなの、今更なんの意味もない。だから言えない。嘘だ。
「ご、ごめんなさい……!!」
ルピナスの口から、勝手に後悔が飛び出していた。
謝ってすんでしまうことでないに決まっている。出した言葉は、戻ってくることはないのだから。アゼリアも、強く自身の瞳を袖で拭った。唇を震わせて、アゼリアとルピナスは、二人で抱き合って、ぼろぼろと涙をこぼした。
ディモルに、謝らなければいけなかった。秘密を守ると言ったのに、嘘をついてしまったこと。こっそりと、彼らの会話を盗み聞きしていたこと。
でも、ディモルはもう、この場所には来ないだろう。弁明の場を設けることはできないのだ。それに、伝えたところで何も結果は変わらない。
その日、アゼリアとルピナスは、二人で泥のように眠った。星空の数を数えることなく、二人で一緒にベッドに入った。こんこん、と扉が叩く音がする。寝ぼけ眼に毛布から顔をのぞかせて、控えめに再度叩かれた音をきいて、アゼリアは飛び起きた。ノックの音が響いている。
寝間着から急いで着替えて、ローブをひっかけて、フードをかぶる。「やあ」 ディモルだった。何もいつもと変わらない。ルピナスが、見えもしないくせに羽根を震わせて、とにかく小さくなってアゼリアの背に隠れていた。
「え、あ、あの、ディモル様……?」
「ごめん、この間も来たばかりだったのに」
「それは、構わないのですが……」
いつもならば、いつディモルが来てもいいように、お茶の準備をしているのに、今日は何もしていない。ディモルも気づいたのだろう。寝起きの声が恥ずかしくて、アゼリアは顔を下に向けた。もともと、フードを深くかぶっているから、見えやしないけれど。
「なぜ、ここに来たのですか……?」
問いかけた言葉は一つだけだ。互いに扉に立ったまま、何も言えなくなった。アゼリアは、ディモルの顔を見ることもできなかった。だからどれだけ彼が悲しげな顔をしていたのか、彼女にはわからなかった。真っ暗な夜の中で、彼はぽつりと立っていた。「だめだろうか」 彼女が喜ぶと思って買った手土産は、ディモルにとってとても軽くて、なのに重たくて、心臓だって痛くなるのに。
「アゼリアのもとに来たいと、僕が思うことは、だめだろうか」
呟くような声だった。
なのに、アゼリアの耳には、はっきりとその言葉が聞こえた。
彼に名を、呼ばれた。
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