13杯目


 ひどく、日記に書かれた彼女が気になった。






 朝の日課を繰り返して、日記を読み込む。さて、昨日は何があったのか。相変わらず楽しげで、名前はやっぱり教えてくれなかったと、同じことばかりが書き込まれていた。何年も書いているものなのだから、少しぐらい表現力が上達すればいいのに、いつまで経っても変わらない。聞こえたため息は、自分の口元からだった。



 それから、ディモルは、毎度のごとく波のように押し寄せる手紙にため息をついた。

 なんでも、“ディモル・ジューニョは、嫁を探している”らしい。





 そんなことは初耳だ。





 ***





 心当たりがある、と言えばある。



 桃色の髪の少女で、瞳は薄紫。背はだいたいこのくらい、と自分の肩より下を叩いた。何度も読んだものだから、すっかり覚えてしまった。だから、ふとしたときに彼女を探した。どこで出会ったっておかしくないと思うと、覚えのある背丈だとか、髪の色だとか、瞳の色が近いと、もしかして、と声をかける。振り返った少女を見て、話をして、そんなわけがなかったと勝手に落胆した。



 馬鹿なことをした、と自覚はしている。けれども、そう多く声をかけたわけでもないはずなのに。



「お前、とうとう恋人ができたんだってな?」



 よかったなあ、とこちらの背中を叩いたストックに、言われて知ったことだ。なんだそれはと。


 ディモルがあくせくと菓子屋に寄って、ときには紅茶を買い揃えているのはディモル本人さえも知らぬ恋人に贈るためらしい。誰がどこから見ていたのかは知らないが、勘弁してもらいたい。恋人ができたのなら、まずは私に教えてくれるのが礼儀というものでしょう? と小生意気にこちらに人差し指を向ける妹に、全ては勘違いだと説明するのは骨が折れた。





 さて、恋人なんて、これからも、この先も作る気なんて毛頭ない。こんなおかしな体質に巻き込むことはしたくはないし、心が動かされる出会いなんて、今までなかった。それこそ、ほんの少ししか。それもすぐに忘れてしまった。



 ディモルが名も知らぬ少女のもとに通うのは、以前からそうしていたからだ。仕事が終わると、帰り道に誰かと鉢合わせてはたまらないから、人気の少ない庭園を通って、途中にある小屋の主に手を振った。やあ、今日も散々だったと口数が少ない老人とたわいない話を一方的にして、家に帰って日記を書く。その繰り返しだ。どうせ覚えていないのだから、夜はさっさと寝てしまう。



 老人が死んでしまったという言葉は、ひどくディモルの胸を重たくした。会ったことがあるのに、顔すらも分からない、不思議な寂しさがあった。“おじいさん”の墓に、せめてもの頭を下げたくて、もう一度向かって、今度は彼女のもとに行くようになってしまった。手土産は、彼女の時間を使ってくれる、その礼だ。深い意味なんてあるわけない。



 だから今日も、いつも通りに小屋の扉をノックした。とてもいい夜だった。空気がとても澄んでいて、冬の匂いがそっと染み入る。



「いらっしゃい、ディモル様」



 こんばんは、と彼は彼女に挨拶をした。夜の記憶をなくしてしまう彼は、この言葉を使ったことはない。きっと会う度に彼女に告げているはずなのに、口に出す度に緊張している。大丈夫だ、おかしなことはなにもない。言い聞かせて、今日も彼は“ディモル”を作る。



 彼女が深いローブをかぶっているのは、いつものことらしい。桃色の髪が、ちらちらと覗いていた。瞳を見たい、と思ってもディモルの方が彼女よりも背が高いから難しい。



「ディモル様、今日のところは、少しお出かけしませんか」



 いつもと少し違いますけれど、と言う彼女の“いつも”とは、庭にある丸いテーブルに座ってするおしゃべりのことだろう。困惑のまま、頷いた。でもそんなことはわからないように、必死を作り込んだ。何もかもが初めてだから、ひどく夜は怖くなる。でも、彼女にそんなそぶりを見せるわけにはいかなかった。





 小さな少女の背中を追いかけて、ディモルとアゼリアは、さくさくと道を進んでいく。薄く積もった雪に二人分の足跡をつけて、北に、北に。頭の上では、月がこちらを追いかけてやってくる。ほう、ほう。どこからか鳥の声が響いていた。ディモルが歩くと、枝に積もった雪がわずか溢れて、としとしと音をたてた。


 アゼリアは、バスケットを小脇にかかえている。こちらが持つと言ったのに、彼女は首を横に振った。いけませんよ、と子供を相手にするような仕草だった。



「……ねえ、どこに向かっているんだい」

「もう少しです」



 連れ回してしまって、すみませんと振り返って頭を下げる少女に、何を言いたいわけでもない。ただ少し、気になってしまっただけだ。ディモルは彼女と“初対面”だ。だから、何を話せばいいかわからない。でも彼の頭の中には、“ディモル”がいる。彼がどんな言葉を話して、どんなことをするのか。想像した。その通りに行動する。それだけだ。



(僕なら、こんなとき、何をいうかな)



 きっと名前を聞くだろう。何度目かわからないが、幾度もきいて、断られたと書いてあった。それならディモルは、同じ“ディモル”を作るだけだ。一皮むけば、ただの小心者である自分を知られたくなんてなかった。



「ねえ、今日こそ君の名前を――――」

「ああ、着きましたよ」



 森のような木々をくぐり抜けてやって来た。アゼリアが振り返るときと、その一面の光景が、ディモルの視界に飛び込んだのは同時だった。



 どこからか、風が吹いていた。


 ぽっかりと木々がなくて、広い草原のようなその場所には、青い花が敷き詰められて、月明かりがゆっくりと照らしていた。さわさわと風に揺れる花は、棘のないバラのような花だ。よくよく見ると、それは全て蕾で、きゅっと口元を閉じている。



「これは……?」



 ディモルが声を漏らした時、アゼリアは口元に指を置いた。ディモルはひとつ、瞬いた。すると音もなく、一本の花が溢れるようにゆっくりと蕾を開いた。



 それを皮切りに、ふたつ、みっつ。ゆっくりと蕾の花が開いていく。ほたほたと青白く、花は光り輝いていた。まるでいくつものホタルの光が集まったような、不思議な花畑だった。全ての花が月の光を浴びるように真っ直ぐに咲いたその瞬間、大きく風が吹いた。今度こそ、ディモルは息を飲み込んだ。



 アゼリアのローブが、海の中のように泳いでいる。ざあざあと、花びらが舞い散って、彼女の桃色の髪すらも揺らいでいた。



「雪の花だ……」



 勝手に、呟いた声をきいて、アゼリアは笑った。吹き飛んだフードを押さえながら、まるでいたずらっ子のように嬉しげな少女がいた。そんな彼女を見たとき、ディモルはひどく胸が痛くなった。





 星空が瞬いて、夜空を彩っていた。月のあかりは、彼が想像するよりもずっと明るくて、綺麗で、輝いていた。それはまるでここだけ時間が切り取られてしまったみたいだった。




 夜はとても美しいのだと、ディモルは日記に綴っていた。この花畑も、彼は以前に来たことがある。一夜きりで散ってしまう、青い小さな花畑。もう一度見たい、と日記に書かれた言葉はひどく陳腐で、いくら重ねたところで、この光景には敵わない。



 ――――毎日毎日、夜が来て、空を見上げた。そうする度に、ディモルは知った。“言葉では決して言い表せない”のだと。



 花がみたいとおっしゃいましたので、と照れたように声を落とす彼女が、ひどく可愛らしかった。彼女のもとに行くことに理由がないなんて嘘だった。会う度に、会いたいと思った。そのことを、日記には書かなかった。美しいと知った夜を、明日の自分に伝えることができないことが歯がゆくて、可愛らしいと感じた彼女を教えることが悔しかった。明日には伝わらない、消えてしまう想いが辛かった。



「ここは庭師にとって、とても大切な場所なんです。魔力で育つ、一晩かぎりのこの花を咲かせることができるのは、庭師だけです。だから、私達が庭師であることの証の場所なんです」

「……多分、僕は見たことがある。子供の頃に、自分に悔しくなって飛び出して、誰もいない場所を探したらしい。そのとき見つけた場所がここだ」



 そして、おじいさんがいた。


 幼い文字で書かれていた場所だ。「どやされたよ。ふざけるなと」 ここは大切な場所なんだ。子供がきていい場所ではない。そもそも、夜中にどうしてふらついているのかと。


 あまりの剣幕に、幼いディモルは震えた。生意気な子供だった。反骨して、失礼な言葉を吐き出した。そうすると力の限り怒鳴られて、腹が立って、なのに不思議と言葉が胸に残った。逃げるように家に帰って、苛立つ気持ちで文字を書きなぐって、翌朝見つめて首をかしげた。



 そのとき、どんな言葉をかけられたのか。できる限りの記憶で書き連ねた日記だ。たかが“庭師”がと腹を立てながら読み返しているうちに、奇妙に心に響いていた。美しい場所だった、と書かれた場所がどこにあるのか。書き忘れてしまっていたからわからなくて気になって腹の底がむずむずした。こっそりと夜に抜け出し、失礼な庭師と再会したのはそれからしばらく経ってのことだ。



 相変わらずの対応に腹が立って、日記に書きなぐって、朝が来ると忘れてしまって言葉を読み込む。ゆっくりと、彼の言葉を眺めると、少しずつ水のように染みていった。彼はまるで、本の中に住み込んだ、教師のようだった。ジューニョ家に伝わる呪いを告げるのは、後にも先にも彼一人だと思っていた。



「大事なことを教えてもらった。それこそ、忘れられないこともたくさんある」



 たかだか紙の上に書かれた言葉から知ったものだから、ひどく薄っぺらに聞こえたかもしれない。口に出したあとで恥ずかしくなって後悔した。なのにアゼリアはなんてこともなく、「ええ、わかります」 頷きながらゆっくりとローブをかぶりなおした。



「大切な方に告げられた言葉は、いつまで経っても忘れません。私にも、そんな言葉はあります」



 すっかり口元しか見えないけれど、きっと彼女は笑っているんだろう。彼女に大切と言われる誰かが、ひどく羨ましかった。



 きっと、ディモルは彼女に出会う度に好きだと知った。日記に重ねた小さな文字を拾って、いつしかたまらなく彼女と時間を重ねていた。



「会いたい」



 勝手に溢れた言葉に、大して驚きはしなかった。「僕は君に会いたい。こんな忘れてしまう夜じゃなくて、もっと違う時間と、場所で」 今この瞬間の彼女を忘れたくないと胸を痛くさせるのなら、昼間に会ってしまえばいい。



 すっかりと花びらは散ってしまっていた。寒さばかりが頬を叩いて、アゼリアは瞳を大きく見開かせた。







 さて。



 これは、誰しもが隠しごとをしている物語である。





 一人の子供が、転がるように走っていた。ぼろぼろと、涙どころか鼻水まで垂らして、なんとも情けない姿だ。「どうぜ」 呟いた声は、誰にも聞こえないように。「ぼ、ぼくのことなんて」 ひくつくような声は、いつものことだ。えんえんと、声を上げて泣いていた。



 一人ぼっちで泣いていた。

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