終章 空を見上げて

26杯目

 泣いている女の人は苦手だ。


 アゼリアには苦手なものがたくさんある。雨だって苦手だ。でもやっぱり、一番悲しくなってしまうのは、泣いている女の人を見たときだ。



 夢の中の彼女は、いつも悲しげに泣いていて、何かを言いたくてたまらない様子だった。




 ***




 毎度、起きたときには物哀しい気分になる。まるで、しくしくと耳元で泣かれているような。ゆっくりと、アゼリアは瞳をあけると、実際に彼女の耳元では涙どころか鼻水まで垂らしたルピナスが、ひんひん泣いていた。



「……あ、アゼリアぁ、ごめんねぇ……」

「いやそれはもういいから……」



 あまりよろしくない目覚めである。ルピナスの人間嫌いは筋金入りだ。お菓子を持って来てくれるというディモルの言葉に喜んで、しかしと頭を振って、苦しんだ。苦々しく謝罪の言葉を口にして、むぎゃあと暴れて地に伏して、「やっぱり嫌い!!!」と叫んだあとに自分の頭を抱えていた。



 アゼリアよりも長く生きている彼女だ。長らく患った思いを切り替えることも難しかろうと、何とも言えない気持ちで苦しむ彼女を見ていたが、そんな自分自身を許せないのか、ルピナスは唸り続けていた。もちろんその様子はディモルには見えていない。



 その思いを朝まで引きずったのか、ずるずるの鼻水をぶひんとかんで、窓から当たる光の中で真っ白になってしまっている。大丈夫だろうか。





 とりあえずとアゼリアは朝の支度を行った。未だに、夜のことを思い出して、アゼリアと呼んでくれたディモルの声を考える度に、ぴたりと手のひらが止まってしまう。幾度も反芻して、はっと目を開けて首を振った。真っ赤になるくらいに頬を叩いたのに、ふとすると彼の笑みを思い出してしまう。外からちゅんちゅんと雀たちが語る声が聞こえるが、まるで笑われているように感じる。



「だ、だめ、ルピナス。なんだか私、もうだめだわ」

「私もよ、アゼリア。に、人間なんて嫌いよ、嫌いなの。き、ききき、んむぎゅう」

「そんな口を思いっきり押さえなくても……勝手に出てくる想いはあるもの。仕方ないことだってきっとあるわよ」



 よっぽど、ルピナスは古い彼女の友人のことが好きだったのだろう。消えない想いは、どこにでもある。アゼリアの中にもあるように。


「まあ、ディモル様を好きになってくれたら、もちろん嬉しいけど」と準備した朝食を口にして、ぼんやり窓からの日差しを眺めていたとき、扉が小さくノックされる音がした。珍しい、と思うのは夜に来るディモル以外に、こんな掘っ建て小屋を訪ねる人間など滅多にいないからだ。



 怪しみつつも、ここは庭園の一部でもある。だから大丈夫と判断した。アゼリアはフードをかぶりながら、すぐに返事をして扉を開けた。そして面食らった。バーベナが立っていた。



 伴など誰もつげず、ピンクブロンドの髪を日差しの中で光らせて、むんと胸をはりながら。さすがにアゼリアは逃げ帰った。扉を閉めるまではできなかったものの、勢いよく後ずさった。まさか自分がこれほどまでに速く動けるなんて知らなかった。ルピナスもアゼリアと同じく固まっていた。バーベナは、ふんと鼻をならして、「失礼するわ」 ずしずしと乱入する。



 言葉のない悲鳴が、アゼリアの口から漏れた。件の少女が、まさか一人きりでこんなところに来るなど、誰が予想できるだろう。もともと、ディモル以外の人間と話すことすら苦手なのだ。問いかけることも下手くそにできることはあわあわ両手を動かすくらいだ。



「あなた、“庭師”ね? 日記には、名前は書かれていなかったけれど、私には教えてくださるの?」



 はっきりとした声だ。「あ、アゼリアです……」 もちろん、首を振ることなんてできなかった。あれだけディモルが時間をかけて聞き出したアゼリアの名を、バーベナは一瞬で引きずり出した。言葉に腕力を持つ少女だった。「そう、アゼリア」 バーベナはひどく整った顔つきの少女だったが、一見すると冷たくも見える。風の精霊を守りに持つ彼女だ。その冷たさが、よく似合ってもいた。



 バーベナは、鋭くアゼリアを睨んだ。蛇に睨まれたカエルのようにアゼリアは動けない。に、にげてー! とルピナスが叫んでいる。「私、あなたに言いたいことがあって、ここに来たのだけれど」 怖い。しかしもちろん逃げられない。



 思いっきり、息を吸い込みながらのバーベナの言葉に、何を言われるかと思った。いくら罵られたところで慣れてはいるので問題はないが、覚悟は必要である。まさか殴る、蹴るはされないだろうが、念の為と呼吸を整えたとき、バーベナは拳を握った。やはりなのか。しかしそれが振り下ろされることはなく、ただの気合の表れだったらしい。彼女は叫んだ。



「アゼリア、本当に申し訳なかったわ!!!」



 卑劣な行いであったと、彼女は言葉を続けた。「ごめんなさい、謝っても済まされるものではないけれど」 下げた頭の首元は真っ赤に染まっていて、アゼリアは幾度も瞬きを繰り返した。



 一体、何が起こっているのか。公爵家の令嬢が、ただの庭師である自身に頭を下げている。そんなこと、あり得るはずがないのに、事実なのだ。バーベナの背中から、ぴょこんと飛び出た水色の小さな姿は、少年の精霊だ。「おいっす!」 人好きのする笑みだ。空気を読まずにへらへらしている。



「いやあ、うちのお嬢さんがすみませんねぇ! おいらはソップ。やっほう、ルピナス! こないだぶ、ふぃい!?」



 呑気にへらへらとする精霊をバーベナは激しく拳で握って上下にシェイクさせた。恐ろしい扱いだった。ルピナスまでもがぞっとして、口元を両手で覆っていた。



「ごめんなさい、これはうちのセプタンス家の精霊よ。お恥ずかしながらなんだけど。今日は、私、あなたに謝罪をしに来たの。よければ、上がらせていただいてもいいかしら。まあ、もう上がってるんだけど」





 ***





 バーベナは、ことの次第を語った。手元にはさっぱりとした味わいのフレーバーティーだ。小屋の中は暖かいから、無理に温かいものを飲む必要はない。乾燥させたフルーツを紅茶の中に漬け込んだら完成の、お手軽なお茶会だ。


 バーベナはひどく話しづらい様子だったから、飲みやすいものにしたつもりだ。



 ありがとう、と礼を言って、彼女はゆっくりとアゼリアの紅茶を味わった。すっきりした喉越しで、止まっていた言葉を表に出すに、一役買ったらしく、少しずつ、彼女は説明してくれた。



 ソップは、セプタンス家に新しく生まれた精霊の子だ。

 つまり、以前にセプタンス家についていた精霊はバーベナが生まれた頃に死んでしまった。精霊にも、寿命はある。長く生きる精霊もいれば、陽炎のようにあっさりと消えてしまうものもいて、彼らの寿命がどういったものか、誰にもわからない。



 精霊は長く生きれば生きるほど、力を増す。しかしソップは見ての通りのお調子ものだから、魔力を磨くつもりなんて全然ないし、楽しいことやいたずらが大好きで、見かけと同じく、まるで子供みたいな精霊だった。



 セプタンス家はプランタヴィエ国でも有数の貴族だ。権力は上から数えた方が早いし、何者にも脅かされることはない、というのは過去の話で、貴族同士の関係も、精霊の力がものを言う。



「最近は、セプタンス家の分家である、オットーブレ家が大きい顔をしているのよ。あそこは火の精霊がいるわ。当主は嫌味なジジイよ。怪しい動きばかりしていて、隙あらばとセプタンス家の失墜を狙っているんだけど」



 怒りのあまりに震えるバーベナの手元が、カップとソーサーがかちゃかちゃと音を鳴らすものだから、はわわとアゼリアとルピナスが両手で口を塞いでいる。ビキビキしている。どうか落ち着いて欲しい。ソップは腹を抱えて笑っていた。



「貴族の間で、悪い噂がたっているわ。今こそとあの糞ジジイは調子に乗っているんだもの。セプタンス家が有数の貴族であったのは過去の話よ。のし上がらないと、潰れてしまうわ。それならどうすればいいか。精霊の加護を持つ、新しい血筋を取り入れたかったの。そこで言うと、ディモル様はとっても素敵な案件だったわ」



 つまりバーベナは、ディモルに恋していたわけではない。そう気づいて、ほっとする自身が不思議だった。


 公爵家の人間を、今更取り込むことは難しいし、侯爵家の人間達が、そうやすやすとバーベナの思惑を望んでくれるとは限らない。反対に、セプタンス家が飲み込まれてしまう可能性もある。それならば、伯爵家の、それも強い精霊を持つと噂されるディモルの存在を、バーベナは以前から意識していた。



 ソップから聞いた事実で、実際はただの呪いつきの一族であると知ったのだけれど、そんなものはどうでもいい。問題は、周囲の評価だ。ジューニョ家を取り込むことができれば、確実にセプタンス家の地位は向上する。呪いは男にしか現れないのだから。



 ソップは噂話を集めることが得意だ。その力を使って、バーベナは周囲の令嬢達に一目置かれていた。だからこそ彼女は、人々の噂話が、どれほど重要な力を持つのか知っている。


 ディモルは恋多き男と噂されてはいるが、それがただの嘘であることをバーベナは知っていた。ならばどうして籠絡させるか。枕元に落ちてきた日記は天啓だった。



「私には見えないけど、そこにもう一人、妖精がいるのね? その子から教えてもらったということは知らなかったけど、ソップから話をきいて、日記はすぐに彼のもとに返させたわ。いつまでも持っていては彼が怪しんでしまうでしょうから」



 そして策を練った。自身をアゼリアであると言い通せるとは思ってはいなかったが、好きだと勘違いをさせて、適当に色恋を煽ってやろうと思ったのだ。あの青年は、見かけと中身がかけ離れている。バーベナの手のひらの上で転がすなど、児戯にも等しい。はずだった。

 それが、出鼻からくじかれて話すらも聞いてもらえないだなんて、思ってもみなかった。




 そのときの感情を思い出して、改めてバーベナは赤面した。焦っていた、と言えばそのとおりだが、何の言い訳にもならない。他人の立場を乗っ取り、自身のものにするなどあまりにも卑劣な行いで、謝っても謝りきれない。バーベナはディモルの秘密を知ってしまったわけだが、そのことを言いふらせるわけがない。なぜなら、それは同時に、バーベナの悪事すらも露呈してしまうからだ。そんな恥知らずになれるはずもなかった。



「あなたの姿は、ディモル様の日記を読んで、すぐに様子見しにいったわ。髪の色が違うことには驚いたけど、姿を見て、なんとかなるかもしれない、と思ったの」



 アゼリアとバーベナの背丈はよく似ている。

 ドレス姿でアゼリアを睨んでいたバーベナを思い出した。不思議な光景だった。



「ちなみに、嬢ちゃんの場所はおいらが探したんだよ。街中程度なら、なんでもわかる。おいら、噂話に嫌がらせが大好きだ。なんでもまかせてくれな!」



 バーベナは無言でソップを握りつぶした。オウ、とアゼリアとルピナスは静かに自分たちの瞳を覆った。バーベナは言葉のみならず、実際に力強い腕力を伴う少女であった。



 しかし不思議だ。以前見た、周囲に貴族の令嬢達を伴わせていたお茶会での彼女はずっと威厳があったし、口調だって違う。本当に、同じ少女なのだろうかという疑問まで湧いてくる。


 バーベナは、そんなアゼリアに気づいたらしく、小さく肩をすくめた。



「他の精霊は知らないけど、この子はとってもちゃらんぽらんでしょ? こんな子とずっと育ってきたのよ。しょうがないと思って頂戴。本当は私、かたっ苦しいことなんて嫌いよ。ただ、貴族である責任は持っているつもりだから、向上心だけは強いの」



 この子に比べたらお淑やかに育ったほうだわ、と改めて紅茶を飲むバーベナに納得した。「それにしても、アゼリア。あなた、家の中でもフードを取らないの?」 反射的にひん剥かれてしまうかと思ったが、さすがにそこまではしないらしい。「人と目を合わせることが、苦手なので……」 言い訳に、ふうん、と頷いた。



 なんにせよ、だ。



「許すも許さないも、私は何も被害は受けてはいません。ただ、確かに驚きはしましたが、ディ、ディモル様が……」



 違う、とはっきりと言い切った彼の姿を思い出して、また頭から湯気が上ってきた。おうおう、とソップが冷やかすような声を出しているが、バーベナは無視した。



「そうね、ここに来たのも、私のただの自己満足のようなものだし、あなたからすれば、謝罪を続けても困らせてしまうだけよね。あなたが被害者で、私が加害者であることは、ひっくり返っても変わらないわ」



 そんなことは何も思ってはいないけれど、アゼリアが言ったところで、バーベナがただ惨めになるだけなことは分かっていた。だから、アゼリアは口をつぐんだ。それきり、誰も何も言わなかった。ただ静かに紅茶を飲む音がする。外からは軽やかな鳥の声がきこえた。



「……ねえ」



 沈黙を破ったのはバーベナだった。アゼリアが目を合わすことが苦手と言っていたから、とても気にするような視線だった。ディモルにせよ、バーベナにせよ、貴族として特殊な人間であることは間違いない。「あなたって、ちゃんと人間なのね」 しかし言われた言葉に首を傾げた。



「私、なぜだか心の底で、あなたを人間だと思っていなかったの。庭師はそういうものってわかってるわ。メイドたちのように、私に仕えてくれる人たちだって、本当はそう考えるべきよ? わかってるの。でもね、あなたは違う。無意識に、私とは違うものだと考えていたわ」



 だから、一瞬でも、立場を乗っ取っても許されると考えたというのは、ただの言い訳なことに違いはないが。



「でも、こうして話してみると、本当に人なのね。当たり前のことのはずなのに、なぜかしら」



 アゼリアはじっと自身の手を見つめた。バーベナの言葉のとおりだ。庭師は人ではない。人と交じることのできない、はみ出しものたちが集まる勤めだ。そういったものたちを、土の精霊は集め、居場所を与えた。


 バーベナは、静かに手元の紅茶を見つめた。これはバーベナのことを想って、彼女が飲みやすいようにと淹れられた紅茶だ。



「お茶、とっても美味しいわ。ねえ、もし、よければなのだけど。私、またここに来てもいいかしら。こんな性格だから、本当は友達なんて一人もいないの。もちろん、そうなってくれってお願いしてるわけじゃないわ。友達なんて、望んでなるものじゃないものね」



 だから、その、ともごつくように話すバーベナの背を、呆れてソップが叩いた。たまらず、バーベナは叫んだ。「お茶、美味しかったわ!」 さっきも聞いた言葉だ。



 アゼリアは人が苦手だ。ルピナス以外と、不思議とディモル以外の人とは、まともに話すことができない。でも、それでも嬉しいと思う気持ちはある。ルピナスと目を合わせた。そっと彼女も頷いた。人間嫌いの妖精だったが、ディモルとの出会いで、彼女も少しずつ変わろうとしていた。



 アゼリアは、バーベナに気持ちを伝えた。たどたどしくて、恥ずかしくなる思いだったが、ゆっくりと紡ぐ言葉を、バーベナは静かに待った。そして、最後ににこりと笑った。冷たい少女だと思ったのは、勘違いだ。春のそよかぜのような、暖かい笑みをする少女だった。

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