第三章 風に揺れる

14杯目


 パチリとベッドの中で目を覚ました。

 ちゅんちゅんと窓の外では雀が鳴く声が聞こえる。

 ひんやりした朝の空気の匂いを吸い込んで、さて、と伸びを一つして、僅かな緊張と共にチェストの鍵穴を回した。きっと、昨日も彼女に会ったはずだ。それならば。



 ゆっくりと日記のページをめくっていく。最後のページだ。


 彼女のことが好きなのだと書かれていた。それはひどく耳の後ろが熱くなる思いだったが、薄々気づいていたことだ。読み進めたあと、ディモルは長い溜息をついた。



「……そりゃまあ、そうだよな」



 名前だって知らないのだ。会いたい。そう言ったところで、断られたのは無理もない。





 ***





 彼の言葉を思い出す度に、ひどく胸が痛くなった。彼が月明かりの中でもわかるくらいに、両の耳を真っ赤にさせていたのは、寒さからなのだろうか。そう思った後で、もしかすると、と思ってしまう自分がいた。



 それからディモルには見えもしない姿であったが、もちろん、彼らの間にはルピナスもいた。アゼリアのバスケットの中で休憩していた彼女は、男の言葉にあんぐりと口を開けて、ぐるぐると目を回した後に「だ、だめに決まってるでしょ!?」と誰よりも早く返事をしていた。



 それに流されてしまったわけでは決してないが、思わず頷いてしまいそうになったあとに、アゼリアは慌てて首を振った。自身の本分を思い出したのだ。



 ディモルに案内をした花畑は、それこそ彼が言う“おじいさん”が言うように、庭師にとってとても大切な場所だ。アゼリアがときおり茶屋に卸す青い花とは別のものだが、あの花畑をイメージして作ったものだ。綺麗だなあ、と言ってくれた彼に、どうしても見せたくて無理をして連れ回してしまった。花畑は世話をする庭師の魔力を吸い取り、一年に一度だけ見事な花を咲かせ、すぐに散って消えてしまう。



 まったく、あの男はありえないわと怒りに震えるルピナスの声を、とりあえずは聞こえないふりをして、小屋の裏手のハーブに水をやった。背丈は高く、大柄で、小さな黄色い花がちらほらとついている。小屋の周囲は、少しばかり季節がおかしくなる。本来なら冬の間は水を好まないから控えめにすべきだが、たっぷりと水をやった。水はけも問題ない。



 アゼリアが土の具合を確認しようとしゃがみ込むと、小さな男の子が体育座りで丸まりこんでいた。「……え、えっ!?」 驚いて後ずさると、少年も逃げ場を失っていたのだろう。仕立てのいい服を泥だらけにして、口元を尖らせながら震えていた。金髪の少年だった。歳は十に満たないか、その程度で、庭師としてこの庭園にやって来たアゼリアを思い出した。



 なんとか少年に水をかぶせることはなかったものの、見上げた少年とパチリと瞳がかち合ってしまった。緑色の、深い森のような瞳だ。少年は、すぐさま瞳を恐怖に染めた。アゼリアと瞳を合わせると、人はすぐ同じ顔をする。ディモルが特別なだけだ。しまった、と顔を隠したところですでに遅い。ぼろぼろと少年は涙をこぼして、短い悲鳴とともに転がるように消えていく。



「……な、なんだったの?」



 悪いことをした、と思いながらも困惑も大きかった。「わからないけどさ」 アゼリアの疑問に、ルピナスが口をへの字にして、眉間にシワを寄せていた。「最近、妙な人間が多すぎるわ。土の精霊様に言っとかないと」 妙な人間、とはディモルも含めてのことである。



「本当にルピナスはディモル様のことが好きじゃないのね。なんでなの? いい人じゃない」

「私は、好色男が好きではないの」



 確かにディモルは社交界での噂の男だが、そうは見えない、というのがアゼリアの評価だが、それを押し付けるつもりもない。「じゃあ仕方ないね、それに確かに、精霊様にはしばらく会っていないし」 土人形の具合も悪い。調節のためにもそろそろお会いした方がいいかもしれない、と言いつつも、相変わらずむくれている妖精の小さな頭を、優しく人差し指で撫でてやった。



「ルピナス、大丈夫。ちゃんと昼間は会いません、と断ったんだから。隠れるはずの影が、明るい時間にお会いするわけにはいかないもの。ディモル様は、無理をおっしゃる方じゃない。だから、夜以外に会うことなんて、絶対ない。必要以上に関わることはないわ」



 彼が忘れてしまうから、夜には会っているだけだ。影と人とは交わらない。そう決まっているし、そうあるべきだ。小さな妖精は、相変わらず口元は曲げていたけど、納得したように小さく頷いた。「よし」 言葉はきついけれど、彼女は心配してくれているのだ。アゼリアの目の前から両親が消えてしまったそのときから、ルピナスは大切な存在で、親代わりのような友人だった。



「安心してね」



 そう言ったはずなのに。






 今現在、彼女の隣には覚えのある青年が勘定台越しに店員と話をしている。その隣にはアゼリアが。


(な、なんてタイミングの悪い……)



「ああ、今日は新作を入荷しているよ。運がいいねえ」

「それはありがたいな。一つ、いや二つもらおうかな」



 ぶるぶると震えながら、必死にフードを両手で寄せた。懐の中では、力の限り逃げるのよ! とルピナスが叫んでいる。おっしゃる通りそうしたいものの、あまりにも距離が近すぎた。不審なことこのうえない。すぐ隣で、ディモルが店主と楽しげに話をしている。



(ああもう)



 アゼリアは唇を噛み締めた。

 どうしろと言う話だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る