15杯目
久しぶりに、茶葉を卸そうと思って街に出た矢先だった。
周囲から隠れるように、あくせくと街を歩く。少しばかり傾斜がかったレンガ造りの道の端は、いつもちょろちょろと水が流れていて、庭園での小川を思い出した。ただここはひどく植物が少ない。それだけでさらに緊張が増してくる。アゼリアは森の中で生まれ育ったから、世間には疎い。
やっとの思いでたどり着いた店だった。鞄の中には出来上がった茶葉の袋をいつくか。
眼鏡の老人と瞳を合わせぬようにとそっぽを向いて小袋に包んだ茶葉を勘定台の上に置いた。「あいよ、次はもうちょっと多くしてくれ」 困って、少しばかり間を置いて、小さく頷いた。店主のため息にアゼリアはさらに小さくなる。毎度同じ言葉を言われて、断ることもできずに肯定して、忘れたころにまたやって来るの繰り返しだ。
口元にはぐるぐるにマフラーを巻いていた。少しでも顔を隠したい、という思いで買ったばかりだった。先代から貰った古いものをずっと使っていたけれど、ディモルと夜に話すようになって、自身の見た目にも、ときおり恥ずかしくなってきたのだ。高い値段のものではないからごわごわしているけれど、明るい色合いは案外気に入っている。つもりだったのだが、いざ街に出てみると、ひどく似合わないような気がして、やっぱり恥ずかしくなった。
真っ黒なローブは街中では逆に目立つと、合わせてローブも買い替えた。街の人間からしてみればこちらもありきたりな色に変えたが、それでもアゼリアにとっては大きな冒険だった。さっさと帰りたい、いや帰ろう、とそわついたときだ。軽やかな音と共に扉が開いた。
「やあ、だんなさま!」
愛想の悪い店主が、一瞬にして笑顔になる。なんだろう、と振り向くとディモルがいた。瞬時に顔を前に向けて、カチンコチンになった。そして現在である。
店主はアゼリアが調達した茶葉を、さっそくディモルに売り込んでいた。考えてみれば、ディモルはアゼリアの茶葉を茶会に持ってきてくれたのだ。それなら鉢合う可能性だってゼロじゃない。まったくそこまで考えが回っていなかった。「に、逃げるのよ、アゼリア! はやく、いますぐ!」 聞こえているわけがないのに、ルピナスまでもがひそひそ声で彼女の胸元で主張している。
(そんな、今逃げ帰ったところで逆に怪しいよ……)
ローブを新しくしていることが功を奏した。いや、夜は忘れてしまっているという彼だから、そんなことは関係ないかもしれないけれど。なんにせよ、ひどく気まずかった。昼間に会いたい、と言った彼に断ってから、まだ一度も会っていない。もしかしたら、もうディモルはやって来ないかもしれない、と色々な複雑な気持ちを飲み込んでいないのだ。
(でも、相変わらず茶屋に来たということは、今夜も来てくださるおつもりなのかしら)
愛想よく話し合う店主とディモルの隣で、アゼリアは深くフードをかぶって、そのまま足元を見つめていた。じわじわと出口まで後退して、このまま逃げ帰ることができるのでは、と少しの期待をしたとき、「ああ、あんた」 怪しげな動きをするアゼリアに、店主が気づいてしまった。「お代、まだ渡してなかったな、ほらよ」 ちゃりん、と勘定台に代価が叩きつけられる。
どちらかと言うと、彼女はおっちょこちょいだ。ぎくりと跳ねたときにフードがずれて、すとんと落ちた。うまい具合に店主はしゃがんで台の中を探っていたけれど、ディモルは青い瞳で、ちらりとこちらを見た。菫色の瞳が、ぱちりとかち合った。さあっと背中から嫌な汗が流れる。そのくせ、胸の中はどきどきしていた。
「あ、の……」
怖いのに、期待している。
ディモルは少しばかり首をかしげた。それからまた店主と向かい合った。おすすめやら、どうすれば美味しくなるのか。熱心に話をきいていた。拍子抜けたような気持ちだ。なんで、どうして、とアゼリアは二つくくりのおさげを握りしめた。そのときに気づいたのは、ディモルはアゼリアの顔なんて知らないこと。いいや、覚えていないこと。
夜の彼女は桃色の髪に菫色の瞳だ。今のアゼリアは瞳の色は同じだけれども、髪の毛は真っ黒で墨みたいだ。特徴だってまったく違う。
(私は何を考えていたんだろう)
ひどく恥ずかしくなった。そうして、マフラーで顔を隠していること自体もただの自意識過剰でバカみたいな気分になって、お気に入りだと思っていたそれを、鞄の中に入れてしまおう、としたときだった。
「それでだんなさま、今回もお噂の恋人様にお届けするんで?」
店主の軽口に、顔わずかに赤らめるディモルを見た。
こいびと。頭の中で言葉を繰り返した。もちろん、アゼリアは彼の恋人でもなんでもない。言葉の意味を考えて、一瞬の期待をしたあとに、ひどく愕然とした。ディモルが持つ茶葉が詰め込まれた箱は二つ。
そのときのアゼリアが、どんなに羞恥に顔を赤くしたのか。それはルピナスしか知らない。
(な、なにが、今夜も来てくださるおつもりなのかしら、よ……)
会いたい、と言われた言葉にもしかしたら、と思ったことは否定しない。なのに、本当にそれはディモルにとってなんてこともないことで、ただアゼリアだけが焦ったり、困惑したり、言葉の裏を無理に読み取ろうとしていた。土産だと言っていたそれは、自分だけに買ってきてくれているのだと、そう思い込んでいた。
とにかく恥ずかしくて恥ずかしくて、一刻も早く逃げ去りたかった。
ぺこん、と店主に頭を下げて、慎重に、と思っていたことなんて忘れて、声も出さずに必死に逃げた。「おい、お代!」 聞こえた言葉に慌てて振り返って、フードをかぶって、勘定台にある銅貨を失礼だと思いつつも手だけ伸ばして、背中を向けて逃げ去った。足元には彼女が買ったばかりのマフラーが落ちている。店主が叫んだ。
「おい、忘れ物!」
ディモルはただ、風のように逃げてしまった少女の背中を、瞬きながら見つめた。「まあいいか。次に来たとき、渡しゃいいだろ」 ぶつくさと言いながら、店主は彼女が落としたマフラーを拾って、台の中に入れた。
***
その夜のことだ。ディモルはひどく緊張に胸を痛くさせて、相変わらず小屋のドアを叩いた。出てきたのは桃色の髪の少女だ。「やあ、こんばんは」 いつもの風、を装った。アゼリアは、少しばかり間を開けて、ゆっくりと頭を下げた。
もちろんディモルだってここに来るまでの葛藤はあった。会うことは断られた。もしかすると、嫌われているのでは。迷惑に思われているのでは。会いたい、と思う気持ちを押し付けたくなんてない。でも彼は、好きだと日記に書かれた少女には、“まだ”会っていない。どんな人なのかすらもわからない。ただ胸の中に恋しい気持ちがあるだけだ。
気まずく別れたわけではない、と書かれた日記の言葉を信じて、小さな勇気を振り絞った。
出会って、テーブルを囲んで、好きなのだと噛み締めて、とにかく時間を大切にしたかった。一度昼間に見せてしまった顔だ。今度こそ見られぬように、としっかりとフードをかぶっている彼女の気持ちなんて分からない。ただ少しばかり元気のないようにも見えたが、それは夜の記憶は失ってしまう彼が、必死に持ち合わせた察しの良さだ。
どうしたのだろう、と声をかける前に、問いかけられた。
「……こちらの茶葉は、もしかすると、どなたかにもお渡しで?」
今日の土産だ。新しいものが入った、と店主の勧めのものだった。人の少ない時間を見計らって足を運んだものだ。ありがとうございます、と僅かに見える口元を緩めながらも、彼女は渡された茶葉をじっと見つめて、ぽつりと呟いたのだ。
可愛らしくリボンで包んだ紙袋だ。「え? ああ、まあ」 肯定の返事だ。ディモルが菓子やら、茶葉を噂の恋人に贈っている、という噂が回り回っていて、ごまかしはしたものの、自身への貢物はないのかしら、とわざとらしく声を上げる妹にも同じものを贈ったのだ。
恋人、という噂を思い出して目の前の少女を見ると、なにやら情けないような、申し訳ないような気持ちになった。
「……やはりそうでしたか」
ぽそりと呟いたアゼリアの言葉の真意まで、彼は飲み込むことができなかった。彼女は相変わらず、闇に溶け込むような真っ黒なローブを着ていて、まるでそのまま消えてしまいそうだった。
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